それぞれの覚悟
次の日から、これまでとは対照的に淡々と日常が進んだ。
朝起きて修練して、学校行って、帰宅して修練して。淡々と体を動かす日々が続く。学校も四人だけの特別クラスではあるのだが、昼食時の食堂で、他のクラスの仲間とも話す機会が増えた。
変わったといえば、金曜の夜には、梓乃は実家に戻り、雅哉はどこかの山へと拉致られていくようになっただけだ。これとて、最初からの計画通りで、これまでイレギュラー続きだったものがようやく日常ルーティンに戻ったというところだろう。
学院前の車寄せには、生徒の送迎の車がずらりと並んでいた。
雅哉と梓乃は、並ぶようにして入り口を出て、迷うことなく送迎の車にたどり着いた。運転手が、いつものように丁寧に二人を迎える。
「あぁ、やだやだ、マジでやだ」
車に乗ると同時に、雅哉が愚痴る。あれから二度目の金曜日だ。今週も、屋敷に戻ればそのままどこぞへ連れていかれる雅哉は、グランドキャビンの後部座席に巨体を預け、駄々っ子のように首を振っていた。
「雅哉さん、先週はどちらに行かれていたんですか?」
「しらねぇー」
「え? 知らないって」
「どこかの山」
「それはどこかの山でしょうけど」
梓乃の膝の上に、七枝が小さく丸くなった。三毛柄長毛猫である七枝は、もともと普通の「猫」だったものが、年経て化け猫になった「猫成り」だ。蒼雲の使役する風霧や雲風よりも物静かで落ち着いているのはそのためだ。
「どこか調べなかったんですか?」
「そんな余裕あると思う? 俺に。もう金曜の夜中からずっと雨でさ。土曜日も日曜日もずっと雨でさ。それなのにあのクソ親父、延々と山ん中歩かせやがって。体は冷え冷え、腹は減るし、ぐったり疲れてるのにろくに寝る時間もなくてよ。延々と除霊させられて、その上で俺を容赦なくぶっ飛ばしやがって。二日間ずっとドロドロのドロだよ。虐待だぞ、全く」
一気にまくし立てて、大きなため息をつく。先週の日曜日。深夜遅くに帰ってきた雅哉が、部屋に入るなり物音も立てなかったのは、そのまま布団に倒れこんで死んだように眠っていたからだったようだ。月曜日の朝には普通に元気にしていたので、そんな週末だったなんて、梓乃は知らなかった。
「まぁ、それだけ聞くと虐待ですけどね」
梓乃も苦笑いを浮かべるしかない。知らない人が聞いたら、明らかに通報案件だ。
「うちは全国いくつかの霊場に修験道場を持ってて、そこを拠点に山駈けすんだよ」
先ほどとは違ったトーンで、雅哉は話を続ける。
「そういう場所は、他の場所よりも霊体が集まりやすいから、調伏の修行するにはもってこいって言うんで、ガキの頃からよく宗門の連中と歩いてたんだけどさ。俺はいろいろ甘えてたなって……」
雅哉の目が車窓を行き交う車のテールランプを見つめる。
『お前はこれまで何を学んできたんだ』
入学式の講堂襲撃事件のあった日。自宅道場で父親の富嶽に殴り飛ばされながらそう言われた時には反抗心しか生まれなかったが、今ならその言葉が痛いほどわかる。
死は身近にある。
自分が死ぬことよりも、自分の周りの人を助けられないことに対する恐怖が、雅哉の中で形を成してきていた。そして、この恐怖を打ち砕くには、強くなるしかないことも、分かっている。
学院入学までの十数年を、無駄に過ごしてきてしまったという自覚もある。
「ま、頑張るさ」
自分に言い聞かせるような言葉。
「そうですよね」
応じた梓乃の眼も、緑色の猫の眼をしていた。今週、少なくとも学院にいる間は、梓乃の眼はずっと猫の目をしている。軽い猫化であっても、それを一日中維持するのは容易ではない。猫化に伴う痛みは、身体中を針で刺されるような痛みで、負荷がかかる関節が軋んで悲鳴をあげる。それでも、梓乃は、修練の間、そして学院にいる間は、どうにかしてその状態を保とうと努力をしていた。彼女もまた。
「梓乃ちゃんもまた実家に戻るんだろう?」
「えぇ」
「弓の修行?」
「まぁ、それもあるんですが、実は、近接格闘を習っています」
「近接格闘? あの、猫魔なんちゃら流」
背もたれから顔を起こし、梓乃の方に視線を向ける。
「猫魔拳聖流ですよ、雅哉さん」
梓乃が可愛らしく笑う。
「それも、なのですが、猫森の家には、別のものが受け継がれているんです」
「別のもの?」
「『森の牙』という、弓矢を暗器のように使った……対人用の近接格闘術。暗殺術に近いものです」
「暗殺……マジ?」
「その性質上、代々、男子のみに伝授されてきたものなのですが」
低く抑えた声で、梓乃は淡々とそこまで説明して、ふと顔を上げた。
「許可をもらって、お兄様から伝授してもらっています」
微笑みが作り笑いであることは雅哉にもすぐにわかった。(明るい表情を演出しようとしているのに、その泣き出しそうな顔はなんだよ)と、雅哉の心がちくりと痛んだ。
「そっか。それはいいね。お兄様って、あの柾一郎さんか?」
努めて明るい声で会話を続ける。
「はい」
「柾一郎さんってイケメンだよな。優しそうだし、教え方も上手そう」
「優しそうなのは見た目だけです。あれで結構、スパルタですよ」
ははは、と、雅哉が楽しそうに笑う。
「呪術師なんて、みんなそんなもんだろ」
「そうですね」
二人は顔を見合わせて、もう一度声を出して笑った。
***
雅哉と梓乃が屋敷への送迎車に乗っている頃、裕樹と蒼雲は、教室に残されていた。畳が敷かれた教室の左奥の区画で激しく追いかけっこをしていた二匹の化け猫たちは、今は、その部屋のテーブルの上に丸くなって眠っている。
「待たせたね」
ガラガラと引き戸が開いて、副担任でもある御鏡俊樹が入ってくる。
二人の机の前に椅子を引っ張ってきて座る。
「二人にはこれから任務に出てもらう」
四人での田原つゆ子の捜索任務が終わってから、まだ十日だ。以前蒼雲と話した時、仕事は平均して週に二回あると言っていたのを、裕樹はふと思い出した。頻度的には、次の仕事が回ってきても不思議ではない。
「蒼雲君にはこれ、裕樹にはこっちね」
仕事の内容が記された分厚いファイルが、俊樹の手からそれぞれに手渡される。呪符で封印されている。
「開いていいよ」
「別々の任務ですか?」
「そう。単独任務も、蒼雲君は慣れてるだろうけど、裕樹にはまださせたことなかったからね。この辺りでがっつり経験積ませないとってことでね。しばらくは別任務が多くなるかもね」
裕樹は、受け取ったファイルの呪符を開封してパラリと開いた。
「蒼雲君の方は都内と近郊で数件。ちょっと数が多いけど、僕も手伝うから、今夜から回ろう。裕樹の方は鳥取だから、今日このまま飛行機で現地入りね」
山の中の小さな神社の写真と木に打ち付けられた藁人形の写真、それから『東伯郡』と書かれた地図がまず目に入った。細かな情報がギッチリと書かれた用紙がその後ろにつけられている。
「裕樹の方は、蒼龍が引率ね」
「え!?」
初めての単独長距離出張でどうしよう、と不安になっていたのは確かだが、猫風蒼龍と二人きりというのはまた、いろいろと気まずい。なにより、普段の蒼龍をよく知らない。ここ一ヶ月、道場での修練や学院での授業の際には接しているが、それ以外の日常で、触れ合う機会がないのだ。
「僕が行ったんじゃ甘えちゃうだろ? ビシビシしごかれてこいよ、蒼龍に」
俊樹の声が、なんとなく遠くで聞こえる。
「現地の移動とか宿の手配とかは、すでに中務の担当官がやってくれてるから、特にお前が何かしなければならないことはない。着替えとか必要なものも全部あちらで準備してくれてる。で、フライトは二十時だから、出発は十五分後ね。玄関に車が待ってるから。あぁ、そうそう。太刀は機内への特別携行許可が出てるからそのまま持ち込めるよ。許可証付きのケースは中務で準備してるから総務に寄って受け取って」
「え、ちょっと待って……」
展開が早すぎてついていけない。
「蒼雲君。僕たちはすぐに出るけど、準備できてる?」
「はい」
「じゃぁ、僕、荷物取ってくるから、玄関ロビーで待ち合わせね」
席を立った俊樹にタイミングを合わせて、蒼雲も立ち上がっている。
「そうだ。裕樹。わかってると思うけど、任務とは言っても、経験を積ませるための訓練だから、簡単じゃないよ。お前が苦手なタイプの仕事にアサインしてあるから。しっかり資料読んで、わからないことはちゃんと蒼龍に確認しな。教えてもらえるかは、保証しないけど」
それだけ言うと、裕樹の返事を待たずに俊樹はさっさと出て行ってしまった。
「雲風、風霧、行くぞ」
蒼雲が、眠っている猫たちに声をかける。
「あれ? 裕樹は?」
座ったままでいる裕樹を眠そうな目で見ながら風霧が伸びをする。
「別任務だ」
壁際に立てかけてある太刀袋を肩にかけながら、蒼雲が答える。
「ふぅん。頑張れ、裕樹」
「頑張れ頑張れ」
足音も立てずに机の上に移ってきた猫たちは、代わりばんこに2本の尻尾で裕樹の頬を叩くと、蒼雲の肩に相次いで飛び移ってくる。
「大丈夫だ裕樹。お前ならできる」
ドアを出る直前に振り返った蒼雲は、そう言い残して部屋から出て行った。
*****
「このまま銀座まで歩くけどいい?」
「はい」
教室を出た蒼雲と俊樹は、玄関ロビーで待ち合わせて、並ぶようにして玄関を出た。蒼雲は制服のままで、俊樹は先程までの細身のパンツに白シャツといういでたちの上に、黒のジャケットをラフに羽織っている。二人して太刀の入った袋を肩にかけているから、一見すると剣道部の顧問と生徒。
「最初の仕事は銀座ですか? 俺、まだ資料を全部見られてなくて」
「まぁ、そんな時間なかったしね。この後見てくれればいいよ。銀座にはね、ご飯食べに行くの」
「食事ですか?」
「夕飯まだでしょ」
「はい、まぁ」
「これから夜通し仕事だし、ちゃんと食べておかないとね。まぁ、初心者だと食べちゃうと戻しちゃったりするけど、君はそんな段階じゃないでしょ? 蒼龍といつも行ってる店だから、美味いよ。期待していい」
いつもの夕方は送迎の車で賑わっている校舎前は、少し時間が遅いこともありわずか数台が止まっているだけだ。
「……あの、俊樹先生」
アスファルト舗装された車道を抜けて、薄暗がりの砂利道に入ったところで、それまで黙って隣を歩いていた蒼雲が口を開いた。
「うん?」
俊樹が軽く首を回して応じる。
「いいんですか。裕樹のこと」
「いいって何が?」
そう言ってから、「ふふふ〜ん」と、俊樹は軽く鼻で笑った。
「ま、あいつの厳しさは君が一番よく知ってるもんね。人使い荒いし、無茶振りしてくるし。それに、心を平気でグザグザ抉る」
まっすぐに前を向いたまま、俊樹は、自分の脳裏に浮かんだ親友の姿を反芻する。蒼龍が、公私ともに厳しいのは昔からで、その渦中にいるのが蒼雲だ。
「今度の任務は、裕樹にとって初めての対人の仕事だ」
「!……」
気配こそ変わらなかったが、蒼雲の気がほんの少し揺らいだのがわかった。(この子は本質的に優しい子なのだな)と、俊樹は改めて思う。
「君が一緒に行ったら、気を使って君がなんとかしてくれちゃうだろう?」
靴底が砂利を踏む音が夜の空気を震わせる。
「僕が行っても一緒。たぶんね。でも裕樹には、そろそろ、その覚悟とともに経験を積ませる必要がある」
ザクザクっという乾いた音が、二人の間の沈黙を埋めていく。
「君も知ってるだろう? 体や霊能力なんかは修行で鍛えられても、心を鍛えるのは容易じゃない。グサグサと突き立てられて血を流して、それでそのまま壊れていくやつも多い。でも、そこから治ってようやく、心は強くなる。痛みだけが、呪術師の心を強くするんだ」
門の警備をしている皇宮警察官が、二人の姿を認めて敬礼をしてくれる。それに軽く返礼して、二人はお堀にかかる橋を渡る。
「そんな大事な教育を、蒼龍に甘えて任せちゃう僕も、どうかとは思うんだけどね」
俊樹の中にもさまざまな葛藤があることは、蒼雲にもわかった。
「蒼雲君はどうだった? 初めて生身の人間を誅殺した時、どう思った?」
蒼雲は、十二歳の頃から天御柱の呪術師として任務をこなしている。俊樹が知る範囲では、初めての対人任務は十三歳になって間も無くだったはずだ。当時は、そんな子供に対人任務をさせることにひどく反対したものだが、今思えば、蒼龍にも、今の自分のような葛藤があったのかもしれないと思える。
「猫に罪悪感などありませんよ」
さらっと応える蒼雲に、俊樹は、ふっと力を抜いた。だから自分たちは、対人の仕事でも平気でこなしている。と、蒼雲は自分に思い込ませている。
「模範回答じゃなくて、君の本音が聞きたいな」
しばらくの沈黙。いつもたいていの物事を即答する蒼雲にしては珍しく、その時間は想像以上に長かった。
「全能感も、絶望感もありませんでしたよ。ただ、覚悟ができました。人としてではなく、呪術師として生きる覚悟です。……いや、諦め、…といった方が適切な表現かもしれませんが」
目の前の大通りを行き交う車列がうるさい。大勢の人が生きているこの街の中にあって、常に自分をそこから切り離しておくのは簡単ではない。
(でもこの子は)
「……そっか」
俊樹は一言だけ答えを返した。
普通の剣道部の顧問と生徒のように偽りながら、二人の呪術師は、人混みの中に紛れていった。
*****
裕樹は、広い空港内を、航空会社のスタッフに先導されるようにしながら歩いている。裕樹自身は学院の制服のままで、前を行く蒼龍も、珍しくスーツを着ている。蒼雲の脇には、霊体に変化した化け猫が二匹付き従っている。
裕樹は、どういう経緯でこうなったのか、思い出そうとしていた。
(確か五限が終わったタイミングで唐突に、帰らずに教室で待っていろと言われたんだ)
仕事は唐突に降ってくる。
その事実に、裕樹の意識はまだついていけてない。
「滞在先の宿までは鳥取空港の方が近いんですが、今日は、便の関係で米子空港になっています。お帰りは近い方で手配いたしますので」
隣を歩く裕樹にひとつひとつ説明してくれている男性は、中務の係官、田山だ。天御柱には、兵部、刑部などの役職の一つに、諸々の事務手続きなどを担当する中務という部署がある。任務に赴く呪術師の出張手配や送迎なども中務の仕事だ。学院から同行した田山が、空港に着いてからもテキパキと手続きを済ませてくれている。
「天御柱の呪術師の方には、専用の待合室があるんですよ。みなさん、武器や式神を携行されているので、空港内の待合室だといろいろ弊害があるんですよ。見えない人が大半とはいえ、中には……」
そう言っている側から、すれ違った若い女性が、目をパチクリさせながらこちらを見ている。
「……見える人もおられますので」
おそらく、二人の周りを悠然と歩いている虎風と龍風の姿が見えているのだろう。霊体になった化け猫は、虎のような大きさに戻っているし、2本の尻尾は極太のパンパスグラスのようで、見えるものにはなかなかの迫力だ。
「東京から出発の際には、中務のものが空港内にも必ずおりますが、地方都市だと、空港には常駐していないことが稀にあります。また、複数の術師の方が同時に同じ地域に入られていると、人員不足になる場合も。ですが、そのような場合でも、現地の担当者が先に根回しをしていますので、心配いりません。先にお渡ししたカードを、航空会社の担当者にお見せください。関係者に伝わるようになっておりますし、支払い等は一切必要ありません」
田山の説明は丁寧で、裕樹の不安は一つ一つ解消していく。
「急ぎの場合は、チャーター機をご用意しますが、今回のように民間航空機を使う場合は、座席は、ファーストクラスかプレミアムクラスをご用意しています。何かあった場合に備えて、入り口に一番近い席を指定しています。これまでに何かあったことは二度しかないので、大抵の場合は大丈夫だと思いますが」
「何かって……」
「呪術師を見ると、助けてもらえると思う霊が少なからずいて、機内にそういうタイプの霊体がいると寄ってきてしまうんですよ。まぁ、逆も然りですね。祓われると思った悪霊が暴れることもある。もちろん、それ自体には問題ないのですが、霊体がざわざわすると、ご気分が悪くなってしまう方も多いので、できるだけ機内では、霊力・呪力の類を抑えていただけると助かります」
関係者しか入れない扉を開けると、程なく専用の待合室に着いた。ソファーとローテーブルが置かれた落ち着いた部屋だ。部屋の片隅にドリンクサーバーがあり、飲み物も自由に飲めるようになっている。
「本日は、このままほどなく搭乗可能ですが、お時間があるときにはこちらを待合室にお使いいただくことになっています」
部屋で待機していた女性も、中務の係官だろう。入ってきた二人に丁寧に頭を下げる。
「今回の現地の担当者は、吉田と高根沢です。宿泊先はいつも通りで。必要なものは、お宿に持参します。今夜からすぐ動かれますか?」
細々とした情報が書かれた用紙が蒼龍の手に渡される。
「そうだな、夜中に少し出る」
「承知いたしました。車の手配をしておきます。他に何かございますか?」
「林智勇に連絡をしておけ。おそらく、手を貸してもらう」
「承知いたしました。早速。それでは、これ以降は齋藤に引き継ぎます」
田山が、部屋にいた女性を紹介して仕事の引き継ぎをする。
「齋藤です。よろしくお願いいたします。機内へとご案内いたします」
齋藤の後について、裕樹は再び廊下へと出た。




