東京の夜
同時刻東京、中野。
廃墟の三階から黒い影が路上に飛び降りてきた。猫風蒼雲だ。猫のようにしなやかな動きで、足音も立てずに軽やかに着地する。
「お疲れ」
蒼雲に追い立てられるような形で同時に飛び出してきた悪霊数体を一刀のもとに薙ぎ祓った御鏡俊樹の太刀は、すでに鞘に収まっている。同時に、周囲に展開していた木霊を回収しながら、戻ってきた蒼雲を迎える。
「すみません。お手数をおかけして」
「なんでそういうこと言うかな」
「え?」
「僕たち、一緒に仕事してるんだから共闘するのは当然でしょ? 僕は僕の役目を果たしただけ。君が気を使う必要はないんだよ」
「でも……」
戸惑った表情をしている蒼雲の頭に、俊樹はポンと軽く手を乗せた。
「蒼龍と足して二で割る感じが丁度いいんだけどなぁ。うまくいかないね」
そう言って優しく微笑む。
「君は優秀だから、何でも自分でしちゃおうとする。まぁ、今までそう言う風に何でも全部させられてきたんだから仕方ないんだけど、土蜘蛛の殲滅任務は学院一年生の共通任務だ。当然一人では無理だし、仲間を捨て駒のように使わなきゃいけない場面も出てくる。任せた相手が死んでも、それはそれって割り切らなきゃいけない。呪術師は、目的ありきで戦っている。共闘したからといっても、戦う時にはあくまでも個人の能力に依存するしかないからね。仲間を庇って全滅したなんてシャレにならない」
俊樹の表情がぎゅっと硬くなり、蒼雲に向けられた視線が慈愛の色を含む。
「一緒に仕事をしている相手を上手く利用して仕事を任せる。双手を信頼して背中を完全に預ける。そういう訓練が、今の君には必要だ」
少し離れたところで、蒼雲の二匹の化け猫、雲風と風霧が、ムシャムシャと魑魅魍魎の残骸を食べている。
「でも、背中を預けた相手が信頼できなければ、本能的に防衛反応が働く。まぁそういう意味では、裕樹が弱過ぎて、君が安心して背中を預けられないのが一番の問題で、申し訳ないんだけどさ」
化け猫たちの様子をチラッと見やりながら、俊樹は少し申し訳なさそうに肩をすくめた。
「だからしばらく、僕が君のパートナーだ。安心して背中を預けてくれていい。わかった?」
蒼雲は、今回の任務の割り振りの意味を、改めて深く理解した。
「蒼龍なんてさぁ、君ぐらいの歳の頃にはもう僕に丸投げで。おかげで、二人して死にかけたことが一度や二度じゃないんだけど、僕の方も、信頼されていると思えばこそ、その信頼に応えねばっていう自覚も出たし、自信も出てきたもんだよ。自覚や自信は、現場で磨くしかないからね」
「はい」
応えながら、蒼雲は、自分が無意識に、双手である裕樹まで、守る対象とみなしてしまっていたことに申し訳なさを感じていた。
「まぁ、君の場合、自分一人で片付けた方が確実だし安心するんだろうけど」
「いえ、そんなことは……」
「人を信用するって、結構難しいんだよね。特に僕達みたいな仕事だとさ。失敗すれば下手すりゃ死ぬわけだからね。相手の実力への信頼は確実でなければならない。君に足りないのは、仲間への信頼と残酷さだよ」
「残酷さ?」
信頼とは不釣り合いな言葉の並列に、蒼雲は違和感を感じて口に出した。
「そう。呪術師ならば、仕事で死ぬ可能性があるのは当然なんだよ。だから、任せた相手が死ぬかもしれないってわかっていても委ねる勇気が必要。死ぬのはそいつが弱かったからで、それは君の責任じゃない。逆に言えば、信頼されて任された仕事なら、果たせて当然ってことだよね。君は優しいから、みんな助けたいと思ってしまうけど、助ける必要はないんだよ、本来は。そういう残酷さが足りてない。でもここに問題があってさ。そいつが死ぬと、自分も危ない目に合うことになる。それを本能的に怖いと感じて回避したくなる。そこで必要になるのは、どんな状況になっても挽回できるっていう自分の実力に対する揺るぎない自信だ。それがあると、任せた相手が途中で死んでも、自分は絶対に切り抜けられるって信じられる。結果、相手に全幅の信頼を置いて任せることができるようになるってわけ」
俊樹の言葉に、信頼するのもされるのも簡単ではないのだと、蒼雲は改めて抱懐した。そしてそれが、ここのところ感じていた自分自身への違和感の正体だというのにようやく気がついた。
「自分に対する絶対的な自信」
俊樹は、蒼雲の顔の前に指を一本立てて見せた。
「そして、仲間への無条件の信頼」
もう一本。立てた二本の指の向こうで、俊樹が端然と微笑む。
「きみと蒼龍との違いはそこだね。この二本の柱がしっかりすると、回り回って、蒼龍みたいに、弱い奴を無条件に助けてしまえるようになる。自分が十分に強くないと、他人を信じられないし、他人を助けることもできないってこと。残酷さと慈悲が同居していて矛盾しているように見えるのは、それだけ蒼龍が強すぎるってことだろうね。目指す目標が高すぎて気の毒に思うよ」
蒼雲は、自分の父である蒼龍が、天御柱最強の呪術師と言われていることを知っている。猫風家には、高天原と人の世をつなぐ役目がある。自分がいずれはその役を引き継がねばならないことも、よくわかっている。
「まぁ、『仲間』の実力の方はきみにはどうこうできないだろうから、裕樹や雅哉くんのことは僕や富嶽さんが頑張ってなんとかするから、きみは自分自身をもっと信じられるようになりな」
俊樹の手が、ポンと蒼雲の頭に乗せられる。
東の空は白みかけている。この時期の日の出は四時半だ。
「蒼雲君は徹夜で仕事しても平気なんだね」
「まだ猫化を解いていないので平気ですね。解除したら、速攻で落ちると思います」
空の色を写したような澄み切った青い目は、暗闇に順応して大きく開いている。
「じゃぁ、帰って寝ようか」
携帯を取り出し迎えを頼む。並んで住宅街の狭い路地を歩き始めた。住宅街といっても空き家が多い。先ほどの家に取り付いていた悪霊が、近隣一帯に影響を与えて、病気になる者、事故にあう者、自殺する者が続出し、この区画のほとんどの家が、新築の家を捨てて別のところに転居してしまっている。
「これだけの影響与えた悪霊なのに違うんだね。元はいったいどこなんだろうね?」
「ここは元々の場が悪いですね。一応、入ってくる霊道は塞いだのですが、またしばらくすると入ってくるかもしれません」
「そうだね。僕もちょっとそれらしいものを祓っておいたけど、対症療法ではいつまでもいたちごっこだ」
「はい。先ほどの家の元の所有者に何か関係がありそうな気がします。その人物の転居先は調べられますか」
「わかった。SICSに調べさせよう。他に気がついたことはないかい?」
「気になるものを見つけました」
蒼雲はポケットに押し込んできたものを広げて見せた。
「呪符か。手作りだね。しかも素人の」
手に取った俊樹は、少し茶色く変色した紙片をひっくり返したり、街灯の明かりに透かしたりして確認している。
「生霊除けってことは、生霊に悩まされていったことかね?」
「これが霊を寄せているだけかと思ったのですが、なんとなく雰囲気が違うんです」
「雰囲気が違う?」
「うまく言葉にできないのですが」
「そっか。じゃぁ、それも合わせて今日の夜の仕事だね。佐々木が近くを警ら中で、十五分くらいで来れるみたいだから、そこで待ち合わせ。なんか飲もうか」
俊樹が指差した先に、コンビニエンスストアがあった。
「はい」
二人は、肩を並べて入っていった。
*****
窓の外で、小鳥がさえずっている。
山の端から差し込んできた朝日が、新緑の緑を鮮やかに彩る。
「裕樹、ぐっすり寝てるぞ」
広縁の椅子に腰掛けて資料に目を通していた猫風蒼龍の足に、奥の部屋から出てきた虎柄の猫が顔をすり寄せながら言う。蒼龍が使役している化け猫、虎風だ。野性味溢れる見た目だが、ピンと立った二本の尻尾がご機嫌の証拠だ。
「起こすか?」
「まだ寝かせてやれ」
「蒼龍にしては優しいな」
「他人の子だ、気も使う」
「蒼龍が気を使うなんて、珍しいこともあるものだな」
こっちは、反対側の椅子にうずくまっていたもう一匹の化け猫、龍風だ。
「人を冷たい人間みたいに言うな」
「違うのか?」
「違わないよな」
猫たちが声を揃える。
「ったく」
蒼龍は、小さくそう言ったきり、反論はしない。
徹夜で仕事をして、宿に戻ってきてからまだ三時間だ。仕事中の呪術師は、普段より霊力を集中させて超集中の状態になる。いわゆるゾーンに入る状態だ。その状態を、任務が終わるまで数日程度維持することは容易にできる。その間徹夜が続いても耐えられるくらいの集中だ。さりとて。裕樹はまだ、本格的に呪術を学び始めてから六年の十六歳の子供だ。同じ十六歳でも、物心つく前から呪術の修行を積ませてきた自分の息子のようにはさせられない。
(厳しさのさじ加減が難しいな)
と、蒼龍は思う。
そして、数日前の天御柱の幹部会議の最中の、御鏡俊樹とのやりとりを思い出していた。
日本の年間行方不明者の届け出は約八万人。その大半はその日か数週間以内に見つかるが、そのうちの二千人弱は、そのまま生存の痕跡が消えてしまう。その半数ほどが、天御柱が担当する悪鬼・悪霊関係の事件で人の目に触れぬ形で消えている人の数だ。霊障が疑われる事件は全国各地で日々発生する。それを調査し、原因を探るのが、天御柱の刑部SICSの仕事だ。捜査の上、祓魔や退魔が必要だと判断されると、呪術師が派遣され処理をする。そして、発生した事案をどの呪術師に割り振るかを決めているのが、天御柱の幹部会だ。猫風蒼龍、御鏡俊樹、賀茂弥生、遠山富嶽の他にも、猫森樟也や猫火烽尚など、主要な呪術師が、幹部として名を連ねている。
「これをさぁ、裕樹にやらせてみたいんだよね。単独任務で」
人選の途中で、唐突にそう口にしたのは俊樹だ。等級でいうと三。対人の仕事で、事前の調査の段階でも、かなりの確率で誅殺が必要になる案件だった。天御柱の呪術師には、憑依を祓うことができないと判断された人を殺すことが許可されている。御鏡裕樹も、数ヶ月前に天御柱の呪術師として登録されていることから、当然その規則の範疇にある。
「あなたがいいというなら、それはもちろん構わないのですけど、本当にいいの?」
賀茂弥生が、心配そうな表情で視線を上げる。
「確かに現状1年生は、与えられてる任務の割には、登録呪術師が少ないし、誅殺経験があるのも蒼雲くんだけですが」
「さすがに気が引けますな」
裕樹のことを知っている遠山は、妻の言葉に同意して、会議の長である蒼龍の方に視線を移す。
「対人の仕事だが、難易度的にはそれほどでもない。俺は別に、片付けてくれれば誰でも構わないが、」
蒼龍は、ここで言葉を切って、斜め向かいに座っている俊樹と視線を合わせる。
「蒼雲のことを気遣っているなら必要ないぞ」
「それはわかってるよ。でも、いずれは通らなきゃいけない道だしね」
俊樹の表情には、言葉の軽さとは不釣り合いな、大きな覚悟が浮かんでいて、蒼龍は「フッ」と小さく息を吐いた。
「いいだろう。なら、俺が引率する」
「え?」
蒼龍の返しに、その場の皆が一様に驚いたような表情をした。
「いいの?」
俊樹にとっても、蒼龍の発言は意外だったようで、もう一度真意を確かめるように問い返した。
「その代わり、強引にでもさせるぞ」
蒼龍は、手に持っていたペンを机に置いて、自然と両手を絡めた。常時猫化している蒼龍の眼は、高い空のそのまた先を覗いているような深く青い群青色をしていた。その眼を真正面から見据えた俊樹は、こんな時でもなお、(揺るぎなく綺麗だな)と思う。
「一度躊躇すると、次は難しい。メンタルケアに時間をかけている暇はないからな」
「蒼龍が引き受けてくれるなら助かるよ。正直、僕では、いざとなると突き放せないかもしれない」
「代わりに、といってはなんだが、……」
虎風がペロリと指を舐めてきたことで、蒼龍の思考が現実に戻る。
「虎風。昼間は裕樹に付き添え。吉田に十一時に迎えを頼んでおく。あと一時間くらい寝かせて、起こしてやれ」
「蒼龍は?」
「仕事に行く。行くぞ、龍風」
そう言って立ち上がり、もう一匹の化け猫、龍風だけ連れて、静かに部屋を出て行った。




