180. 赤翼隊②(8月9日)
赤翼隊の野営地のほぼ中央に張られた天幕の中で、赤翼隊隊長であるシドニア伯ガスパールが地図上に指し示したのは、ルシタニア領とバルバストロ領の境から距離にして100kmほど入り込んだ地点だ。街道が四方に伸びる要衝地、エルヴァスである。
「此処が俺達が今いるエルヴァスだ。ここから東に2日の距離までに小さな街が2つある。エシハとマルチェナだ。人口は合わせても3千に満たない程度。そのうちの1つ、マルチェナと連絡が途絶えている」
「定期便の往来が無くなったということですか?」
「そうだ。近い方の街、エシハとの連絡に支障はない。だがエシハとマルチェナ間の往来が止まっているらしい」
「荷馬車の故障とか、流行病の可能性は?」
「もちろんその可能性はある。いずれにせよマルチェナで何かが起きているのは間違いない。そしてあの噂だ」
「吸血鬼」
カミラの言葉にガスパールが頷く。
「そのとおり。マルチェナが連絡を断つ直前の報が、まさしく近隣の開拓村にまで吸血鬼が出たというものだった」
「籠城しているのかもしれませんね」
「そうだといいのだが。それでも既に1ヶ月近くが経過している。籠城も限界だろう」
「マルチェナ近隣の開拓村にまでと仰られましたが、その街以外にも吸血鬼が?」
「ああ。最初の報告はここ、ロンダ近郊のテハーレスという村だ。その時はロンダとマルチェナ、エシハとエルヴァスの衛兵隊が出て事態を鎮静化させた。総勢300人での大騒動だったらしい」
「鎮静化できたのなら、今回も衛兵隊が出撃すればいいだけのことでしょう?何故精鋭部隊である赤翼隊が出張ってきているのかしら?」
ソフィアの疑問にガスパールが苦笑する。
「さっき自分で言っただろう。人狩りに特化した部隊だと。だからだよ」
ガスパールの答えに娘達が顔を見合わせる。
「督戦隊のつもり?まさか……」
カミラが唇の端を少し噛んで黙る。
「もしかして吸血鬼は増殖しているのではありませんか?それも襲った村や街の人々の姿で」
俺には心当たりがある。
そもそもヨーロッパにおける吸血鬼のイメージは、狂犬病あるいは恐水症とも言われる感染症患者のそれとよく似ている。夜に活動する、ニンニクや十字架を嫌うなどのイメージは、瞳孔反射亢進に伴う日光の忌避や嗅覚過敏、先端恐怖症といった狂犬病の症状と同じである。
発症すればおおよそ7日ほどで呼吸障害により死に至るが、一般的にヒトヒト感染はしないとされている。
だが此処は異世界だ。精神錯乱などの神経症状を起こしつつも死に至らず、ヒトヒト感染するほどの感染力を持った狂犬病ウイルスがいないとも限らない。
「そのとおりだ。テハーレスでは50人ほどの村人を処分し、処分に当たった衛兵隊も半数が犠牲になったと聞いている」
処分……処分か。
カミラとソフィアを含め、皆が言葉の意味を噛み締めるように押し黙る。
「半数も犠牲になったとすれば、今回の騒動でも衛兵隊は出せない。そんなことをすれば街の治安維持すら困難になる。そこで国軍のお出ましというわけですか」
「ふん。お前、若いのに頭が回るな」
お前呼ばわりされたが、ガスパールの年齢は見たところ30代には入っていない。カミラやソフィアと同世代、自分自身が“若いの”呼ばわりされる年齢である。少なくとも俺自身の本来の年齢よりも若いのだが、そこは数百人を指揮する一隊の長として敬意を持って接するべきだろう。
「ありがとうございます。それで、現在の状況は?吸血鬼の浸透を座してお待ちではないでしょう」
「当然だ。斥候の報告によれば、隣街のエシハまでの通行に支障はない。今のうちにエシハの東側まで進出して陣を構えるべきだと考えている。お前はどう思う?」
「俺もその方がいいかと。移動は日中、夜間も灯火を絶やさず監視を密に」
「当然だ。ルイス、全隊に通達。魔物狩人と共に直ちにエシハ東方まで進軍する。準備出来次第出立だ」
「承知いたしました。直ちに」
ガスパールの後方で控えていたルイスが天幕から出る。
「さてと。出立の用意がある。此処にいては邪魔だ。お前さん達に各部隊の隊長を紹介しておこう。ついでに部隊編成も知っておいたほうがいいな」
そう言ってガスパールが促し、俺達は天幕を後にした。
◇◇◇
シドニア伯ガスパールという男、昨日の印象では“若くして爵位を手にした剛力無双の若武者”のイメージだったが、話してみれば“気のいい兄ちゃん”である。兵士にも部隊長にも慕われているらしい。
「ようマルコ!今回もお前の隊が先鋒だからな。期待しているぞ」
「おうよ旦那!うちの隊に任せとけって!」
とまあこんな感じで出立の準備で慌ただしい野営地を縫うように部隊を紹介してくれた。
赤翼隊と一括りに言うが、その編成は重装歩兵300、盾兵100、槍兵100、弓兵100の600人の戦闘部隊と、兵站を担う部隊200人の総数800人からなる大隊規模の部隊である。
それぞれの部隊に中隊長に相当する部隊長がおり、中隊長隷下に50人規模の小隊、10人規模の分隊に分かれている。
先のマルコは重装歩兵中隊長第1小隊第2分隊の分隊長であるらしい。つまりガスパールという男は大隊長でありながら分隊長の顔と名前に加えて戦歴まで把握しているのである。
総数800人といえば都市部の高校生徒教職員合わせたぐらいの数だろうか。その校長が各クラスの各班の班長の名前と成績、人柄を把握する……まああり得ないことでもないだろうが、なかなかに骨の折れることだろう。
だがこの男はやってのけている。それだけでも尊敬に値するように思う。
◇◇◇
日が中天を過ぎる頃に部隊は進軍を開始した。おそらくは予期していたのだろうし、野営地といっても張られた天幕は一張りだけだったようだ。大半の兵士は起き上がり鎖帷子を身に付け武具を持つだけで出立できる。準備に時間を要したのは輜重兵のほうだろう。
ともかく、重装歩兵中隊を先頭に行軍が開始された。
俺達は魔物狩人として馬車を伴って先頭部隊に加わった。
夕刻前にはエシハまで半日足らずの地点に到達し、一泊の後に目的地であるエシハ近郊まで辿り着いた。
道中俺達と同行したのは……
「あん?俺は重装歩兵の連中と一緒に行動する。いつものことだぞ?」
シドニア伯ガスパールである。
赤翼隊隊長にして大隊長の位にある者が先頭部隊に加わるなど、いささか常軌を逸しているように思う。普通は後衛か、あるいは中央部隊に位置するのではないだろうか。昨日は重装歩兵の後列、槍隊と盾隊の間にいたではないか。
その彼が俺達の馬車の左側面に自身の騎馬をぴったりと寄せて付いてくる。馬車の手綱はカミラが握り、ソフィアが荷台に下がったから、自然と俺が御者台の左席に移動している。その真横に騎乗したガスパールが寄せているのだ。
「作戦行軍中は重装歩兵隊を直接指揮する。陣を構えたら盾隊を全面に出し、指揮官はその後ろ。それが一番戦況がよく見えるからな。地形によっては指揮官だけが高所に陣取る時もあるが、そんな状況は小競り合いではなかなか無いな」
「高所を取るのは戦さの常道ではないのですか?」
「常道か。常道ではあるが多勢に無勢では包囲殲滅されるかもしれないぞ。お前達だってマンティコレに追われて木に登る愚は犯すまい?」
「増援ないしは救援がすぐに来ると分かっていたら、もしかしたらそんな選択もするかもしれません」
「まあな。だが俺達の救援に駆けつけるような部隊は、まあなかなか居らんだろうよ」
ガスパールは自らの部隊を懲罰部隊と称した。
設立当初の目的はともかく、新しい戸籍と仕事を求めてならず者や曰く付きの者が加わっているのは事実だろう。
だが接してみると彼ら自身が悪人のようには俺自身は感じていない。娘達は未だ人見知りの段階のようだが、年長者で自身も元軍人であるカミラとソフィアは、赤翼隊の面々にあっさりと馴染んでいる。
「そう自嘲することも無いでしょう。成り行きとはいえ、俺達も行動を共にしているわけですから」
「ふん。子連れの魔物狩人か。若い狩人は珍しくもないが、年端も行かない女ってのは珍しいな。大丈夫なのか?」
「ええ。ルイサは優秀な魔物狩人になる素質があります。グロリアのほうはまあ……」
口を濁そうとする俺をガスパールが遮る。
「違うな。俺が言いたいのはな……」
ガスパールが口にしたのは、俺が薄々気付いていて敢えて目を背けていた現実であった。





