潜むモノ
「で、その中に巫女のメッセージがあるってことか?」
動き出した車の中で、前の座席に座る蒼雲の手元を覗き込むようにしながら雅哉が安穏と訊ねる。
「魂の一部のように感じましたが、生きているうちに自分の魂を切り分けることなど出来るのでしょうか?」
増井の家で裕樹の後にぬいぐるみに触れた梓乃にも、中に入っているものの正体が分かったらしい。無機物であるぬいぐるみがまるで生命の気配のようなものを内に秘めていたことは、触れてみるまでわからなかった。何重にも防御されている証拠だ。
蒼雲は、リュックサックの中から取り出したナイフを、クマのぬいぐるみの腹に突き刺した。開いた傷口から指を中に入れて、固く詰められた綿を取り出していく。
「これか」
それは、ちょうど心臓の位置に当たる場所にあった。器用に指を動かし、奥に厳重に埋め込まれていたその塊を取り出して左の掌に乗せた。
それは、三センチ四方程度の小さな塊だった。周囲を包む紙には、朱墨で文字が書き込まれている。おそらく結界符の類いだろう。
「なんだ? それ」
「ぬいぐるみの御霊代に使われるようなものだ、巫女の体の一部かもしれない」
雅哉の問いに、手元から視線を動かさずに応える。
「まだ開けない方が良さそうだ」
「そうだね」
裕樹も頷く。
「那由他」
独り言のように気楽に名を呼ぶと、甘く芳しい香りとともに、狭い車内の空間に凝集するようにして式神が姿を表した。裕樹が使役している藤の精、那由他だ。那由他の掌には小さな木箱が握られている。
「とりあえず、この中に入れておこう。この中に入れれば、巫女の気配も消せる。何も無いとは思うが、念のために」
裕樹はそう言いながら,那由他の手から箱を受け取り、その蓋を開けて蒼雲に差し出す。蒼雲は、塊を静かに箱に納めて裕樹の手に返す。そのやり取りは,まるでお茶の点前のように優雅に流れるように進んだ。
その間に、車は街道を外れて古い宿場への分岐を折れ、小さな集落に入っていた。細い道を更に進み山に突き当たるところに、その家はあった。周りに人家も無く、人通りも全くない。周囲を草で覆われた家は、主の長らくの不在を如実に示していた。
家の前の空き地に、一台の高級車が止められている。傍に立っているのは、先ほど、秩父警察署で別れた猫塚耀次郎だ。増井の家に行く前に、一行は、数日前に神楽坂家の信者の遺体が見つかったという廃寺の小屋の跡地に立ち寄ってきた。大方の予想通り、現場には何も痕跡が残されておらず、新たに儀式に利用されたような気配もなかった。遺体からは心臓が抜かれていたが、小屋跡がその作業に利用された痕跡等は、何もなかったのだ。猫塚とはその後、秩父警察署の前で別れていた。
「お待たせしました」
「我々も数分前に着いたばかりですよ」
猫塚の隣では、制服姿の初老の警察官が、森川や佐々木だけではなく、裕樹たちも敬礼をして迎えてくれている。
「秩父警察署長の猪野口であります」
「送ってくれるというので、お任せしてしまったよ」
猫塚が少し照れたような口調でいうと、すかさず猪野口から、「とんでもありません」とハキハキとした返事が返ってくる。SICSの存在は、もちろん多くの警察官にとって極秘案件になっているが、署長クラスの幹部には周知されている。そうでなくても、猫塚の肩書きは、地方の警察署長の上をいく。その上下関係に、年齢差などなんの意味も持たない。
「では、自分は、これにて失礼いたします」
初老の警察署長が、自ら現場まで来たというのも意外だったが、SICS関連では、こういうことは日常的に起こる。
「朝の現場で蒼雲さんが言っていた件ですが」
署長の乗った車が見えなくなると、猫塚がすぐに、右手に持っていたノートパソコンを開いた。
「神楽坂家の使用人の一人が、先ほど逮捕されました」
「まじか?!」
驚いて声を上げる雅哉をよそに、蒼雲の表情は涼やかだった。猫塚が、蒼雲の横に立ち、画面を見せるようにすると、他の3人、そしてSICSの二人も慌てて覗き込んだ。
「逮捕といっても、SICS案件だからニュースにはなっていないのですけどね」
「それって、まさか」
「もしかして、殺人事件の犯人?」
裕樹と梓乃が、ほぼ同時に声を上げた。
「犯人というわけではないですね。正確には、死体遺棄幇助。死体をあの場所に運んだだけ。殺害自体は呪詛によるものですからね。しかも、男本人も、運搬に加担した当時は憑依を受けていた可能性が極めて高い」
「なるほど」
「きっかけは、蒼雲さんが指摘された『昨日のヤツと感覚が似ている』という言葉です。それで、昨日、神楽坂家の車を運転していたドライバーに任意で事情聴取をしたんです。表向きは、昨日の事故現場の様子を聞きたいってことでね。その間に、害者の霊を呼び出して、男に会わせました。害者は男の顔を見ていなかったようで覚えていませんでしたが、遺体に残っていた霊紋と男の霊紋が一致しました」
午前中。一行は、神楽坂家の信徒だった男性が遺体で発見されたという、古寺院跡を訪れていた。そこで感じた蒼雲の感覚が、正解を導いたようだ。
「逮捕された男は、半年ほど前に、神楽坂家の運転業務を担う仕事に採用されたらしい。今のところ、土御門典膳との直接的なつながりは見つかっていない。ただ、神楽坂家の関係者ということで、偶然利用されただけなのかもしれません」
「神楽坂家の関係者ならば、自分のところの式神に攻撃されないような護符を所持していた可能性が高いですよね?」
「まさにその通りです」
裕樹の指摘に、猫塚は大きくうなづく。
「ひとつずつでも事件が解決していくのはいいことですね。でも神楽坂家は大変なことになっているのではないでしょうか?」
梓乃が同級生のことを心配した。一度全ての使用人、結界などを点検しなければ不安で仕方ないだろう。
「えぇ。天御柱から何人か応援に行くそうです」
ノートパソコンをたたみながら、猫塚が「では行きましょう」と踵を返した。
一行は、目の前の無人の家に向かって歩き始めた。
鬱蒼とした庭木に囲まれた古い木造家屋は、平屋のこじんまりとした平凡な家に見える。敷地の周囲は、ロープで取り囲まれている。
家へと通じる小道はすっかり草に覆われ見えなくなってしまっている。緑の葉陰からピンクや黄色の春の花が顔をのぞかせているのが、妙に現実離れしているように見えた。周囲に直接的に感じられる違和感はない。四人はそれぞれに、己の五感をフル活用して敷地の周りの霊的なものの痕跡を探ろうとしていた。
「厳重な結界ですね」
敷地境界を取り囲む規制ロープが、不自然な巻かれ方をしている。無関係の人間からすれば、雑に巻かれた変哲のないロープに過ぎないが、裕樹たちには、そこに屹立する透明な壁のような堅固な結界が見えていた。見上げても縁が見えないので、このまま円形、もしくは多面体でこの建物を覆っているのかもしれない。
「はい。現場保存を兼ねて念のため。霊能力がない者には、この建物自体を『認識』することができませんし、術師が不法進入した場合はすぐに連絡が来ます。該者が戻ってくるかもしれないと思ったのですが、半年間誰も訪れてはいません」
先頭を歩きながら、猫塚が説明する。
「誰も、ですか」
蒼雲がポツリと呟く。
「何か違和感でも?」
「いや。ただの事実確認です」
裕樹は、蒼雲の答えに小首をかしげた。蒼雲は、「誰も訪れなかった」ということに何らかの違和感を感じているに違いなかった。もう一度意識を周囲の空間に広げる。
「また何か違和感があったら遠慮なくおっしゃってください。新しい展開につながるかもしれませんので」
これについては、つい先ほどの前例がある。
敷地を取り巻くロープは、ただ無造作に張られているようでいて、その実は、外部からの人を寄せ付けない結界だ。敷地周りの生垣に沿って一本、家の壁に沿って一本の、計二本のロープが、その家を取り囲んでいた。特に内側のロープには、木綿の紙垂が付けられ念入りに結界されている。容易にくぐり抜けられるように見えて、くぐることはできない。もし稀に,霊感がある人間が潜り抜けられたとしても、潜った先は現実とは違う場所だ。
草を踏みながら正面に回ってみると、本来の住居に増築された建物が隣接する、複雑な構造をしていることが分かった。
「ここで祈祷を?」
周囲を注意深く見まわしながら、蒼雲が質問した。
「そうみたいです。右手が自宅で、左手が祈祷所になっていたようです。なにせ評判の霊媒でしたから、平日はもとより、週末ともなるとかなりの人が訪れていたそうで」
森川が資料を束ねたファイルを手に説明してくれる。来訪者が多かったことは、増井米子との話の中でも聞かされていた。
「口寄せの巫女は死者の魂の降霊をやっていたんだろう? そんなに需要があったのか?」
守護霊の言葉や神の言葉を聞きたがる人は多いが、自分の身内や知人の死者の霊を下ろすことにどのような需要があるのか、雅哉には想像が及ばなかった。占いブームとは一線を画す分野だからだ。
「降霊は表だってやっているところが無いので、却って人気なんですよ。神降ろしはうちも引き受けることがありますが、個別な降霊はいろいろ面倒なことが多くて断っていますからね。断っているとはっきり言っているにもかかわらず問い合わせは多いので、公に引き受けていてそれで実力もあるとなれば、全国から人が押し寄せてくるのは間違いないですよ」
「へぇ。そういうもんなんだ」
梓乃の説明に、腕組みをしたままの雅哉が感心したような顔で頷く。
「死者の霊を下ろす場合、普通はその後、その霊の供養が必要になる。そう言う点では、遠山衆の方が分野は近いんじゃないのか?」
浮かんだ疑問を、裕樹もすぐに口に出した。修験道とはいえ本質的には仏教に関係している遠山衆が、降霊に関わっていないことの方が意外だった。
「いや、俺のところは、大抵は調伏だからな。供養もしないことはないけど、憑依した時点で悪霊とみなして調伏しちまうんだよ」
「強引だな、随分と」
裕樹が、同じく驚いた眼をしている梓乃と、顔を見合わせて苦笑いをする。雅哉も富嶽も調伏向きであることは否定しないが、遠山衆全体がそこまで割り切っているとは思わなかった。とはいえ、インドア派が多い霊能力者の世界では、アウトドア派でパワー系の方が希少人材だから、それを否定するつもりもなかった。そもそも、高天原の武器庫の役目を果たす天御柱にはそういうパワー系の術者が多い。天御柱の術者が有象無象の霊能力者とは一線を画す存在である所以だ。
「ところで、降霊の面倒なことって何よ?」
「大抵は人間関係でしょうね」
「呼ばれて喜ぶ霊ばかりではないからね。依り代に憑依して暴れ出すものも少なくない。だから普通は、憑依した時に祓える術者と、霊を下ろす依り代とが必要になるけど、」
「巫女は一人で降霊も除霊もこなしていたのでしょう?」
「口寄せの巫女は、幼い時からイタコとして修行してきたらしいですからね」
最後の情報は森川からのものだ。猫塚はその足下にしゃがみ込み、車から降ろしたアタッシュケースを開いて幣や呪符を準備している。
準備した呪具一式を持って一本目の規制線をくぐった。裕樹達もそれに従ってロープをくぐる。
「建物の中に入るのに、結界を解呪しますのでしばらくお待ちください」
「いや、解呪は少し待ってください。外側の結界をこのままにして、一度外を見たい」
二本目のロープに向かう猫塚を、蒼雲の声が引き止めた。
蒼雲の眼が鋭くなっている。蒼雲の両肩に座った風霧と雲風が、しきりに耳をピクピクと動かしている。
「外ですか?」
「あぁ……。呼ばれている……気がする」
彼の眼は、敷地の左手の奥に注がれていた。手入れをされていない檜葉の生垣の手前に、槙、躑躅、梅など、複数の庭木が無作為に植えられている。
「裕樹」
森川の問いかけには応えず、すぐ隣に立っている裕樹の方へと顔を向けた。
「もうやってるよ」
一本目のロープをくぐって敷地の中に入った瞬間に、裕樹は既に、喚起招魂の呪法を準備し終えていた。




