鳥取の夜
宿に案内されて改めて、裕樹は緊張していた。
出張先の宿がこんなに豪華な旅館で、しかも蒼龍と同室なんて聞いていなかった。車から降りる直前に、中務の現地係官の吉田から、「いつも、同行者は同室なんですよ」と初めて聞かされて、(いやいやいや、今回は特別とかないの?)と裕樹は焦った。
とはいえ。焦ってみたところで状況は変わらない。
前室に広縁までついた二間続きの広い部屋。旅館本館から離れた別棟なのも、何かあった時の為の配慮なのだろう。普通の旅行でも、こんな広い部屋に泊まることなんて滅多にないのでは?と思えるほどの部屋。猫風家にとっては当たり前なのかもしれないが、少なくとも裕樹は、こんな部屋に泊まったことはない。羽田空港で世話してくれた田山によると、全国各地に天御柱の息のかかった宿泊施設が存在し、仕事で訪れる呪術師たちの定宿になっているとのことだったが、たぶんきっと今日は、天御柱の長官である猫風蒼龍のグレードに合わせたのだろう。宿に着いてからの蒼龍の勝手知ったる振る舞いから、ここを利用するのが初めてではないことは容易に推察できる。
頭の中を、グルングルンと色々な思考が巡る。そして今は、座卓に向かい合わせに座り、中居さんが入れてくれたお茶を静々と飲んでいる。
蒼龍の使役する二匹の化け猫が、尻尾が二本の化け猫の姿のまま、それぞれ座布団の上に丸くなっている。どちらもとても大きな猫で、オレンジ色の体に黒い模様が入っている方が虎風、銀色の体にウロコ模様のような黒い模様が入っている方が龍風。化け猫といえば、蒼雲の使役している雲風と風霧とは裕樹もかなり親密で、普段から並みの猫のように平気で触らせてもらえるが、虎風と龍風は別だ。使役者の蒼龍が禁じていることもあって攻撃こそは仕掛けてこないが、ちょっと近くに寄るだけで鋭い視線で睨みつけてくる。本来化け猫は、契約を結んだ使役者以外に懐くことはほとんどない。
あまりの気まずさに、裕樹は、カバンの中から、教室で受け取った任務の概要文書を取り出した。機内では、夕食を食べ、着くまで眠っていろと言われて、黙ってそれに従ったので、教室で少しチラ見して以降は、じっくりと見られていない。
分厚い資料の一枚目に、仕事の等級を示す数字が記されていた。「参」。等級三以上の仕事は、木霊使いが一人で扱うのは結構大変な仕事だ、と、三月に父親に言われたことを思い出した。
天御柱から命じられる任務は、簡単な等級一から、二、三と、数字が大きくなるほど難易度が上がっていく。上限は五ではないか、というのがもっぱらの定説だが、六を見た人がいるという噂もあり、そのあたりは定かではない。
一枚、一枚と、資料の文字を追っていく。
「今度の仕事は、対人の仕事だ」
唐突に向けられた言葉に裕樹の手が止まる。視線を上げると、腕組みをする蒼龍と目があった。青い、猫の眼をしていた。これまで、蒼龍の眼をじっくり見る機会はなかったが、蒼雲とは違う、更に深い青色をしていた。吸い込まれそうに蒼い。
「人を誅殺する覚悟はあるか?」
静かな言葉だったが、その言葉の重さに、裕樹はゴクリと喉を鳴らした。
「憑依しているものが、祓える段階なら祓い、もう手遅れだと思えば誅する。その判断を、現場でお前がするんだ。お前の判断ミスは、新たな犠牲者を生む」
裕樹は、その言葉に押しつぶされそうになった。相手が悪霊や悪鬼の場合、滅することはシンプルに「正しい」ことだ。憑依されている人間を除霊するのも、霊障に悩まされている人からその原因を取り除くのも、シンプルに「正しい」ことだ。だけど。いくら憑依しているものが悪いものだとしても、憑依されている人の、その命を奪うことは正しいことなのだろうか。たとえそれしか道がなかったとしても、それは許されることなのだろうか。
「呪術師は、最も大きな利のために戦う。守るべきは、個々の命ではなくこの世界の秩序だ。天御柱の呪術師には、その判断が許されている。逆に言えば、その判断には責任が伴う」
重ねられる言葉に、握り込んだ両手にギュッと力が入る。背中を、冷たい汗が流れていく感覚。(自分に、判断する権利があるのだろうか)と、裕樹は逡巡した。『私情を挟むな』と言われた、十日前のあの会議室での言葉が記憶の中から蘇った。
「できるかどうかは聞かない。できなくてもやらせる。だから、覚悟があるかどうかだけ聞く」
裕樹は眼を閉じて大きく深呼吸した。「正しい」を決めるのは生身の人間の自分ではない。呪術師としての自分が、呪術師としての目で見て、その霊力・呪力で、相手の状態を判断して結論を出す。そう言われても。一瞬、親友と呼んでいいのかもわからない友人の顔が浮かんだ。彼ならなんと答えるだろうか。
眼を開いて蒼龍の視線を真っ向から受ける。
「覚悟はあります」
抑え気味だったが、力のこもった声だった。
蒼龍が、満足そうにスッと口角を釣り上げた。
「いいだろう」
テーブルの上に置かれた鍵の束の中から一つを取り上げて裕樹の前に押す。
「一番奥の貸切露天風呂を、滞在中ずっと貸し切りにしてある。禊をして来い。日付が変わる前に出かける」
*****
車は、山あいにある神社の鳥居の前に止まった。時刻は深夜一時。街灯もない暗い場所だ。
「お前はいったんここを離れろ。車が止まっていると怪しまれる。迎えは四時半に頼む。どこかで休んでいろ」
「かしこまりました」
蒼龍の指示で、送迎の車が離れていく。灯りがなくなった広場には、遠く離れたところに立つ街灯の明かりだけが微かに見えるだけだ。鳥居の向こうには、ゾクゾクするほどの暗い闇が待ち構えている。
「雑魚が多いが、祓いは後だ。身固めをして自分の周りにだけ結界を張って凌げ」
言い終わるか言い終わらないかのうちに、蒼龍は、自身の体をうっすらとした結界で包んだ。裕樹も印を結び、小さく咒を唱えて身固めをした。
「資料にあった神社はここだ。丑三つ時に丑の刻参りなど、このご時世にまともにやるやつがいるとも思えないが、実際にここ数ヶ月、同じような呪物が境内から見つかっている。行くぞ」
制服姿に太刀を穿く裕樹とは対照的に、蒼龍は太刀を帯びることなく片手に握っている。
暗闇でも十分に見ることができる猫の眼を持つ猫風家の当主にとっては、この地の底に吸い込まれそうな暗闇も、昼の日中と同じように見えているのだろう。「行くぞ」と声をかけてからすぐに、明かりもないまま、躊躇なく石段を登っている。懐中電灯で足元を照らしながらこわごわ歩く裕樹とは対照的だ。しかも、鳥居をくぐって参道を進むにつれて、邪な気配を持つ霊の数がどんどん増えている。身固め法により、霊からこちらの姿は見えはしないだろうが、これだけの数がいる中を行くのは気持ちのいいものではない。
「新しい呪物が見つかったのが三日前だ。打ち付けられた数から考えると、七日の願掛けをしているとすると、今日が六日目だ」
「丑の刻参りを止めさせるんですか?」
「いや。現場を確認するだけだ。呪物の写真を見ただろう? 丑の刻参りの藁人形としては出来が悪すぎる。素人の仕事だ。下らない茶番を演じてまでやるものではない」
「丑の刻参りが目的ではない、ということでしょうか」
「おそらくな」
境内の斜め左前に、巨大な御神木があった。その幹には一体の藁人形が打ち付けられていた。藁人形は、発見される度に回収されている。ここにあるのは、未回収の昨日の遺物だ。
「だが、確かに呪いが発動している。その原因を探る。裕樹。御神木の精霊を呼び出して、この木に触れた者を追跡させることはできるか」
「はい。やってみます」
裕樹の右手が、静かに杉の巨木に触れる。
「我、御鏡の名において汝の真の姿を映す。我、汝の力を欲し、汝の力を解放せん。ゆえに名を問う。我が声に答えよ」
詠唱が終わると同時に、裕樹の頭の中に精霊の名が浮かんでくる。
「カゲフチ」
浮かんだ言葉を口に出す。それとほぼ同時に、杉の大木の脇に、すらりとした顎鬚の長い老人の姿が現れた。木霊使いは、精霊の宿る樹木の中に意識を潜らせ、精霊の名を見つけ、それを呼ぶことで使役のための主従関係を結ぶ。
「なかなか良い手際だな」
「ありがとうございます」
蒼龍の褒め言葉に、小さく頭を下げる。普段特別に厳しい蒼龍に褒められるのは、気恥ずかしさを通り越して心苦しい。
「それにしても」
蒼龍は、腕組みをしたまま、ぐるりと境内を見渡す。背の高い樹叢が覆いかぶさり、辺り一面が闇に沈んでいる。その暗がりの中に、異様なほどに無数の霊体が集まっている。
「これだけの霊体が集まっているのは異常だ。夜の神社に霊が集うのはよくあることだが、このレベルの悪霊が集まっている時には、別の原因を疑った方がいい。社殿の中のモノの影響でも無さそうだしな」
「社殿の中?」
言われて初めて、裕樹は、背後の社殿の中に何かの気配が潜んでいるのを察した。境内の異様な気配に気を取られて、全く気がつかなかった。
「蒼龍、来たぞ」
蒼龍の傍に座っていた虎風の耳が、ピクリと動く。一時半を少し過ぎた頃合いだ。広場の方から車のヘッドライトがチラリと覗いた。律儀に丑の刻参りの約束事を守っている。
「よし、俺たちは隠れるぞ」
裕樹たちは、視覚阻害の結界を張って、御神木が視界に入る社殿の陰に身を潜めた。ほどなく、足音と話し声が、参道の向こうから聞こえてきた。
「何度来ても夜の神社は気味が悪いぜ」
「こんなとこ人なんか来ないんだから、もう少し早い時間に来てもよくない?」
「バカ、こういうのは雰囲気が大事だっていっただろう?雰囲気重視。その方が信頼もされるってもんよ」
男性三人に女性二人。丑の刻参りの儀式をするには多すぎる人数だ。女の一人は、巫女装束をつけていたが、雰囲気からして、これは呪術の類ではない。
「なんでもいいから、早くやって帰りましょ?」
巫女姿の女が雑な口調でそういって、紙袋の中から鉄輪を取り出して頭にかぶった。鉄輪の足のところにロウソクを三本立てて火を灯す。同じく紙袋から取り出した藁人形を、御神木に打ち付け始めた。
カシャカシャというシャッター音が夜の闇の中に響く。
「おのれ〜おのれ〜」と言いながら人の名前を繰り返し呼んでいるのは動画を撮影しているのだろう。
丑の刻参りを終えたことの証明のためなのか、打ち付けたばかりの藁人形を様々な角度から何枚もカシャカシャと撮影して、男女は来た時と同じように賑やかに、足早に境内を去っていった。
予定通り、先ほど呼び出した御神木の精霊が、巫女装束の女に憑いてこの場を離れた。再び暗闇と静寂のみが境内を支配する。
「完全に素人だな。儀式も何もあったものではない。精霊どころか、集まっている霊体の一つも見ることができない。霊力もほとんどない。そんな連中が、なぜ本当に呪殺ができているのか疑問だったが、これで少しわかったな」
「憑いていたアレの仕業ですね」
「おそらくな」
五人が境内に入ってきた時、蒼龍と裕樹は同じモノを見ていた。一人の男に憑いていた醜悪な鬼と化した悪霊の姿を。
「アレに寄せられてきたんだろう、ここの霊たちは」
ザワザワとする感覚。肌に触れるザラザラとする気配は五人が去った後も消えることはなく、むしろ先ほど穿たれたばかりの藁人形の周りで沸き立っている。
「迎えまで二時間ある。後はここに集まっている霊の除霊と魑魅魍魎の駆除をして、結界を張り直して終わりだ。中にいるやつもな」
蒼龍はそういうと、自分は手近な石にどかっと腰掛けてしまった。そこで初めて、名目上これは自分の「単独任務」であることを再認識した。
三十数体の悪霊の除霊と二十体ほどの魑魅魍魎の祓いを終えて、神社の社殿の中に潜んでいた付喪神まで片付けると、さすがに腕が上がらないくらいに疲れていた。息が上がっている。
境内の片隅では、裕樹が切った魑魅魍魎を、龍風と虎風が美味しそうに貪っている。太刀を鞘に収め、社叢の木霊を呼び出して社殿を中心とした清浄な結界を張り直す。一日が長い。昨日の朝五時からほとんど寝ないで起きていることを自覚すると、急に眠気が襲ってくる。
「終わりました。蒼龍先生」
「丁度良い時間だ。帰るぞ」
特に労いの言葉などもないそっけない応対。立ち上がった蒼龍は無造作に御神木に寄り、右手の指を五寸釘に触れる。金槌で深く打ち付けられたはずの釘は、糠に穿たれた物であるかのようにするっと抜けた。昨日の分と合わせて二対の藁人形を回収すると、それをそのまま無造作に裕樹に放り投げる。
「作ったやつを調べておけ」
すでに東の空が白み始めている。日の出まで後わずかだ。
裕樹の長かった一日がようやく終わった。




