木霊(こだま)使いの見る夢
御鏡裕樹は変な夢を見た。
手を伸ばして目覚まし時計の時刻を見る。
(まだ4時か)
きっと昨日見た写真のせいだ。興奮してなかなか寝付けなかった。浅い眠りを行ったり来たりしながら、変な夢を見ていた。
昨日の朝渡された資料を、家に帰ってからもう一度じっくり読んだ。
ここ数ヶ月、単発的に起きている自殺や事故死のニュースを扱った新聞記事。そして、公園である親子が写した写真に映り込んでいた心霊写真の件。5枚の写真のうちの1枚。赤いスカートの女の子が映っていた1枚の写真は、さらに別の封緘がされた小さな封筒に入っていて、写真自体にも結界印が押されていた。影響を与える物が映り込んだ写真を封印するための結界印。猫風家の強力な結界印が押された後でさえも、写真のモノは裕樹に影響を与えてきた。
夢の中の彼は、外灯もない暗い夜道を歩いていた。
暗くて周りがほとんど見えないのに、足を動かしている感じだけは妙にリアルに感じられる。
周りを見渡してみても、ただ漆黒の闇のみがあるだけで何も見えない。
それでも、自分の体だけはぼうっと光を放っていてはっきりと見える。
歩く意志もないのに足だけは休みなく動いているのだ。
何も見えない闇の中、後ろから、パタパタという足音が聞こえてくる。
足音はどんどん近づいてきて、誰かが後ろから走ってくるのだということがわかる。
振り向いてみようと思った瞬間、足下を5歳くらいの女の子が走り抜けていく。
暗闇のはずなのに、その子の姿は妙によく見えて、その子の赤色のワンピースがヒラヒラと風になびき、その徐々に遠ざかっていく後ろ姿を呆然と眺めている。
そんな夢だ。
ベッドから抜け出し、廊下に出る。思いがけず、階下から光が漏れていた。
「あら? どうしたの裕。早いのね」
キッチンに下りると、母親の律子はダイニングテーブルの脇に立ったまま、出掛けのコーヒーを飲んでいた。
「あ、あぁ、ちょっと喉乾いちゃって」
「そう。水飲む? それともコーヒー入れようか?」
「ありがとう、じゃぁコーヒー」
手早く入れられた湯気を上げるカップを、裕樹は右手で受け取った。
「そうか、今日は仕入れの日か」
改めてカレンダーをみて曜日を確かめる。母の律子は、フラワーアレンジメントの講師をしている。月曜、水曜日の午後と週末に、花束作りやオアシスを使ったアレンジメントの製作を教える教室をやっている。週末は教室の生徒人数が多いので、必要な花を、自ら仕入れにいくのが金曜日の朝の仕事だ。
それに今日は中学校の卒業式。教室に通っている生徒の何人かが、卒業生に渡したいということで、午前中に花束を作りに来るらしい。そのための仕入れも兼ねている。だから、こんなに朝早いというのに、律子は外出の身支度を整えている。
「そうなのよ。一人で寂しいのよ」
少し甘さを含んだ暗い声でそう言いながら、自分のカップに2杯目のコーヒーを注ぐ。
律子は、時々こういう、母親ではない顔をする。その横顔は、実の息子の裕樹から見てもチャーミングだと思う。かわいらしい人、ってそんな感じだ。夫婦は、未だに新婚のカップルのよう。『俊樹さん』『律ちゃん』という呼び方からして、中学生の息子からしてみれば照れくさい。その上、女子高出身の母、律子は無類の可愛い物好き。同級生から「御鏡の母さんは若いよなぁ」なんて言われて悪い気はしないけど、さすがに年頃の息子の気持ちは複雑だ。
「あら? もういいの? まだ入っているじゃない」
「着替えてくるよ」
半分ほど残っているカップをテーブルに戻して、裕樹は歩き出していた。
「え? いいの? ほんとに? 本当についてきてくれるの?」
「そんな顔で言われたら、放っておけないだろ? 父さんがいないと、1人じゃ大変だろ? 運んだりするの」
「でも、今日は裕の大事な卒業式の日」
「大事っていっても、体育館に座って、卒業証書貰うだけの簡単なお仕事だよ」
母親の言葉に軽く振り返りながらそう言って、裕樹はキッチンを出ていった。
華やかそうに見える花を扱う仕事だが、仕事内容は結構ハードだ。
なんと言っても朝が早い。それに、水を使う仕事でかなりの重労働だ。
仕入れを終えて戻ってくると、すっかり夜が明けていた。裕樹はワゴン車の荷台に積まれた花の入ったバケツを、次々に降ろしていく。花がいっぱいに入ったバケツを、軽々と持ち上げて言われた場所まで移動させて、裕樹は軽く髪についた水滴を払った。腕力には自身がある裕樹だが、それでも一人で全部運び終えると体はうっすら汗をかいていた。
「ごめんね。裕、助かるわ」
「これで最後?」
「えぇ。ありがとう。」
裕樹は、身をかがめて床に落ちた薔薇の花を拾いあげ、テーブルの上に乗せた。その動きが何とも自然で手慣れている。
「じゃぁ、俺、朝飯食って出かけるから」
「はいはい。ごめんね、忙しいのに」
「いいよ、別に」
「写真は一応、川原くんのお母さんに頼んであるけど、それでもできるだけ、卒業式には間に合うように行くから」
「無理しなくていいよ」
「じゃぁ、気をつけていってらっしゃい」
アルストロメリアの花の陰から、律子がちょこっと顔を覗かせて笑顔を見せた。
その声に軽く右手を挙げて応えて、裕樹は冷温室を出た。
いつも通りの、平穏な朝。
*****
その日の夜。
22時を回ってから、裕樹は、ランニングウエアに着替えて部屋を出た。
「なぁに、裕? ジョギングに行くの? こんな時間に?」
母の律子がカウンター越しに時計を覗いてから、心配そうな顔でキッチンから出てきた。
「こんな遅くに行かなくても」
「最近ちょっと、寝付きが悪いから」
靴の紐を締めながら、顔も上げずに裕樹は言った。
「あら? そうなの……でも、いくら今日で中学生が終わったからって、こんな時間に外出なんて」
花柄のフリフリのエプロンで両手を拭いながら、律子は玄関までついてきた。
そして、全てを知った上でなお、母はなるべく自分を普通の15歳の少年のように扱ってくれる。それが、裕樹には少しくすぐったかった。
「わかってる。ちょっと家の周りを走って、すぐに戻るから」
「本当に、すぐに戻るのよ」
「あぁ。じゃぁ、ちょっと行ってくるから」
「暗いから気をつけていくのよ」
心配そうな顔。必死に止めたい気持ちを一生懸命心の奥に押し込めようとしている顔。
「わかった」
背中でそう答えて、裕樹は夜空の下に出た。
(母さんは、いろいろな覚悟を持って父さんと結婚したんだな)
裕樹は、グッと両拳を握り込んだ。
『覚悟がなければ生きられない世界なんだよ』
父さんの言葉が、また頭の中に浮かぶ。
予感、というものが、彼にはあったのだ。
今朝の夢についてだ。
あの夢は、普通の夢ではない。
明日の仕事の場所は、具体的には記されていなかった。
(だがあの夢の場所には、心当たりがある)
20キロほどは離れているはずだが、川沿いに線路が走る住宅街の一角だ。
2時間前より空気が湿っていた。細かな霧雨が体にまとわりつく。予感というか胸騒ぎが、なんとなく背筋をゾクリとさせられるような気配が、その湿り気の中には含まれていた。
彼はそれを確かめるように夜の街へ走り出した。
行くという気持ちは決まっている。
(母さんにはすぐ戻るって言ったけど、ごめん。すぐに戻るつもりはないんだ)
心配させたくなかった。
黙って遅くなることよりもむしろ、ちゃんと理由を言って出てくることでさせてしまう心配を。
明かりの漏れる家々の間の道を走りぬけ、桜並木の続く川沿いの道を走る。
沸き上がってくる感覚は、恐怖ではない。
期待だ。
木霊使いの修行をするようになってから、子供の頃あんなに怖いと思った夜の住人は、また別のモノに怯える悲しくて儚い存在であることを知った。
正義感というわけではないが、今まで何もできなかった状況に手を差し伸べることができる可能性を手にして、その場面に出くわすのが少し楽しみにもなっていた。
線路に突き当たったところで、裕樹は足を緩めた。
それからしばらく、線路沿いの薄暗い道を、一人足早に歩いていた。
細い路地には赤い椿の垣根が続いている。
裕樹は手を伸ばし、その花を数輪手折った。
その垣根沿いに、歩く。
卒業式を終えてから、仲間とみんなでお祝いパーティーをして、いつものように祖父母の家の敷地内にある道場で稽古をして、1時間ほど前に家に戻った。シャワーを浴びてご飯を食べて、少しだけソファーでうたた寝をした。さすがに体がだるい。霧雨で濡れたせいか、ゾクゾクとする寒気までもが、彼の体を襲っていた。
ふと気がつくと、数メートル先の踏切の脇に、女性が立っているのが見えた。
黒っぽいロングスカートに、この時期には不似合いな厚手の上着を羽織って、彼女はこちらに背を向けるようにして立っている。
(霊か……)
裕樹はそう思ってから、これが予感の答えだと気がついた。踏切の数メートル手前で、彼はぴたりと足を止めた。椿の垣根の方に身を寄せて、気配を消してその姿を緑に溶け込ませる。
女性は先ほどから微動だにせずに、線路を見つめている。
(何が起こる?)
冷静に、これから起こることを想像する。
その時。
今まで彼が歩いてきた方向から、パタパタという足音が響いてきた。それはどんどん近づいてくる。
夢の状況と、少しも変わらない。
彼はそこに立ちつくしたまま、足音が近づいてくるのを黙って待った。
(なに?)
足音をかき消すような勢いで、踏切が鳴り出したのはその時だ。
遮断機がゆっくりと下り、電車が近づいてくる音が重なってくる。終電が終わって、もう30分近くは経っている。
(現世の電車ではないか)
踏切の音は、別の世界で鳴っている音だ。
前方から、こちらに向かってくる光が見えた。
裕樹がそちらに気を取られた一瞬に、パタパタという背後から来た足音が彼の脇を通り過ぎ、踏切へと向かっていた。
そして、立っていた先ほどの女性の腕にしがみついた。幼い娘が母親にすがりつく、そんな自然な光景だった。
しかし。
二人のその後の行動は予想外だった。
二人は躊躇うことなく遮断機を抜けて、踏切を渡り始めていた。
電車のライトは着実にこちらに向かってきて、親子はそこへとダイブしようとしている。裕樹の脳は、そう結論づけていた。
(ここで心中したのか)
地縛霊となって、ここから離れられなくなっている。
親子の足は止まることはなかった。救われないまま、彼女らは何度も、ここでそれを再現し続けていくのだろう。
(明日の仕事は、これを片付けたら終わりか)
ふと。
裕樹は、踏切の向こうに、黒い影があることに気がついた。電車のヘッドライトの作り出す明るさの中にあって、そこだけ切り取られたような暗闇が凝り固まっていた。2人を手招く黒い影が見える。裕樹には、赤い2つの目が、キラリとこちらを見たような気がした。
「待て、危ない! 行くな!」
裕樹の足は、自分が発した言葉に刺激され、急に動き出していた。
もうすでに、半分以上踏切を渡り終え準備万端になっていた少女が、裕樹の声に反応してか、ゆっくりとこちらを振り返った。赤いワンピースの裾が翻った。能面のような白い顔。俯いていた顔を、ゆっくりゆっくりと上げていく。
「一緒に遊ぼう。お兄ちゃん」
それは。
人間が、聞いてはいけない声だった。
(まずい……)
ゼロコンマ何秒という刹那の間、裕樹は死を怖れた。
その次の刹那に、反射的に右手が動いた。
それでも、彼の体は止まることができなかった。遮断機をくぐって、裕樹もすでに、落ちていこうとしていた。闇の中へ。
電車のライトが昼の光のように照らす中を、裕樹は、右手を強く後ろに引かれて大きく後ろに倒れ込んでいた。
倒れ込む彼の脇を誰かが駆け抜けて行く気配がして、そして……。
真っ赤な血の飛沫が、裕樹の視界全体を覆い尽くした。
ガタンガタン
ガタンガタン
ガタンガタン
遠ざかっていく電車の音を、裕樹は空を見上げながら聞いていた。