悲しみと怒りと
目の前で嗚咽を繰り返す少女をどこか他人事のように眺めている自分に、御鏡裕樹は戸惑った。強くなるのと同時に、人の生死に対しての感情が平坦になってきている。確かに、自分の身内や親友が死んだわけじゃない。それでも。大切なものをごっそり失って泣いている同級生に感情が動かないなんてことが、本当に正しいのだろうか。
秩父の山から降りた裕樹たちは、その日のうちにSICSの本部に呼び出されていた。
八十畳ほどのSICSの霊安室には、黒い袋に入れられたものが、整然と安置されていた。その数十六。きっちりと人の形をしているものは一つとしてない。
裕樹たち四人は、霊安室の入り口を入った中二階から、下のフロアを見下ろしている。
部屋に満ちる線香の煙が生者と死者の境界を曖昧にする。うつろな視線で自身の体の脇に立っている霊のほとんどが、血だらけの凄惨な姿をしていた。大抵の人間は、突然の死を受け入れられず、魂が抜け出たその時のままの姿で呆然とする。一部の霊能力の高い術師ならばかろうじて、自らの置かれた状況を受容して、元の姿のまま現れる者もある。供養の前に、その死の瞬間の記憶を遡って聴取されることになっているため、抜け出たばかりの霊体は、この部屋でその順番を待っている状態だ。
部屋の中ほどで、神楽坂祥子は未だ泣きじゃくっていた。遺体に取りすがって泣きじゃくる祥子の脇で、彼女の腕をぎゅっと握っているのは、同じ班の吉兆瀬麻衣だ。霊泉学院に入学してからの友人だが、初日から気が合った二人は、同じ班に配属されたこともあり一番仲の良い親友同士だ。その二人の背後に立っている霊体は、祥子の母親の三宝子だろう。金色の天冠に花簪を指した美しい姿のままだ。裳の長い巫女装束は、神楽舞のための正式な衣装だろう。
「全員そろそろ中へ入れ。神楽坂、吉兆瀬、お前たちもだ」
冷たく固い声は、入り口のドア付近に立っていた猫風蒼龍の声だ。裕樹たちは、言われるままに出口に向かう。
「祥子、麻衣、行きましょう」
下のフロアで二人を見守っていた潜木麻由香が、もう一度二人に声をかける。
「潜木先生!」
麻衣が担任の名を呼ぶ声には、非難の色が篭る。
「泣いても誰も戻らないわ」
血も涙も無いような言葉。
「でも、まだ、」
「悲しみなど、簡単には癒えないわよ。大切な人の死を受容するのは簡単では無いの。好きなだけ泣きなさいと、そう言ってあげたい。でもあなたたちは呪術師の卵でしょう? 泣く前に、やるべきことをやりなさい」
*****
一晩のうちに、両親だけでなく、叔母や使用人など、身近な人の多くを失った少女に、どのような慰めの言葉もふさわしくない。
麻衣に支えられるようにして会議室に入ってきた祥子の冷え切った両手を、猫森梓乃は両手で優しく包む。
それだけ。
潜木の突き放したような言葉が押したのは、祥子の背中だけではないのかもしれない。
会議室の無機質な照明が痛い。
コの字に並べられた机の反対側には、SICSの統括班長を務める賀茂弥生が、部下を数名引き連れて座っている。促されるまま、蒼雲たち一同は、押し黙ったまま向かいの席に腰掛けた。
「金守くんと話せたよ」
そこへタイミングよく、御鏡俊樹が足早に会議室に入ってきた。
SICSから派遣されていた金守良正たち五人の領域結界師は、消耗が激しく、救出された時には意識不明の状態だったが、なんとか皆生き延びていた。宮内庁病院の地下特別区画に入院し、回復治療の真っ只中のはずだ。話が聞けたということは、無事に意識も戻ったのだろう。
「聞かせろ」
腕組みをしたままの蒼龍が俊樹に視線を移す。
俊樹は、蒼龍の隣の席に腰を下ろしながら、向かいに座る子供たちの表情をさっと確認した。秩父での御霊寄せの報告もまだ聞いていなかったが、蒼龍の言う通り、心配するまでもなかったのかもしれない。(既に、「目を離す」時期なのだろうな)と、俊樹は漠然と思う。
「やはり、儀式が始まってから、舞手が二人しかいないことに気がついたらしい」
「では、花田萌は、はじめからあそこにいなかったと?」
花田萌という単語に、俯いていた祥子の肩が小さく震える。
「……記憶の操作」
呟いたのは蒼雲だ。
「それって、弥生班長が扱う呪法と同じものですか?」
こちらは裕樹。尋ねた相手は、一番奥の席に座るK-SICS統括班長の賀茂弥生。雅哉の母親だ。
「まったく同じというわけではないわね。私は精神感応や干渉、記憶の呼び出しはするけれど、人工的な記憶の書き換えはできないわ」
ティーカップをテーブルに戻しながら、弥生が裕樹の問いに答える。
「みんなが知っている範囲でいうと、森川や脇坂が、一時的な記憶の撹乱などができる呪法を使うけれど、これは一般人相手の話であって、呪力が視える術師相手にはほとんど効果はないわよ」
「己の姿の偽装と記憶の操作。それも、領域結界のプロである金守班の五人にも気づかれない高度な術だ。学院を3年途中で除籍になってる花田程度の術師に使いこなせるとは思えない。でしょ?潜木さん」
俊樹が呼びかけた潜木麻由香は、花田萌が在籍していた1年当時の担任でもある。
「神降ろしの力はある子でしたが、呪術の力は下の中といったところだったでしょうね。そもそも、式神法も得意ではなかったはず」
霊能力があっても、呪術の才能がなければ天御柱の術者になることはできない。霊泉学院が三年制という制度を取りながらも、「最大在籍期間」という呼び方をしているのは、戦闘系呪術師・非戦闘系呪術師共に三年の間にその能力を審査され、不適格と見なされれば除籍されるからだ。逆に、優秀な人間は、一年のうちに天御柱の術者として任じられ、否応なく除霊・祓魔・退魔の現場に駆り出されていくことになる。
「途中で気づいて急遽結界を内向きに切り替えた金守くんは、さすがだと思うよ」
蒼龍と俊樹が結界の内部に強引に入った時、金守班の術師たちは皆、命を贄とした最強度の結界を内向きに展開していた。そのおかげで、封印が解かれることはなかった。
「俊樹先生。金守さんたちが中に閉じ込めようとしたものはなんだったのでしょう」
「傀儡の一種だと思うけど、それ自体はまだわからないな。神楽坂家の関係者を抹殺して、封印を解放することができたとしても、結界から逃げられなければ意味がないからね。それでも、命を贄とした結界なら、いずれそれが尽きれば結界の効力が弱まる。そのタイミングを狙って運び出すつもりだったんだろうけど、僕と蒼龍が強引に結界の中に入ったのはやつらの想定外だったんだろうね」
「あたりまえじゃない。そんな命知らずなことするの、あなたたちくらいしかいないわよ」
「言い出したのは僕じゃないよ」
「どっちでも同じよ」
弥生の呆れた声に、潜木も苦笑いを浮かべている。緊張感に張り詰めていた室内がほんの少し和らぐ。
「それでおそらく、計画を変えたんだろうね。封印解放を諦めて、証拠を消すために傀儡を自爆させた」
「現場で採取した傀儡の破片は調べさせている。どのような呪法が使われたのかは、その過程でわかるだろう」
「父上。封印されていたものはどうなったのですか?」
「それは俺が封殺した」
神楽坂家には、当主の三宝子はもちろんだが、夫の祥馬、妹の弥栄子など、天御柱の術者が五名もいた。その全員が、無残な姿で命を落とすほど、敵が仕掛けてきた呪法は危険なものだ。封印呪物を残しておけば、また再び襲われる可能性が高い。
「封印されてたのは、怨霊化して鬼となったかつての八十神の一人。千八百年とか、二千年とか前のものだって言われてるけどね。神楽坂家が代々封印を守ってきた。僕たちが行った時にはまだかろうじて封印状態ではあったんだけど、こいつ、そのまま滅しちゃうからびっくりしたよ。まぁ、はちゃめちゃなのは蒼龍だから仕方ないんだけど」
「やつらにとっての価値がわからないからな。一度は諦めているが、また狙ってくる可能性もある。火種は大きくなるまでに消しておくのは鉄則だろう?」
「これまでの調査で、全国各地で似たような封印塚が破られて、力があるとされる怨霊や鬼が解放されている懸念があります」
「懸念?」
梨木の言葉に、すぐに蒼雲が鸚鵡返しした。細かな言葉の使われ方にまで気を張っているのが蒼雲という男だ。裕樹は、隣の席に座る蒼雲の横顔をちらりと見た。
「懸念というのは、その証拠がつかめていないからです。封印された呪物がなくなっているのは事実ですが、解放された気配はほとんどないんです」
「封印された状態のまま集めているって?」
「コレクターかよ」
雅哉の冗談に、裕樹は、今度は軽く肩をすくめる。対照的な同級生。
「それで、花田萌が一族を裏切った原因は?」
「それはまだわかっていないのよ。真山」
弥生が梨木の隣に座る七三分けの男に続きを促す。
「離反の原因はわかっていませんが、手がかりならあります」
真山の指が、PCのキーボードを操作して、すぐに資料がスクリーンに映しだされる。
「花田萌のスケジュール帳と日記です」
丁寧な字で綴られた手帳には、同じマークのシールが何箇所かに貼られていた。
「計画に関する記述が見られたとかですか?」
「いいえ。今の所、事件を匂わすような直接的な記述は発見できていません」
画面上に、画像が複数展開していく。
「手がかりはこちらです。一年くらい前から、花田萌は、ある会社の主催するイベントに頻繁に参加しています」
画面が切り替わって、スクリーンに、別の画像が映る。おしゃれなレイアウトのホームページには、森の中でヨガを楽しむ男女の姿を次々に映し出されていく。
「『MORINAKAYOGA』というイベント会社のホームページです」
「イベントって、ヨガですか?」
画面を見つめていた梓乃が、白樺の森を背景にしてヨガのポーズをする写真を目で追っていた。
「軽井沢の古い別荘地を改装した宿泊施設を拠点に、ヨガや自己啓発系のイベントを盛んに行っている会社のようです。会員や参加者は、二十代、三十代の女性に多く、都会の喧騒を離れてリラックスできるということで、週末を中心に、予約が取れないほどの人気だそうです」
画面をスクロールしてイベント情報のページに跳ぶ。
「特に人気があるのが、『この世がデトックス』と名付けられた二泊三日のイベントで、プチ断食とヨガ・瞑想体験を組み合わせたもののようです」
「“世が”と“ヨガ”をかけてるってわけか」
「これに花田萌も参加していたってことですね?」
考えたねぇ、と変に感心している雅哉を無視して、梓乃が質問を重ねる。
「えぇ。彼女の部屋から、パンフレットや、当日配られたと思われる資料、申し込みの履歴を印刷したものなどが見つかっています。手帳のこのマークも、そのイベントの開催日と重なっています」
「自己啓発、ヨガ系のイベントって聞くだけで胡散臭いのに、デトックスやプチ断食まで入れるって盛りだくさんですね」
「俺なら絶対行かないけどな」
「花田萌も、そこで今回の事件につながる人物と知り合った可能性が高いってことですか?」
画面が再び、萌の日記帳の画面に戻る。
「十ヶ月ほど前から、頻繁に特定の人物を表すような記述が増えています」
「ははぁん。男ってことかぁ」
「どうしてそうなるんですか。女性が多いイベントなんだから、女性かもしれないじゃないですか」
「いやいや、女同士の友達なら、デート予定にハートマークなんて使う?ハートマークにホテルのマーク。あの記号はどう見ても、男だね」
「我が息子ながら、デリカシーの無さに呆れるわね」
ヘラヘラと笑う雅哉に、弥生が呆れたような大きなため息をつく。
「まぁでも、雅哉の言うことは当たっているのよ、梓乃さん」
画面に映し出された日記のページが、ペラペラとめくられていく。
「名前などの詳細の記載はありませんが、特定の男の存在が記載されています。正確なことはわかりませんが、花田本人は、その男のことを『彼氏』だと認識していた節があります。内容からも、体の関係にあったものと」
「まぁ、それだけでは付き合ってたかどうかはわからんけどねー。セフレってこともあるし」
軽薄が過ぎた雅哉を、梓乃がキッと睨みつける。
苦笑いを浮かべながら真山は次の画像を写し、花田本人が「彼氏」と呼んでいるという事実だけが、とりあえずは皆の間に共有された。
「で、この会社の代表は誰ですか」
雅哉や梓乃たちが下世話な内容に盛り上がり始めた中にあって、蒼雲は冷静に物事の本質に切り込もうとしていた。
「あぁ……『MORINAKAYOGA』の代表は、この男です。戸賀昇。さいたま市出身の27歳」
「一見すると、人畜無害な草食系って感じの男に見えるけどな」
ポップアップしてきた「代表者挨拶」の写真に、雅哉が懲りずに軽薄なコメントをする。わざと軽めの口調を使ったのは、雅哉なりの配慮なのかもしれない。それで少し、緊張度が下がった。
確かに、細面の顔は中性的で、男らしさとは無縁にある優男の印象だ。白いシャツの襟元を少し開けて、緑をバッグに爽やかに微笑む男性の写真は、清潔感にあふれている。
「この男に怪しいところはなかったんですか?」
「えぇ、今のところ。戸賀は三日ほど前から福岡に出張しているようです。部下数名を引き連れての出張だそうで、現地では、連日連夜イベントが組み込まれていて、福岡にとどまっていたことが証明されています。アリバイ自体は成立します。現地の防犯カメラにもバッチリ映っていますしね」
「それと、戸賀の戸籍を遡って調べましたが、呪術師は一人もいませんでした」
そう付け加えたのは、弥生の右腕でもある部下の梨木だ。
「記憶を書き換えるほどの呪術が使われたのなら、三親等以内には呪術師か霊能力者、霊媒、霊視占いなどを生業にする人が必ずいるはずなのよ。普通わね。呪術師として使えるレベルの霊能力は遺伝でしかありえないから」
梨木の説明に、弥生が言葉を足す。
「花田の居場所はまだわからないんですか?」
「自宅にも姿はありませんし、立ち寄った形跡もありません。親類、彼女の友人、知人宅にも捜索範囲を広げていますが、未だ見つかっていません。各所管理下に置いていますので、彼女が接触すればすぐにわかるようになっていますが」
「霊紋の追跡もできてないってことですね」
「意図的に消してしまえば後から辿るのは難しいわ」
弥生が改めて、蒼雲たちの方を向き直った。
「とりあえず、花田萌の居場所は、私たちで探すわ。居場所が分かったら連絡する。それでいいのよね?」
「当然です」
蒼雲からの間髪入れぬ返答。
「それが自分たちの仕事なら、相手が人間であってもやらなきゃ仕方がないでしょう」
「まぁ、そうなんだけどね。大人としては、守ってあげたいのよ」
「高天原にそれが通用するわけでもないでしょう」
「正論ね」
弥生の表情には、諦めが、そしてすぐに納得の表情が移ろう。
「長官と副長官からは、何かありますか?」
天御柱の呪術師を束ねる長官である猫風蒼龍に、改まった口調で尋ねる。
「神楽坂。ご両親達のことは、気の毒に思う。だがこの世界はこういう世界だ。いつでもどこでも、唐突に人が死ぬ。それが、仲間のこともあれば、自分自身のこともある。死ぬ相手が、術師であるとは限らない。お前が天御柱の呪術師を目指すことで、お前の大切な弟が命を落とすかもしれない。理不尽だが、そういう世界だ。怖いと思うのならばここを去れ。辞めていくことは恥ではない。土蜘蛛の殲滅というのがお前たち一年生に課せられている任務だ。それにつながる情報は全て提供する。だが私情は挟むな。少なくとも、まだ呪術師ではないお前たちには、人を誅する許可は出せない」
蒼龍の鋭い視線が、泣き腫らした顔の神楽坂祥子と吉兆瀬麻衣にも向けられる。
「じゃぁ、呪術師ならいいってことなのか?」
「そうだ。天御柱の呪術師には、悪鬼、羅刹、怨霊、邪霊などの霊的なものだけではなく、それらを使って人を害する“人間”の処断も許可されている」
独り言のように呟いた雅哉の声は、しっかりと蒼龍に届いていた。
あまりの威圧感に、ゴクリと、雅哉は喉を鳴らした。
「だからこそ、私情を挟むなってことだよ」
俊樹の口調は、蒼龍よりも穏やかだった。それでも、いつもよりも固い。
「目の前の相手が正しいか正しくないかの判断は、現場の呪術師が下すんだ。それは、君たち自身が許せるか許せないかではなく、この世の理に基づき判断されなきゃいけない。そこに私情を挟むと、判断を誤る」
「裕樹、蒼雲、お前たちは二人は、特に肝に銘じろ」
「はい」




