血塗られた手に
鳥取で二日目の朝を迎えた。
蒼龍と二人で同室という宿泊にもだいぶ慣れた。
裕樹にとって意外だったのは、自分の“引率”のために来ただけだと思っていた蒼龍が、別の仕事を片付けていたことだった。蒼龍が鳥取に来ていることを聞きつけた近隣の術師が、自分が抱えている難しい祓いの依頼などを持ち込んでくる。と、蒼龍の使役する虎風から聞いた。昨日は、夜の神社の仕事から戻ったあと、裕樹が目を覚ました時にはすでに蒼龍の姿はなく、夕食時になっても不在だった。
裕樹はその間、吉田の車で、呪殺されたと思われている四人の遺族の元を訪ね、その四人が、一つの点でつながっていることを確認した。呪いを依頼した側と、呪いをかけられた側。二つのペアが、『呪い集団ROKU』を介してつながっている。これで、今回の案件の大方の謎は解けたも同然だ。
鳥取滞在三日目となる日曜日の今日。
裕樹達の乗った車は、のどかな田園風景を横目に、かれこれ一時間ほど走っていた。道は次第に狭い山あいに入っていく。
今日は、高根沢と名乗った女性が中務から同行する担当官だ。通常は、担当官が一人で、運転も諸々の手配も担当するということだったが、出張っているのが天御柱の長官ということもあり、今回の任務では、担当官とは別に運転手が付いての移動だ。裕樹も、中務所属の人には、学院内やSICS の本部でも何度か会っているが、どの人もみな、デキる人ばかりだ。一定以上の霊能力の才を持ち、呪術の知識を持ち、その上で実務的な能力にも優れているので、兵部の呪術師よりも人間として優秀に見える。今回の吉田、高根沢の二人も、その例外ではない。
「該者は、半年ほど前から、耐えられないほどの倦怠感や頭痛に悩まされていて病院にかかっていたそうですが、一向に原因がわからず、心配した友人が、観世寺を紹介したようです。観世寺の林智勇住職は、天御柱の呪術師で、霊視のほか、厄除け方位除けなどの祈祷を得意としています」
助手席の高根沢が、軽く後部座席を振り返りながら、目的地の説明をする。
今回の任務の発端は、その男性が、智勇住職の見立てで、生霊に憑依されていると判明したところから始まる。
「これがまた、祓っても祓ってもまた憑くということで、SICSで調査をしたんです。そうしたら、二年ほど前に別れた女性が怪しげな占い師にはまっていて、祈祷団体に祈祷を依頼している疑惑が浮かび上がってきたんです。今朝連絡いただいてすぐに、その坂巻利昌さんにコンタクトを取ったのですが、ここ数日特にひどい状態で寝たきりだそうで、そのまま観世寺に搬送して保護しています。あ、それと、もう一つ頼まれていた案件ですが、巫女装束で一昨日の神社にいた『鈴木』という女性は、この店の占い師のようです」
裕樹が付けた御神木の精霊「カゲフチ」が、女性の名前と居場所を伝えてきており、それを元に調べてもらった結果だ。
SICSの調査能力は極めて優秀だ。こんな地方の都市でさえ、依頼から一日ほどで、知りたい情報が集まってくる。式神が撮影したと思われる隠し撮りの写真が数枚添付された資料が、蒼龍に差し出される。
「どうやらこの店のオーナーが持っているビルが、『呪い集団ROKU』の拠点のようで、報告通りの人相の男女が出入りしています。木村、丸田、笠井、鈴木、飯坂というのがその五人のようです。先ほどの鈴木は、リーダーである木村の愛人のようですね。木村の自宅住所も調べが済んでいます。普段は『ドリーミー』という名前の普通のよくある占い館で、複数名の占い師が所属し、対面や電話での占いに対応しているようです」
「まじないに関しては裏メニューということか」
資料にざっと目を通しただけで裕樹に差し出しながら、蒼龍が尋ねる。
「はい。相談者の中で“まじない”を希望する人に対する特別なメニューだったようです。ただ、その話を持ちかけるかどうかは、慎重に選んでいたようですね。常連で秘密保持の信頼ができるかとか」
「金払いがいいかどうか、か」
「まさにそうです。それで、通常のSICSの調査網に引っかかってこなかったんです」
“まじない”を行なっているような集団は、常にSICSが追跡対象にしている。まじない自体は悪いことではなく、術師の飯のためでもあるので、ほどほどには容認されている。しかし、その対象が悪質な霊障や呪殺を起こすようなものであれば処断の対象となる。
「依頼主の女性は、田淵愛美。市民病院のナースです。昨日は非番で、今日は病欠で休んでいるようです。マンションは、占い館のある場所と同じく鳥取市内です。二つ目のファイルに情報が」
「現場までどのくらいかかりますか?」
裕樹の問いかけに、高根沢は住所と時計を交互に見た。
「そうですね。観世寺から田淵のマンションまでは、昼間なら二時間、夜なら一時間半ってところでしょうか」
*****
「指示通りすぐに結界で囲みました。私には霊障の本体が捉えられないのですが、これで大丈夫でしょうか?」
出迎えた智勇住職が、半信半疑で尋ねる。
坂巻利昌は、観世寺の本堂に寝かされていた。周囲を五色の紐で囲んだ結界で守られている。
「これは本当に丑の刻参りの呪詛なのでしょうか?」
なにしろ、丑の刻参りなんて古典的な呪術自体、今の時代ではほとんど見る機会もない。膝をついて、苦悶の表情を浮かべる坂巻の体を確認している蒼龍は、
「裕樹、お前の見立ては?」
と、反対側で同じように男性の体を見聞していた裕樹に質問を振る。
「一昨日前の現場を見る限り、これは、丑の刻参りの呪詛そのものではなく、“丑の刻参りが成ったと思っている”生霊の仕業かと」
裕樹が視線を移した先、坂巻の腰のあたりに絡みつくようにして、黒い怨念のこもった霊体の気配がある。
「俺も同じ見立てだ。丑の刻参りの呪詛なら、とっくに死んでいるし、こんな風に徐々に弱ることはありえない。とはいえ、」
蒼龍は、ゆっくりとした動作で立ち上がった。
「この生霊は厄介だぞ」
額にかかる前髪を、左手で軽く搔き上げると、深い青の眼でまっすぐに生霊の霊体を見つめた。
「呪がかけられているのは、この女性の方ということですね」
「正解だ。大事な金づるだからな。で? どうする?」
容赦無く試してくる蒼龍の視線から目を逸らし、裕樹はもう一度、目の前の生霊の姿を視た。
*****
昼間、簡単なやり取りをしただけなのに、十九時過ぎに再び車に乗った時には、車内には簡単な食事と飲み物が用意されていた。
「あまりたくさん召し上がるのは好まれないかと思いまして、おにぎり程度ですが、もしよろしければ」
と、高根沢。
「田淵愛美の在宅は確認しています」
優秀すぎる。こちらが要求するはずの仕事を、先回りで準備してくれている。一時間半ほどの移動時間の間に、『呪い集団ROKU』が関与したと思われる事案が他にもあることなど、新しい情報が提供される。
観世寺の本堂で五色の紐で結界された中に寝かされていた坂巻利昌の方は、いったん除霊し、木霊を召喚した結界で二重に防御をしてきた。それに加えて、椿の精霊を式神とし警戒に当たらせ、坂巻の形骸体(要するに、坂巻に見立てた人形だが)を囮として堂内に置いてきた。万全の対策はしたが、念のため不測の事態が起きた場合のことを智勇住職に頼んできた。
そして今。
車は、田淵愛美の住んでいるというマンション前の駐車場に止まっている。
「田淵愛美が、再び生霊を飛ばして形骸を攻撃すれば、その瞬間に呪詛が返る」
ゆったりとシートに身を委ねたままの蒼龍は、膝の上に乗っている虎柄の猫の背を撫でている。
「はい。説得できればします。できなければ祓います」
裕樹は、自分の声が緊張で少し震えているのを感じていた。呪詛が返れば、その瞬間に命を落とすこともありうる。無意識に握りしめていた手が、じっとりと汗をかいている。
「三階の一番奥が彼女の部屋です」
車外に出た。続いて降りた高見沢が、部屋番号を告げ「部屋を開けるのに使ってください」と、小さな小瓶を差し出す。中に入っているのは、鍵穴に入って鍵を開けることができる蟲。SICSが作っている使い魔の一種だ。
「まずいな……」
激しく何かが割れる音が夜の闇を切り裂いたのは、蒼龍がそう呟いた直後だった。
「裕樹、部屋に急げ!」
名前を呼ばれた直後に反射的に駆け出していた。
階段で一気に三階まで駆け上がる。
廊下にまで溢れ出しているものすごい瘴気に、裕樹は思わず顔をしかめた。「ぐっ……」
押し寄せてくる圧力に数歩下がる。
それから、意を決して廊下を走り、田淵愛美の部屋のドアを木霊を召喚して思い切り蹴破る。
ドロドロとしたヘドロのような赤黒い瘴気が一気に溢れ出してくる。土足のまま踏み込むと、カチカチと不気味に不規則な点滅を繰り返す室内灯の下に、田淵愛美がうずくまっていた。
「どうして? どうして? どうして戻ってきてくれないの? ねェ、ドウシテ……ドウシテナノォ???」
資料で確認した田淵愛美は、ちょっと童顔な可愛らしい女性だった。どす黒い瘴気に包まれる様にして、髪を振り乱し、狂ったような叫びを上げている目の前の人が、同じ女性だとはにわかには信じられない。
「落ち着いてください」
室内に踏み込んで、裕樹は務めて穏やかな口調で呼びかける。
「く〜る〜なぁぁ」
耳障りな音。
「ぐっっ……那由他!」
いきなりぶつかってきた拒絶のプレッシャーに対抗するため、裕樹はすかさず、使役している藤の花の精霊の名を呼んだ。コンマ何秒の一瞬で、裕樹の周りに結界が形成される。放出された禍々しい瘴気が、その結界に弾かれて四方に散る。
「田淵愛美さん。落ち着くんだ。思い焦がれても、坂巻さんはあなたのものにはならない」
「坂巻」という言葉に、田淵愛美の動きが止まった。
「ワタシノモノニ、ナラナイ?」
「そうだ。坂巻さんとあなたは、もう別々の人生を歩んでいる。過去のことに、いつまでも囚われていてはいけない。あなたは幸せにならないといけない」
「ワカッテイル、モウ、ワタシハ………」
俯いていた田淵が顔を上げた。真っ赤に充血した目から、涙が流れる。
「その人形をこちらに」
田淵は、胸元に人形を抱えていた。男性を模した人形は、坂巻をなぞらえた物体だろう。
ギギギギギギ
骨の軋むような嫌な音。
「……ダメダ、…ダメダダメダダメダ!!!」
一瞬穏やかになった気配が、また乱暴に暴れ出す。
「ワタシハ、ゼッタイニ、アノヒトヲトリモドス!!!」
田淵の背後に、鬼の姿がありありと浮かんだ。彼女の上半身をギュッと抱きしめるようにまとわりついた鬼。その鬼が、彼女自身の未練が生んだものではなく、新たに植え付けられた呪であることが裕樹には視えた。
(鬼だけ祓う術はあるか…?)
裕樹がほんの一瞬逡巡した直後だった。
バリンッ!
激しい音を立ててガラスが割れた。
「ダメだ! やめろ! 田淵!!」
わずかな迷いも感じさせぬまま、田淵愛美の体は、ベランダから宙へと飛び出していた。ものすごい速さだった。
慌てて追いかけた裕樹の伸ばした手は、彼女の着ていたパーカーの裾を掠めただけで、その姿を引きとどめることはできなかった。
ガラスが割れた激しい音に、隣室の住人が廊下に出てきた気配がする。
裕樹も、田淵の後を追ってそのままベランダから下へ身を投げていた。
咄嗟に指に挟んだ呪符に咒を唱えると、シュルシュルと湧き上がってきた生垣の枝が、クッションの様にして裕樹の着地を支えてくれる。
生垣を飛び越えると、すぐに公園だ。
素足のままの田淵愛美は、公園の暗闇にいた。
蒼龍が張った結界が彼女を捉え、蜘蛛の巣にかかった蝶のようにその場に足留めしたのだ。
落下の衝撃か、田淵愛美の腕は、ありえない方向に折れ曲がっている。本人は、それを気にする様子もない。
額から、二本の角が生えている。彼女はすでに、完全に鬼になっていた。
「……カミサマニ、オネガイシタノ……アノヒトハ、ワタシノ…モノ…ニ…ナル……」
逆立った髪が天を突き刺す。裂けた口から、白い牙がのぞいている。
彼女の体に、黒っぽいものがとぐろを巻くように絡みついている。巨大化した異形の姿の鬼だ。彼女自身を飲み込むほどに大きくなった異形は、裕樹を赤い眼で睨みつけながら瘴気を吐いてくる。裕樹の斜め前に立っている那由他が、すぐに防御のための結界を張る。
既に、手の施しようのない状態であることは一目でわかった。
グワングワングワングワングワングワン
と、平衡感覚がおかしくなるくらいに大きな揺らぎが空間を震わせて、公園中の街灯が一気に弾け飛び、風圧で押し戻される。
禍々しい瘴気が渦を巻きぶつかってくるのを、那由他の結界がバチバチと音を立てて弾く。
裕樹は、目を閉じ、気持ちを集中させた。
そして、静かに太刀を抜いた。
*****
足元に、一人の人間が転がっている。先ほどまで鬼であったものだ。大きな血だまりが、その体の下から花弁のように広がっていく。
呪詛が返ったのだ。
濃い血の匂いが鼻腔を突く。
植え込みの陰から、化け猫を従えた蒼龍が出てきた。
「平気か?」
「!」
声をかけられて初めて、裕樹は、太刀を握ったまま呆然と立ち尽くしていた自分に気がついた。自分の周辺に、いつの間にか周囲からの視覚を遮る認識阻害の結界が張られていた。
「すぐに離れるぞ」
蒼龍が咄嗟に張った結界は、効力が長いものではない。
すでにマンションの住民たちが、異様な気配を察してベランダに出たりして騒ぎ始めている。
裕樹は、もう一度だけ倒れている女性の背中に視線だけ落とし、それから、足早に暗闇に溶けた。
公園の反対側に、すでに車が回されていた。
「刑部の鳥ヶ谷さんに連絡を取りました。ここは刑部に引き継ぎます」
助手席に座っているのは吉田だ。田淵愛美が亡くなったことを、手身近に報告する。
「高根沢が、残って処理をします。とり急ぎ、ここを離れます」
二人と二匹が乗り込むと、車はすぐに走り出した。




