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194.マルチェナ④(8月17日)

窓のない小さな部屋、控え室あるいは物置部屋だろうか。燻んだ木の壁に沿って置かれたベッドに寄り添って座り込む老人が一人。そしてベッドに縛り付けられた呻き声を上げる白髪頭の男。扉の近くには一人の老婆が控えている。

情報量の多過ぎるその光景に、俺達はしばらく言葉を失う。


「こちらがマルチェナ領主、グレイシア男爵家御当主のラモン様。お伏せになられているのが次期御当主にして我らが衛兵隊長、エンリケ様でございます」


グレイシア男爵家のラモンとエンリケ。

地方貴族だろうが、ビビアナなら交流があるかもしれない。期待を込めて隣を見るが、彼女はフードを深く降ろしたまま無反応である。


「彼もテハーレスで負傷を?」


「いえ。エンリケ様はその後です。先の焼け落ちた廃墟、あれはこの街の公会堂だったのですが、そこに発症者を隔離している最中にこのように……」


「御当主はずっとそばに?大丈夫なのですか?」


「ええ。噛まれたり引っ掻いたりされなければ。同じ場所にいるだけで発症することはないようです。御当主様自らがそれを証明なされました」


空気感染ではなく、あくまでも接触感染するということか。

それが確認できただけでも精神衛生上の成果である。何せN-95マスクも医療用ゴーグルもないのだ。空気感染する何かにアフガンストールだけで立ち向かうのは相当不安だったのである。


「それで、その、治癒魔法は効きそうですかな?」


そうだった。クレアル達は俺達が“治癒魔法が使える”と知って態度を軟化させたのだ。正気を失って唸り声を上げる状態まで悪化した男に効くかどうか分からないが、今さら後には引けない。


「試してみる。ビビアナはバックアップ、アリシアは一緒に頼む」


「はい」


緊張した声で答えたアリシアが俺の隣に来る。“援護”という言葉を使わなかったのは、クレアル達を警戒してビビアナを待機させるわけではないとビビアナ自身に悟ってもらうためだ。


ベットに拘束されたエンリケの隣に立つ。その目はカッと見開いてはいるが焦点が合っておらず、半開きで泡を吹いている口からは意味のない呻き声を上げ続けている。彼の右手はグレイシア男爵家当主ラモンの両手でしっかりと包まれているが、ラモンが必死に抑え込んでいる様子はない。何らかのウイルスが脳まで侵入した結果の急性脳症。その末期症状にしか思えない。

脳に侵入。それなら血液脳関門を活性化させて脳神経に無用のタンパク質の流入を阻止できれば、これ以上の悪化は抑えられるだろうか。


エンリケの首から頭部を重点的に治癒魔法を掛ける。

アリシアには胸部から下肢の治癒魔法を任せる。

数分後には呼吸が安定し、罅割れたような皺だらけの顔に生気が戻ってきた。窮状は脱したようだ。

改めてエンリケの全身を観察する。

頭髪は真っ白で相当痩せて衰えてはいるが、決して高齢というわけではない。体内のスキャンを試みるのは初めてだが、確かに心臓の辺りに強い魔力反応がある。この魔力が何らかの理由、例えば心拍停止などの引き金で一気に固体化すれば、心臓の形をした魔石になるかもしれない。


「アリシア、浄化魔法を彼の心臓に」


「はい。皮膚の上からでいいんですよね?」


アリシアも昨日はAT弾に掛けた浄化魔法を屍食鬼に撃ち込んで浄化している。だからこその確認なのだが、目の前に横たわる男は弱ってはいるとはいえ未だ人間である。


「もちろんだ。効果があるかどうかはわからないが」


「わかりました。やってみます」


そう言ってアリシアがエンリケの胸に手を添える。

僅かな時の後に、彼の全身が白っぽい光に包まれた。


◇◇◇


どれくらいの時間が経っただろう。10分か20分か、30分は経っていないはずだ。

エンリケを包んでいた白っぽい光が薄れ、同時にアリシアの体が大きく傾く。アリシアの魔力の限界だ。

彼女の体を支えながら、エンリケの体内の魔力反応をスキャンする。

彼の心臓辺りに澱んでいた強い反応は消失し、普通の人間の反応と同じになっている。


「もう大丈夫でしょう。あとは体力の回復を待つ他ありません」


安らかな寝息を立てるエンリケの手をそっと離した老人が、俺の声を聞いてゆっくりと立ち上がり、深々と腰を折った。その肩は小刻みに揺れ、まるで嗚咽を抑えているようだ。


「顔を上げてください。それより、まだ苦しんでおられる方々を助けなければ。ご了承いただけますか?」


責任者の同意など不要なのかもしれない。

だが封建制度のこの世界で、領主の前で好き勝手するリスクは避けるべきだ。俺が頭を下げるだけで娘達を余計なイザコザから遠ざける事ができるのならば安いものである。


老人は声を忘れたかのように腰を折ったまま数度頷いた。

無理もないか……


「御当主様のお許しが出た。クレアル殿、奥に案内いただきたい」


もらい泣きしていたクレアルが涙を拭く。


「承知した。こちらへ」


まだふらつくアリシアの腰を抱いたまま室外に出る。どこかで彼女の魔力を補給しなければ。


数歩も歩かずに扉に行き当たる。これまた頑丈そうな閂が下された扉だ。扉の下方にはペット用のような小さな扉がある。フェルならば問題なく通り抜けられるだろうが、人間となるとルイサやグロリアでも難しいだろう。


「この先が広間の演台になっている」


「ここに多くの人達が……この中には何人の方々がおられるのですか?」


アリシアの問い掛けにクレアルが一度大きく息を吐く。


「54人だ。何人生き残っているか……いや、火の手が上がっていないから全員生きてはいるはずだが……」


「火の手?どういう意味ですか?」


「そのとおりの意味だ。部屋の中には油の壺があって、誰かが屍食鬼(ネクロファゴ)になったらまだ意思のある者が火を放つ手筈になっている」


「そんな……そんな酷い……」


「これ以上犠牲者を出さないためだ。皆納得している」


そう言ったっきりクレアルの動きが止まった。

不審そうにビビアナがクレアルを見つめる。


「どうした?開けてくれないのか?」


「いや……しかしこの向こうには……」


クレアルが言い澱む。

扉の向こうからは呻き声、それも複数の人間の呻き声と異臭が漂ってくる。これはそう、アリシア達を助けた洞窟の入り口で感じた異臭と同じものだ。


「貴殿の家族もこの中にいるのか?」


クレアルはマルチェナ衛兵隊の副隊長である。年齢は40歳を超えたぐらいだろうか。とすれば配偶者や子がいてもおかしくはない。おそらく両親も健在だろう。


「息子がいる。まだ生きているはずだが……」


この中に身内がいる。ほぼ確実に変わり果てた姿で。

その姿を見るのが怖いか。


同じ状況なら俺はどうするだろう。

娘達ならどうするだろう。中にいるのがイザベルやアイダやルイサだとすれば、アリシアやビビアナなら躊躇なく飛び込むだろう。もちろん中にいるのがアリシアやビビアナだったとしても同じだ。

俺はどうする。

繰り返し見る夢。あの娘達と共に居れない喪失感を味わうぐらいならば、俺だって躊躇うことはない。


しかし万人がそうだろうか。

深呼吸すると腐敗臭が肺の奥まで染み込んで、意識が霧散しそうになる。

俺の腰に回されたアリシアの手に力が篭る。

逡巡した結果口にしたのは、クレアルを叱咤する言葉ではなかった。


「貴殿に頼みたいことがある。ツレがそろそろ戻ってくる頃だ。迎えに行ってはくれないだろうか。アルテミサ神殿から遣わされた者もその中にいるのだが」


無理と言う者に無理をさせる必要もない。

出来る事をやってもらおう。そして迎えに行くのも大事な役目だ。


「わかった。すまないが頼む」


クレアルが頷いて踵を返す。

その姿を見送ってビビアナが軽く溜息を吐いた。


◇◇◇


「アリシアさん。とりあえずお水飲む?魔力を回復させないと、次の浄化魔法が使えませんわ」


「ありがとう。でもそれより……」


俺の首のアフガンストールを掻き分け、アリシアが首を伸ばす。

暖かい感触、直後の鈍い痛み。

スッと血の気が引く。アリシアが俺から直接魔力を吸ったのだ。


「ご褒美、頂きました」


俺に体重を預けたアリシアが柔かに微笑む。だがその表情には影がある。無理もない。


「ちょっとアリシアさん!時と場所を!」


苦言を呈するかと思ったビビアナが途中で止めた。


「まぁ、あなたも頑張っていますわよね。今日のところは大目にみましょう。それよりも!」


今度はビビアナが俺の眼前にペットボトルを突き出す。


「カズヤさんの魔力のほうが心配になりましたわ!貴方は補給してくださいな!」


これを断る理由は無かった。

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