正義の意味
田淵愛美のことを振り返る間も無く、車は二区画ほど移動して止まった。深夜だということもあって、人通りはない。
「次はどちらに?」
吉田が振り返る。
「問題は、リーダー格の男に憑依しているあの鬼だ。田淵愛美の鬼を祓ったことで、呪詛がそちらに返ってきてるはずだ」
蒼龍が「どうする?」と端然とした声で問う
「追います」
裕樹は、ポケットの中から、木札を一枚取り出した。田淵愛美に取り付いていた鬼の体液を染み込ませてきた。それを両掌で包むようにして、ふっと息を吹きかける。
そっと両手を開くと、小さな小鳥のような式神が、手のひらに乗っていた。
「飛梅。呪詛の痕跡を辿れ」
ほんの少し開けた窓から、式神が外へと飛び出した。
「小山さん、あの式神を追えますか?」
運転手に声をかける。
「承知しました」
当然のように、運転手も視える人だ。車はすぐに、夜の街を走り出した。
照明に照らされる看板に「鳥取砂丘」の文字が見える。
飛梅は、鳥取砂丘を通り越して、さらに先へと飛んでいく。
「こんなところにいるんですかね?」
目を凝らして、宙を行く式神の姿に集中しながら、助手席の吉田が不安げに尋ねる。砂防林に挟まれた狭い道路は、海水浴場のある小さな漁港にたどり着いた。近隣には住宅が数件。深夜ということもあり、どの家の明かりも消えている。
「岩戸神社」と書かれた鳥居が、海に向かって立っている。その鳥居の周りで、飛梅がパタパタと空中をホバリングしている。
「神社ですか?」
少し遅れて車を降りてきた吉田が二人に尋ねる。
「いや、たぶん、この先です」
手元に戻ってきた飛梅を指に留まらせながら、前を見据えたままの裕樹が言う。道の行き止まりの先の広場に、車が一台止まっている。
「木村の車です」
急いでナンバーを確認した吉田が、二人を振り返る。車が止められた先には、遊歩道が続いている。
「この遊歩道の先に、小さな滝があります」
「なるほど。ではその辺りかもしれませんね」
飛梅が静かに飛び立つ。裕樹は、手に提げてきた太刀を腰に穿いた。蒼龍は、相変わらず太刀は左手に握ったままだ。
「鳥ヶ谷に、こちらにも人員を裂くよう連絡しろ」
式神が飛んでいく姿を横目に見ながら、蒼龍が吉田に指示を出す。
懐中電灯を握りしめた裕樹が、暗い階段を登って遊歩道に入る。蒼龍がその後に続く。二人は、前後に並びながら、飛梅の姿を追いかけた。
波の音を聞きながら狭い遊歩道を奥へと進む。
5分も進むと、すでに飛梅の力を借りなくてもわかるくらいの禍々しい邪気が、道の先から漂ってきていた。遊歩道は、一旦行き止まりになって、下へと続く石段が伸びていた。
「炙りだします」
裕樹は、そういうと、遊歩道脇の木の幹に手を触れた。
ポワッと手元が光る。
「出でて捕らえよ」
枝葉から蔦のようなものがシュルシュルと這い出てきて、見る間に先の暗闇へと伸びていく。
見事な手際に、蒼龍が「ほう」と感嘆の声を漏らす。
遊歩道を離れた崖の上の方に人の姿が現れたのは、それから程なくだった。
「木村勝俊だな」
名を呼んではみたが、気配は、すでに人のものではなかった。
寝待ち月の明かりに照らされて、そのシルエットが夜の闇に浮かび上がる。
男の手には、何かが握られていた。それが、人の腕と首であることはすぐにわかった。
「ふふふ。貴様らか。俺の術を返したのは」
脳の底を舐めあげられるような不快な声だ。鬼火が木村の体を覆う。濃厚な気配が形を成し、木村の体を飲み込むようにして鬼の姿が顕現していた。体の半身がやけだだれたようになっているのは、裕樹たちが返した呪詛返しに当たったのだろう。
「典膳様のおっしゃる通り、厄介な連中だな」
「典膳!? きさま!土御門典膳の!」
鬼の双眸が赤く光る。右手に持つ人の腕の断面に、ガジリと食らいつく。失われた力を取り戻そうとしているのだ。
裕樹は、通行止の柵を乗り越えて、遊歩道を外れて山道を駆け上がった。
必死に崖を駆け上がると、岩場の上に鬼が立っていた。足元には、何体かの死体が転がっている。木村の部下の四人なのだろうと、裕樹は直感で思った。
裕樹は、鬼と化した木村と対峙していた。人の形は保っているものの、その気配に、すでに人の面影はない。
真っ赤に燃えるような双眸は視点が定まらず、口からはどす黒い瘴気が吐き出されている。爛れた左半身に、呪詛返しの札が張り付いている。蒼龍が、坂巻の形骸にしかけておいた呪詛返しの札だ。
「貴様のせいで、田淵愛美が死んだ」
「俺のせいで?」
クククッ
と木村が低い声であざ笑った。
「あの女の情念が、自らの命を奪ったのだ。俺はただ、それを見守ってやっただけ」
「ふざけるな!」
「この男もだ。そしてこのクズどもも」
木村が、足元の死体を蹴り飛ばす。グチャッと音を立てて、首が一つ転がった。
「金のためならなんでもする。こんな連中はたくさんいる。人の情念、怨念は、尽きることがないな。我らにとって実に良い贄となる」
ハハハハハッ
腹立たしいほどに不快な笑い声。
「貴様!!」
「お前も、我らの贄となれ」
木村の体が揺らいだ。グッと瘴気の渦が動いた。ぶつかってくるモノを、勘だけで横に飛んでかわす。月明かりがあるとはいえ、夜の闇の中では視覚に頼っての戦いはできない。裕樹は、相手の気配に意識を集中する。憑依されて鬼に変じた木村の体からは、濃青緑色に見える気が陽炎のように立ち上っている。裕樹は、その陽炎を全身で視ようとしていた。
ぎこちなく動く木村の体が、再びこちらに向かってきた。
裕樹の剣尖は見えなかった。
一瞬で間合いを詰めて、左下段から右上にかけて。逆袈裟に薙ぎ払った刃が、木村の体を真っ二つに両断する。
「おのれぇぇ!!」
断末魔の叫びをあげながら、木村の腕が裕樹の腕を掴み、強引に後ろに引く。その先は崖だ。
(くそっ!)
やばいと思ったがもうどうにもならなかった。木村の上半身が、重力に引かれる。ガラガラガラッと、音を立てて足元の岩場が崩れる。
共に落ちていく体を、裕樹には食い止められなかった。
(下は、海岸の岩場か……)
不安定な体勢で落ちていく自分を、冷静に捉えている自分がおかしかった。木霊を呼び出そうにも、左手を掴まれたままで自由にならない。
落下を始めた裕樹の体は突如、宙に浮いた。左手が自由になる。
その次の瞬間。頬に触れたのは、柔らかくてもふもふの毛の感触だ。
二度ほど何かを蹴るような弾む反動があって、裕樹の足は再び大地に着いた。化け猫の背中の上にうつ伏せに乗せられている状態だ。
体を起こすと、先ほど裕樹が戦っていた崖の上だった。
「無事か?」
「蒼龍先生!」
木の陰から、蒼龍が歩み出てきた。
裕樹が乗っていたのは、虎のような柄の大きな化け猫だった。
「虎風さん」
「無謀だな、お前は」
自らの背を降りた裕樹を振り返り、大きな獣は、呆れたような口調で見上げる。
「ありがとうございます」
虎風のニッと笑った表情には、これまでになかった親しみが含まれているように見えた。
「こいつは昔から命知らずだったな」
そう言って鼻で笑ったのは、もう一匹の化け猫、龍風だ。
「命知らずなのは、面白いから嫌いじゃない」
ふふん。と、虎風が鼻で笑う。
崖の淵に倒れ込んでいる木村の下半身から、内臓がずるりとこぼれ落ちて崖の方に流れた。岩場には、ざっと見えるだけで三人の遺体が折り重なるようにして倒れている。
「蒼龍先生。木村は……」
「やはり、あの男を操っていたのは天赦鬼道宗の手のものだろう」
裕樹は、その1体1体に目を落とした。
「どうだ? 初めて人を斬った感触は」
蒼龍が、容赦ない現実を裕樹に突きつける。辺り一面に漂う濃い血の臭いに、これは夢ではないなのだと再認識させられる。
裕樹はこの夜、二人の人間の命を奪った。田淵愛美と木村勝俊。田淵も木村も、憑依されて鬼となった。憑依されていたとはいえ、人であったことに変わりはない。まだ感情が昂ぶっている。それでも、太刀が人体を切った感触は、この手に残っている。ここまで任務のことでいっぱいいっぱいだった裕樹の頭に、ようやく冷静な思考が戻りつつあった。
「田淵愛美は、坂巻利昌にひどいDVを受けていて、それを見かねた親族によって、1年ほど前に別れさせられたようだ。ただ、本人はいまだにあの男を愛していた。DVを受けてもなお消えない、ゆがんだ恋心を、木村に利用されたのだろう」
生霊の被害に悩まされていた男が実は最初の加害者で、その男によって人生を狂わされた女が死んだ。助けたはずの男が、実は女が闇に落ちた原因だったと改めて聞かされて、裕樹は一瞬言葉を失った。公園の暗がりで、この手にかけた一人の哀れな女の人生を思う。自分が男を助けたことは正しかったのか。さまざまな葛藤が、一気に押し寄せる。
蒼龍は、裕樹からの答えを待つことなく、胸ポケットから携帯電話を取り出して吉田を呼び出している。
東の空が、だいぶ白みかけてきていた。
長かった1日が、ようやく終わった。
*****
吉田がすでにSICSに連絡を済ませていたのだろう。車を止めた空き地まで戻ると、パトカーを含めた何台かの車両が集まっていた。
SICSの刑部から鳥取県警に派遣されている鳥々谷が、二人を迎える。
行きには暗くて見えなかったが、空き地の向こうはすぐに海だった。陸揚げされた船が何艘か、その手前に係留されている。
すぐに、遺体袋を持った警察官たちが、遊歩道に散っていく。
「行くぞ」
呆然と立ったまま海を眺めていた裕樹の背中に、蒼龍が呼びかける。もろもろの話が終わったらしい。
現場を、鳥々谷たちSICSの担当者に任せて車に乗り込む。改めて、地元警察に出動を要請したのだろう。こちらに近づいてくるパトカーの音が、遠くから聞こえてくる。




