消えゆく露
篝火の火の粉が、菊の花弁のように激しく闇夜に散る。
結界の周囲に焚かれた篝火のおかげで、暗闇の山にあって、この磐座周辺のみが光の中に浮かび上がっている。
御霊寄せは、あの世とこの世の境目にある幽冥界を通じてあの世の魂をこちらに呼び出す呪法だ。幽冥界に術者自身が降りるのと違って、領域を繋ぐ、より強固な道が必要になる。丑三つ時といわれる時間帯は、あちら側と繋がりやすい。
中央に設けられた祭壇に向かって座した蒼雲が、日付が変わる少し前から、淡々と御霊寄せの咒を唱えている。二匹の猫たちは、蒼雲の脇を固めるように座って、術式の進行を見守っている。裕樹達三人は、武装したまま、結界の外の気配に気持ちを集中している。御霊寄せの儀式が終了するまで、三人が結界を維持する役目を担う。磐座はもともと、霊的なパワーが集積する場となる。さらにここは、強力な山の神に守られた山だ。この世とあの世の境目を開くにはこれ以上に良い場所はない。
「この匂い!」
結界の中に満ちる独特の甘い匂いに、雅哉が慌てて後ろを振り返る。
この世のもので形容しがたい甘い甘露のような香りは、幽冥界の香りだ。蒼雲の咒で、幽冥界と繋がったのだ。
結界の中の空気が、強引に集められて風となる。激しく渦を巻くようにして設えられた祭壇の中央に集中していく。風がますます強く早くなり、並べられた弊がパタパタと大きな音を立てる。風が硬度を持った次の瞬間、集められた空気が人の形をとった。祭壇の中央。御幣に隠れるような形で、老婆がぽつねんと正座をしている。
「!!?」
雅哉が息を呑む音が、かなり離れた位置に立つ裕樹にまで届いた。
「やはり見つかってしまいましたね」
老婆の声は、四人の頭の中に直接響くように聞こえてくる。
口寄せの巫女、田原つゆ子だ。
俯き加減のため、その表情までは窺い知れなかったが、聞いていた年齢よりも、若々しい声のように感じた。
「見つかってしまった」と言ったが、その声には、見つかってしまったという残念な気持ちと、見つけてもらってよかったという安堵の気持ちの両方が、こもっているように裕樹は感じた。顔を上げた老婆を篝火の灯りが照らし、その揺らめきが彼女の心の揺れを表しているかのようだ。
つゆ子の目が、まっすぐに、向かいに座る蒼雲の目を射た。
「知らぬ間に大きくおなりですね、蒼雲様。私めがあなたにお会いしたのは、まだあなたが生後半年かそこらの頃」
つゆ子の細い目が、さらに細められる。大切な孫でも見るかのような優しい眼差しだ。
同時に、結界の外に、ふいに何者かの気配が湧いた。結界ごと幽冥界と繋がったのだ。裕樹たちの姿は、あちらからも見えているはずだ。
「来ます!」
梓乃の固い声。裕樹がグッと左手を突き出す。空気がピンと張り詰める気配。
カンカンカンカンカン
硬いもの同士がぶつかる音がして、何かが地面に落ちる。ナイフだ。
高度な結界には、物理的なものまで防ぐ力がある。
「やっぱり敵さんも、このタイミングを待っていたってわけか」
雅哉は、右の拳を左手の掌に打ち込んで気合いを入れる。
その脇を抜ける形で、矢羽が空気を切り裂く音を立てて暗闇に放たれた。続けて3本。梓乃の矢だ。
暗闇の中から異形の影が飛び出してくる。
「雅哉!」
「任せろ!」
組み合わせた雅哉の指が、素早く印を結ぶ。
「梓乃ちゃんは雅哉のバックアップを頼む!」
そう叫んだ裕樹はすでに走り出していた。暗闇の森の中にあって、異質な気配が凝り固まった鬼の気配は、術師の目にはそこだけ仄かに光が灯っているように見える。人の形とはかけ離れた、見上げるほどの異形のモノは、四本の腕それぞれに、武器を握っている。仏の形をしたものに悪霊を閉じ込めたもの。
(魔仏ってところか……)
「鬼切丸!」
裕樹が太刀の名を呼んで気を込める。鞘に宿った咒が発動する。
横薙ぎ。
背後の木まで含めて、鬼の体が一閃される。
一つの塊だった鬼の体が、崩れるとともに小さな異形に分割する。裕樹はわずか数歩で体勢を立て直し、返す刀でそれらを次々に滅していく。
「キリが無いぜ!」
少し離れた場所から、雅哉が愚痴る声だけが聞こえる。
「堪えろ。呪詛を放ってるやつをやらなきゃ終わらないんだ」
梓乃の放った矢から、光の矢が雨のように分かれて降り注ぐ。幽冥界は、未浄化の霊魂が彷徨う場所だ。人の恨み、妬み、嫉み、怨嗟が渦巻く邪霊の潜む場所でもある。
その幽冥界とつながっている間は、溢れ出てくる霊を祓い続けるしかない。
「蒼雲さんの御霊寄せが終わるまで持ちこたえます」
「術師そのものが襲ってくる可能性は?」
「ゼロではないって!」
裕樹が返事を返すのとほぼ同時に、
「………ぐわっっっ!」
裕樹の視界の隅を、何かがものすごい速さで横切ったような気がして、間髪入れずに、雅哉が吹き飛ばされる気配がした。
「雅哉!?」
「雅哉さん!?」
ガガガガガッバキバキバキッッ
激しく木の枝がなぎ倒される音がして、重たいものが地に落ちる。
「雅哉!…っつ」
走り出そうとした裕樹の目の前にも、唐突に邪な霊の気配があった。操り手がいる呪詛の類だ。
松明の向こう側に飛ばされた雅哉の姿は、裕樹のところからは全く見えない。
「雅哉さんは私が!七枝!」
梓乃の使役する化け猫、七枝が、すぐに雅哉の倒れていった方向へと身を翻す。
踏み出した足を戻して、裕樹は反射的に大きく後ろに飛びのく。先ほどまで彼が立っていた場所に、斜め左上から異形の鬼が飛び込んでくる。
気配だけだったものが一瞬で凝り固まって形を成す。人型ばかりでは無い。
「土蜘蛛衆の使役魔か」
裕樹はポケットの中から複数枚の呪符を取り出して起符し、自分も式神を呼び出す。睨みあいは長くは続かず、止まった戦闘はすぐに再開する。式神同士を戦わせる傍で、裕樹の剣尖が空気を鳴らす。
ふいに、視界の奥の暗闇に、息苦しいほどの邪悪な気配がユラユラと形を成した。
「黄泉津醜女!」
自分に向かってくるその姿が、裕樹には捉えられなかった。
(早いっ!)
気が付いた時には間合いを詰められ、吹っ飛ばされていた。恐ろしいほどに近くに、黄泉津醜女の顔が迫る。虚空を覗くような真っ暗な闇が両の眼からあふれる。辛うじて太刀を立てて直撃を免れたものの、左肩に鋭い痛みが走った。咄嗟に木の陰に飛ぶ。
「私を見つけ出せる者があるとすればそれは、あなたがた風の一族だろうと思っておりました」
結界の外では激しい戦闘が続いているというのに、田原つゆ子の声は異様なほどに落ち着いていた。御霊寄せのために敷かれた内側の結界は、さざ波ひとつ立たぬほどに静まり返っていた。
「わざと、俺に見つかるようにした」
脳内だけでも会話が完結するのに、あえて蒼雲は、言葉をわざわざ口に出した。その声も落ち着いている。
「違いますか?」
「土御門典膳は、まだ黄泉にいます。30年前、蒼龍様達がかけた呪縛は未だに健在です。それが、肉体の黄泉がえりを阻害しているのです。今、あの男は、伊邪那美様を捕らえ、その力を使って黄泉から抜け出そうとしています。心臓を集めさせ、黄泉津醜女を復活させているのは、その手助けをさせるため」
蒼雲の質問に答える代わりに、つゆ子は、細い右腕を差し出した。
「これは?」
応えた蒼雲の手のひらに、握り拳程度の石のようなものが載せられた。
「化け猫の血を引く風の一族のあなたにならば、扱えるはずです。黄泉から戻る道標となります」
石の表面には、細かな文字のような文様が刻み込まれている。蒼雲は、手の中のそれがかすかに拍動していることに気がついた。
「まさか、これは!? こんなことをしたら、」
つゆ子は、答える代わりに立ち上がった。
「私は、私のことを信じてくださる方を何人も殺してしまいました。いくら操られていたとしても、高天原に忠誠を誓った者として、伊邪那美様への狼藉に力を貸すなど、許されないことです。もう二度とこの世に転生することがなくなったとしても、それは自業自得」
田原つゆ子の気配が祭壇から動いた。
「幽冥界を閉じて下さい」
「田原さん?」
「あいつらは私が引き受けましょう。ともに滅してください」
死者の魂は幽冥界を通じて黄泉の国に戻り、そして次の転生の時を待つ。幽冥界から出た魂を滅してしまえば、それは……。
「ひとつだけ気がかりがあるとすれば、あの子のこと」
つゆ子の視線が、祭壇の上に置かれた木箱に落ちる。
蒼雲が静かに立ち上がる。目を閉じ、一呼吸置いて静かに開く。
「……必ず」
蒼雲の猫目が青く輝く。
「幽冥界が!」
「閉じた?」
雅哉、梓乃、裕樹がほぼ同時に結界の中央にいる蒼雲に視線を向ける。
「蒼雲!」
両脇に控えた雲風と風霧の姿が本来の大きな化け猫の姿に戻っている。
「風よ」
蒼雲の右手が刀印を結ぶ。
ゴウッ
と。風が鳴る。蒼雲を中心にして、唐突に、青い風が生まれたように見えた。
立っていられないほどの強い風が湧き、結界の内部から外へ渦を巻くようにして、辺りに分散していた邪霊の気配を一気に束ねていく。
「依て巡りて穢れを切り裂け」
蒼雲の右手が空を切る。
刹那。
生まれた虚空の一点に風渦が集中する。
シュルシュルシュルシュルルルル〜
やがてそれは、高い音を立てて消えた。
とりあえず、出来上がってるこの巻分の原稿だけはこちらに置いておきたいと思いつつ、アップが遅くなってます。もう少し続きます。
他に良い置き場所が見つかったら移すかなぁ。




