精霊と猫化
「こっちだ」
確信に満ちた顔で裕樹が移動を始めたので、全員がその後に続く。敷地の周辺を巡る生垣に沿って、建物の左手に回り込んでいく。祈祷所として増築された建物のすぐ脇に、駐車場からは死角になって見えなかった小さな社があった。
裕樹は、その祠の横に植えられた榊の前に立ち、印を結ぶ。
真っ直ぐに前を見据えたまま、口の中で小さく咒を唱える。
一歩前に出て、右の掌で優しく幹に触れる。
「…我が声に応えよ。宿いし神気を現せ」
再び低く言葉を重ねる。
幹から手を離し一歩下がる。
裕樹と榊の木との間に水干姿の小柄な人影が結像するのをそこにいた全員が視ていた。
全員が、それがその榊の精霊であると認識していた。身長は一二〇センチ程度。頭頂部まで禿げ上がった頭。後頭部に疎らに残る白髪。白い髭。顔に刻まれた深い皺。歳経た精霊のようだ。
植物に宿った精霊を召喚して式神とするのが、木霊使いの御鏡家の呪法だ。
「賢木」
裕樹が精霊の名を呼ぶ。視線を落として顔を伏せたまま、精霊が深々と頭を下げた。
「お懐かしい気配がいたしました」
各人が想像した通りの穏やかな声が、直接頭の中で聞こえた。
「主に縁のものを、お持ちでございますな」
「あぁ、そうだ」
裕樹がうなづく。
「その、あなたの主、口寄せの巫女、田原つゆ子について訊ねたいことがある」
「仰せのままに」
応えは、耳から聞こえてきているのか脳の中で直接聞こえるのかわからない。
「彼女の行方を知らないか」
「それは存じませぬ」
「つゆ子とは、もう繋がっていないということか」
「御意。私との縁を切り、此方を去りましてございます。今はもう」
精霊は俯いたまま、微かに首を横に振った。
「そうか…」
裕樹の声には、明らかな落胆の色が浮かんだ。背後からも失意の溜息が漏れる。
「裕樹。俺からも質問して構わないか?」
「平気だよ。賢木。蒼雲の質問にも答えてくれ」
相変わらず顔を伏せたまま、精霊が小さく頷く。
「そなたを、ここへ移したのは田原つゆ子だな」
「移した!?」
思わず声を上げた佐々木を、蒼雲が軽く視線を送って窘める。
「御意にございます」
再び小さく頭を下げた。
「元いた場所のことを、覚えているか?」
精霊は沈黙した。
記憶を思い起こそうとしているようにも、何か考え事をしているようにも見えた。俯いたまま、じっとしている。
「賢木?」
裕樹が呼びかける。
精霊が小さく首を横に振った。
「ほんの僅かに。しかし、ひどく曖昧で、微かでござりますれば」
「そうか」
その応えに、裕樹は諦め顔で頷いた。精霊は、指摘されるまでここに移った事実さえ忘れていた。無理も無い。裕樹にも、この土地以外との縁は感じられなかった。
「思い出せるかもしれない」
唐突にそれを否定したのは蒼雲だった。全員の視線が、蒼雲に集まる。
「本当か?」
「可能かどうかはわからんが、曖昧でも、ほんの少しでも記憶が残っていれば、ダメ元でやってみる価値はあるかもしれない。ただ、」
振り向くこと無く雅哉の問いに応え、
「力技だから、成功する保証は無い」
と続けた。
呪術の類いで「成功する保証が無い」といった場合、「安全性を保証できない」と言っているのと同じだ。その呪法を行うことで、思わぬ怪我をするかもしれないという意味だ。しかし。
「裕樹。ちょっと痛いかもしれないが、手を貸してくれるか」
「あぁ、もちろん。俺は何をすればいい?」
裕樹の応えには、少しのためらいも無かった。怪我をするかもしれないとわかっていても、痛いと言われても、蒼雲に乞われて断る理由は無かった。
「言葉通りだ。手を貸してくれ」
裕樹の顔にほんの一瞬だけ疑問符が浮かんで、すぐに消えた。
「どっちの?」
蒼雲が裕樹の方に歩み寄り、彼の右横にピタリと並んだ。
「左手を頼む」
裕樹の差し出した左手の指に自分の右手の指を絡める。
「人差し指を立てて、他の指を握り込む。親指も中へ」
空いている左手で裕樹の指を誘導しながら、お互いの指をがっちりと絡め合う。
「風霧」
二人の肩をまたぐように風霧が体重を移した。右肩の風霧と、左肩の雲風。二匹の化け猫の体が幽体に変化する。彼らの二本に別れている尻尾がみるみる膨らんでいく。
「俺を信じろ」
「信じてるよ」
あまりの即答に、蒼雲が小さく笑う。
「左手に、気を集中させてくれ」
「わかった」
裕樹は、言われたままに左の掌に意識を集中させる。
絡められた蒼雲の右手からビリビリとした熱が伝わって来る。蒼雲は、左腕で裕樹の腰に手を回してその体を引き寄せる。
体を密着させている彼にも聞き取れないほどの声で、蒼雲が咒を唱え始めた。恐怖心は無かった。不思議と緊張すらしていなかったが、裕樹には、その時間がとても長く感じられた。
蒼雲が、左手を前方に伸ばす。
目の前に立っている榊の精霊が右手を伸ばす。2人の手が触れ合った。
次の瞬間。
裕樹の体に電流のような物が走った。体がビクッと痙攣する。
視界から色が飛ぶ。
「あっ…ぐっっ」
ものすごい激痛が体を駆ける。思わず漏れた声を、奥歯を噛んで押し殺した。ザワザワとした音の波が押し寄せてくる。結界の中にいる植物の精霊達の声が、聞き分けることすらできない大音響で無数に重なり合って頭の中に響く。眼の奥が焼けるように痛い。世界が灰色に染まっている。そして脳裏には、映像が浮かんでいた。視覚野に直接送り込まれてくる映像だ。ものすごい情報量の映像が、一瞬にして流れ込んでくる。
しかし、それはほんの一瞬だった。
音の洪水も映像も、すぐに消えた。
視界に色が戻ってくる。
体から激痛が引いた。
焼けるような痛みが去るのと同時に、力が抜けてガクリと倒れ込みそうになった。その体を、蒼雲が慌てて抱きとめる。
「すまない。平気か」
蒼雲の息も上がっている。その額には、汗の玉が浮かんでいた。蒼雲の肩越しに榊の方を見ると、先ほどまで目の前に立っていた精霊の姿は既に消えていた。
彼が立っていた場所に、榊の枝が一枝落ちている。
「おい、大丈夫か?」
雅哉と梓乃が二人の元へ駆け寄る。
「なにやったんだ? 蒼雲、い…」
「蒼雲さん! 今の猫化ですよね? 猫化因子が無い裕樹さんを猫化させたんですよね? どうして! どうしてそんなことが」
のんびり話しかけた雅哉の言葉を途中で遮るようにして、梓乃が焦った口調で蒼雲に詰め寄った。目の前で見た光景を信じられない、信じたくないといった様子で。
「え? そうなのか?」
雅哉が驚きの声を上げ、裕樹も弾かれたように蒼雲の顔を見た。
「正確には、擬似的な猫化に過ぎないがな」
「どうやったんです?」
梓乃の声は、あまりの驚きのためにまだ興奮していた。
「どうやったかの説明は難しいな。猫化の際に神経にかかる負荷を外側から強引にかけてやると、二つの体を一つと誤認させることができる、そんな感じの応用だ」
どうやったのかの答えを聞いても、梓乃は唖然としていた。理屈ではわかっても、そんなことをやれるとは思えない。
「なんだよ、それ…」
雅哉も呆然としている。目の前で起ったことの一部始終を見ていたはずなのに、現実感が無い。
「大丈夫か、裕樹」
蒼雲は、裕樹の体を抱きしめるような形で両腕で支えて抱え込んでいた。
「榊の精霊の記憶に強引にアクセスして、ここに移される前の記憶を読み取った。精霊は裕樹と繋がっているから、その前に俺とお前を繋げて、お前と繋がっている精霊に強引にアクセスした。すまない。なるべく負荷がかからないようにしたつもりだったが、抑えきれなかった。痛むか?」
「いや……大丈夫だ……」
二度三度深呼吸を繰り返して、裕樹はようやく言葉を発せられる状態になった。
大丈夫だとは言ってみたが、体にはまだ、痛みが残っているような気がしていた。例えるならば、皮膚の上にふわりと重ねられたベールのように、触れるか触れないかの柔らかな感触で、痛みの感覚が残っていた。痛み以外の感覚が無い。
「蒼雲さん……」
猫塚が、血の気が引いた顔で立っている。
「肝が冷えましたよ。蒼龍様が一度だけ使っているのを見たことがありますが、猫使いの家の者に対してでした。それを、」
「俺も試したのは初めてですよ」
「初めてでなければ、なお驚きです。あんな芸当、私にはとても、想像すらつきません」
猫塚の表情からは、尊敬とともに畏怖の気持ちが読み取れた。
「で、何か、わかったんですか?」
「あぁ、そうだな…解決につながるかどうかはわからないが、手掛かりは掴んだ。やはり、予定通り少し山歩きをしないといけないようだ。森川さん、裕樹を、少し車で休ませてやってくれませんか。猫塚さん、俺たちは一応、建物の中も見せてもらいたい」
雅哉、梓乃、森川、猫塚の顔を見回しながら、蒼雲はキリリとした声でそう言った。
まだまだ続きそうなんで、完全にやめ時がわからなくなっていますが、どうしようかな・・・




