舞い落ちる命
空が、燃えている。
遮熱性能に優れた防弾ガラス越しだというのに、熱気が伝わってくるかのようだ。青緑色の光が低く垂れ込めた雲に映り、そこだけ別世界をのぞいているような不気味さがあった。異様なのは、これが現実の「炎」ではないからだ。
眼を「現実」に転じると、黒煙を上げながら、真っ赤な炎が住宅の屋根を舐めるように這っている。消火活動のために出動した無数の消防車の赤色灯が、住宅の壁に反射して揺らめく。
黒塗りの高級車は、消火活動を目の端で見るようにしながら、住宅街を回り込んで裏手にある丘へと向かっていた。
狭い道の入り口には、ぐるりと規制線が張られている。
「ここから入って欲しいとのことでした」
そう言いながら助手席を降りたのは、猫風家当主である蒼龍の側近を務める風祭光流だ。兵部所属の術師の中で十指に入るほどの式神法の使い手だが、単独任務よりも主の仕事に同行する機会の方が多い。
規制線の黄色いテープの張られた先に見える小道は、12時間ほど前に、神楽坂祥子が歩いた路地だ。
「ひどいな」
車を降りた御鏡俊樹は、ほぼ反射的につぶやいていた。見上げる空が紺青に青緑が混ざったような気味の悪い炎で染められている。消防車のサイレンの音が耳を擘くほどの大音量で鳴り響いている。
「想像よりやばそうだよ、蒼龍」
反対のドアが開き、猫風蒼龍が姿を現す。天御柱の呪術師を束ねる長官でもある。同じく副長官の御鏡俊樹とは任務を一緒にこなすことも多いパートナーだが、すでにSICSの本体が介入している現場に、改めて臨場することはそう多くはない。蒼龍の二匹の猫、虎風と龍風が、音も立てずに車の天井に飛び乗る。
「久々に見るな。大炎上。綺麗」
背伸びをするようにして空を見上げている猫たちは、この業火を「綺麗」とたとえるほどには浮世離れしている。
術者にしか見えないが、空間を切り取るように、立方体の結界が二重に張られているのが見える。
「鬼火が燃えているのは結界の内側か」
蒼龍の眼は、青い猫の目をしていた。
「無理して来てよかったよ。これ」
二人は昨日から岩手で退魔の仕事中だった。その事後処理を別の術師に任せて急遽引き返し、なんとかこちらに間に合わせた。
「あ、ちょっと、ここから先は……」
規制線の目の前に止められた車を見咎めた警備の警察官が、手に持つ赤色の誘導灯を大きく振る。
「風祭くん!」
絶妙のタイミングで規制線の向こうからスーツ姿の人影が現れ、警官と向き合っていた風祭に呼びかける。
「心配ない。関係者だ」
若い警官を下がらせて、二人に頭を下げる。その背後から、すっと、黒い大型犬が姿を現す。彼の使う式神だ。若い警官には、おそらく見えていない。
「ご足労いただきありがとうございます。猫風長官、御鏡副長官」
「遅くなってすまないね、犬成」
「いえ。こちらへどうぞ」
犬成と呼ばれた男性に先導される形で、猫風蒼龍と御鏡俊樹は規制線をくぐって路地に入った。その後を、風祭も続く。
「SICSの方で二キロ圏内を規制していて、住民の待避も終わっています。周りの建物は『実体火炎』で延焼中で、消防が消火作業中ですが、神殿自体はまだ保っています」
「三宝子さんたちが粘ってるってことか」
「おそらく。狗神を偵察に出して確認したのですが、ご当主は神殿内に」
狗神使いの犬成は、式神として複数の狗神を使役している。嗅覚が特別に鋭い狗神は、わずかな人の気の痕跡も見逃さない。
木々の間を縫うように続く小道を、四人と三匹は足早に進んでいた。歩きながら犬成が状況を淡々と説明する。
「信用調査は全員分終わったって聞いたけど?」
神楽坂家の運転手が逮捕された報告は、岩手へ向かう車の中で聞いていた。それに加えて、他に入り込んでいる者がいないかを調べるために、SICSから信用調査班が派遣されたのも知っている。「信用調査」というのは、身元だけではなく、体に憑依されている痕跡がないかなどの霊障調査も含まれる。
「はい。使用人は全員調べました。それを踏まえて、改めて、神殿の結界を張り直し、内部で鎮魂祭を行っていたのですが」
犬成は一旦言葉を切って、木々の向こうに見えるチラチラ見える火災現場を見遣った。
「金守班が支援に入っているはずなのですが、そちらは全滅かもしれません」
「金守班が? 領域結界のスペシャリストだよね?」
金守良正が班長を務める金守班は、SICSの実働作業班の中でも、結界術に長けた指折りのチームの一つだ。
「命を贄としたか」
蒼龍の声はいつも落ち着いていて、そこから感情を読み取るのは難しい。部下の命が失われたかもしれないこの瞬間でさえも、同情や悲しみは一切気配に上ってこない。
「結界の堅牢さを思うと、恐らくそうではないかと。狗神で探った結果とも矛盾はしません。結界内にいると思われるのは、家族、使用人総勢十七名。加えて、SICSの五人ですが、いずれも、未だ連絡がつきません」
「最悪二十二人か」
俊樹がため息に乗せて苦悩を吐き出す。呪術の仕事に犠牲はつきものだ。仲間が死ぬことなど日常茶飯事。それでも、やはりまだ慣れない。
「神楽坂家の子供たちは?」
「はい。長女の祥子さんは、昨日夕方から学院の寮に移っており、無事が確認されています。息子の祥次君は非能力者ですが、三宝子さんの弟の志知郎さんのお宅に保護されています。こちらも無事です」
「命は無事でもなぁ」
俊樹が、もう一度大きくため息をつく。
「確か、彼女の担任は潜木さんだったよね」
蒼雲、裕樹、梓乃、雅哉のクラスは例外だが、学院の他の生徒達には、四人ないしは五人ずつの班を二班まとめる形で担任が二人つく。潜木麻由香は、二組担当の担任の中ではもっとも現場経験が豊富な非戦闘系術師だが、神楽坂三宝子とは一学年違いの先輩後輩の関係だ。関係が近すぎて共倒れになる可能性も、なくは無い。
「これを機に戦えなくなるならそれはそれだ」
「相変わらず冷たいね、蒼龍は」
「新入生は夏の模擬戦までに半分になる。いつものことだろう? 今年はそれが少し早いだけだ」
「それとこれとは違うでしょうよ」
言っても無駄と思いながらも、隣を歩く蒼龍の方を呆れた表情で見遣った。俊樹は、学院を育成の場と捉え、なるべく多くの術者の卵たちに挫折せずに術師になってもらいたいと思っているが、蒼龍の考えは違う。獅子の子育てのような教育方針を貫き通している。不適格者をふるい落とすことこそに意義があると考えている。
能力がなければ命を落とす仕事だけに、そのどちらも間違ってはいない。
「その様子だと、蒼雲くんのことも微塵も心配なんかしてないよね?」
俊樹は、秩父の山に入っている四人のことを思った。ちょうど今頃は、御霊寄せの儀式の最中かもしれない。
「半人前とはいえ、少なくとも二人は兵部の術者だ。心配する方がおかしい」
分かり切った答えに、俊樹は苦笑いを浮かべながら肩をすくめた。息子のことを多少なりとも心配している自分は、やはりまだ甘いのかもしれないと感懐を抱く。
小道を登りきると、少しひらけた場所に出る。非術者の目には、消防車両が消火作業をしている外側の炎しか見えていないのだろうが、術者の目には、結界の内側で燃える青緑色の鬼火がありありと見えていた。張られている結界は、内側のものを外に出さないようにするタイプのものだ。その中心には、神楽坂家の管理している神社の本殿がある。
「長官、副長官」
二人の姿を見つけたSICSの人間が集まってくる。
「烽尚も来ているんだろう?」
蒼龍が名前を呼んだのは、同じ猫使いの猫火烽尚のことだ。隠り世の業火の扱いには猫火家の術者が精通している。
「はい。いらしています」
「では、外は問題ないな」
腕組みをしたまま、蒼龍の眼が結界の内部に向けられる。
「状況は?」
「変化ありません」
俊樹に差し出されたのは、結界内部にいると思われる、神楽坂家の関係者のリストだ。舞手や楽手の他に、儀式を支える結界手など、役割も明確だ。
「やはり、ここに封印されている鬼を奪って復活させるのが目的ということでしょうか」
「内部に侵入者の痕跡は?」
「今のところはありません。」
「いや、違うな」
腕組みをしてしばらく何やら考えるような仕草をしていた蒼龍が、報告の途中で、言葉を挟んだ。その場の全員の視線が蒼龍に集まる。
「金守達が命がけで結界を張ったと言うことは、結界そのものを死守したいという意思の表れだ。敵はすでに中にいる」
「中に!?」
意外な言葉に、その場が騒然となる。
「藤崎。中にいる人間の交友関係をもう一度洗え。可能性としては、血縁の誰かだ」
「血縁って!?ご当主の親族ということですか?」
「使用人は皆調べたのだろう?」
「それは、確かに……」
「洗脳で強制されて動くばかりとは限らぬ。人は何かのために、信念を変えることもある。その何かは、ひどく些細なものかもしれない。犬成。狗神達で結界外縁を固めろ。外に協力者がいるはずだ」
藤崎と犬成が顔を見合わせて、バネ仕掛けの安っぽい人形のようにぺこりと頭を下げてその場を去る。
「俊樹。結界の中に入るぞ」
「簡単に言ってくれるね〜。穴開けるの、僕なんでしょ? どうせ」
「お前になら造作もないだろう?」
「穴を開ける、って……この結界は……」
狼狽しているのは、犬成と藤崎の上司にあたる深大寺だ。この現場の指揮をとっている彼には、現在展開している内側の結界が、どのくらい堅牢なものか十二分にわかっていた。中の人間が命がけで張っている結界だ。穴を開けることは、術師の命を奪うことにもつながる。
深大寺の言葉を無視するように、蒼龍はすでに羽織を脱いでいる。
「光流。俺たちが中に入ったら入り口を見張れ。出てくるやつは容赦するな」
「承知しました」
受け取った羽織の代わりに太刀を差し出しながら、風祭が恭しく頭を下げる。
「心配ないですよ。術者に干渉しないように上手にやるからさ」
狼狽している新大寺の肩をポンと叩いて、俊樹も腰に長太刀を佩く。
「また僕だけ働かされるのはごめんなんだけど」
「上手にやるんだろう?」
「はいはい」
俊樹が、蒼龍に並ぶようにして結界の前に立つ。今日もまた、蒼龍のペースだ。
「中のことは責任を持つ」
その言葉に、何度目かのため息をついてから、俊樹は静かに木霊を召喚した。




