クズ
自分でもまったく気づかないうちに年月は経ち、僕は大人になっていた。
畳の上に座る僕の目の前には、見慣れた顔ぶれと辛うじて豪華と言えなくもない料理、安っぽい酒がある。
僕は、どうしてこんなところにいるのだろうと思った。
とにかく夢のない子だった。
小学校から中学校まで、自分の「なりたいもの」だとか「将来の夢」だとかが全く無かった。諦めていたわけではなく、現実を見ていたわけでもなく、例えば「プロ野球選手になりたい」といった光輝いた目標がまるで無かったのだ。
よくある話だが、そんな時に出会ったのがロックで、僕はそれから音楽にのめりこむようになっていった。高校の時にできた友人にバンドに誘われてから、僕の人生は加速していった。
毎日ドラムを叩いた。ひたすら叩いた。それこそが自分の道だと信じて疑わなかった。
しかし高校3年の時、その友人が交通事故で死んだ。
僕は信じることができなかった。自分の信じてきたものや、今までの人生が一瞬で崩れ落ちた思いだった。知らせを受けた当初はとても受け入れがたいものだったが、月日が流れるにつれて友人の死を実感するようになった。
他のバンドメンバーたちはそれぞれの道を歩みだした。
僕はといえば、それからしばらく何の希望もない生活を自堕落に送っていたが、そのままなんとなく大学に入ってなんとなく卒業し、今ではなんとなく一般企業のサラリーマンになっていた。
通勤電車でいつも前の席に座る頭の禿げたおっさんも、窓から流れる殺風景な景色も、もう慣れてしまっていた。
2か月前に彼女とも別れ、それなりのアパートに一人暮らし。毎日誰もいない家に向かって呟く。
「今日も会社に行ってきます」
今日、僕は高校の同年会に出席していた。特に断る理由も無かったので「なんとなく」来たのだが、特に楽しむようなことは無かった。
再会を喜んでくれる友人はたくさんいた。僕は笑って話していたが、それが愛想笑いだと自分で自覚した瞬間に笑えなくなった。
僕はさっきからちらちらと横目で見ている。
高校の時の彼女だ。入学して5か月ほどで告白され付き合った。僕も彼女のことが気になっていたので、それからしばらくはまさに理想の高校生活と言っても良かった。
僕は彼女にとにかく尽くしたが高校3年の時に別れた。彼女はすぐに他の男と付き合い始めた。怒りは無かった。悲しみもそれほどでは無かった。ただ、虚しさだけだった。
僕は彼女を愛していた。しかし、彼女にとって僕の代わりはたくさんいて、なんにも特別な存在などではなかった。それは今となっては僕にとっても同じだった。ただの都合の良い遊び相手だった。
その後の友人の死もあり、僕は一人どこかに取り残された気持ちになった。
そんなことを思い出していた。
彼女はもう既に結婚しているらしく、薬指に指輪がはまっていた。友達と話しながら、それを見せびらかすように笑いながら手を振っている。爪にはネイルが塗られていて、さらさらとした髪を自慢するようにかきあげる。
綺麗だ。僕はそう思った。僕の思い出と変わらずに彼女は綺麗だった。でもその美しさはもう絶対に僕のものにはならないということも理解していた。
ああ、あの綺麗な顔がぐしゃぐしゃに歪むくらい悲しんだ顔を見たい。僕を傷つけた美しい彼女が傷つけられるところを見たい。そして僕に抱き着いてほしい。もう離れないで、と泣いてほしい。
僕は正真正銘のクズだ。
そんな僕の肩を誰かが叩いた。
振り向くと、中学校から一緒だった友人だった。顔を見るのは久々だった。
「ちょっといいか」
彼は手招きをして歩いて行った。僕は何も聞かずに立って後ろについていった。
彼は外にでると、店の前に並べてある椅子に腰かけた。
そして、タバコを取り出すと火をつけ、上手そうに吸った。
「お前もどうだ?」
僕は禁煙してるから、と断った。彼はそうか、と薄く笑った。
そして彼は黙った。僕も口を開かなかった。肌寒い風に、手を擦り合わせているだけだった。彼がなぜ僕をここに呼んだのかは分からないが、こっちから尋ねる気はなかった。
彼とは中学校の頃、とても仲が良かった。こんな僕だが何故か好かれるタイプで、友達は多い方だった。
高校2年の時、彼はクラスの男子を殴って退学になった。その男子は理論的な性格で、それでいて自分の思い通りにならなければキレる奴だった。気のいい奴ではあり、僕も仲が良かったが、殴られて可哀そうだとは思わなかった。むしろ、そうなって当然だと思っていた。殴られた理由は忘れるほど些細なものだったが、顔中が腫れるまで殴られた男子は自分がなぜ殴られたのか、理解できていないようだった。
僕は彼の吐き出す煙と自分の白い息を重ねて見ていた。
「なあ」
ふいに彼が口を開いた。
「憶えてるか?昔、皆でこうして集まったの」
僕は頷いた。確かあれは中学の頃、卒業祝いだった気がする。
「あの頃は楽しかったよな。こんなこと言いたくねえけどよ」
僕はまた頷く。あの頃が一番穢れなき時代だったんじゃないだろうか。皆が馬鹿やってた時代なんじゃないだろうか。
「くだらねえ大人になっちまったよ」
僕は彼の横顔をずっと見ていた。彼は自嘲するように声をださずに笑った。
いつもなら笑って誤魔化すはずなのだが、今だけはそれはできなかった。
前もそうだった。彼が男子を廊下で殴った後に平然と教室入ってきた時、怯える同級生の中で僕だけが黙って座っていた。いつも周りの顔色を伺いながら生きる僕が。僕はその時なんの恐怖も感じられなかったし、なんの違和感も無かった。僕は彼の行動が間違ったことは思っていなかったし、いちいち騒ぎ立てたくも無かった。彼は僕の前の席に座り、僕に向かって微笑んだ。
彼と僕はどこか一緒だった。
僕は星空を見た。
確かあの時も、皆で帰りに星空を眺めた気がする。ただ、もう今はあの時とは違う。もう昔のようにはなれない。もっとも、戻りたいとも思わない。それから起こることを僕はすべて知っているし、変えることもできない。
もしも運命が決まっているとしたら、だ。もしそうだったら、過去に戻れたとしても運命を変えることなんてできない。運命を変えることさえ「運命」で決まっているのだ。
今この瞬間、どれだけ逃れようと足掻いたとしてもそれもまた運命だ。僕らは網から解放された気になっている水槽の中の魚と等しい。決められた運命の中で足掻いているだけなのだ。
「幸せになれた」も「こんなはずじゃなかった」も運命の中。神様の手のひらの上だ。
何が神様だ、くそったれ。
僕は風で転がってきた空き缶を蹴飛ばした。空き缶は流れ星と並行して落ちていった。