外の世界
教室のある地下フロアから地上階まで上がってくると、周囲の色調は完全に暖色に変化していた。
「はぁ。今日も終わったな」
1日の終わり。階段を上りきって最後のセキュリティーゲートを出ると、ほんの少しだけ解放された気分になる。裕樹は、深呼吸でもするように大きく伸びをした。
「あぁほんとだな、今日も生きて出られて嬉しいぜ」
「俺はそこまで大げさなことは言ってないぞ、雅哉」
「お前はわかってないんだよ、この解放感たるや!」
「雅哉さん、また何かあったんですか?」
梓乃が小声で少し前を行く蒼雲に質問する。
「いつものー」
「いつものあれ」
蒼雲が答える代わりに、彼の両肩の猫が振り返る。雅哉はどうしても父親が苦手らしい。
ロビーフロアの窓から差し込んでくる光が、綺麗なオレンジ色に染まっている。地上2階建てのこの建物は、表向きは皇宮警察のものになってはいるが、詰めている警官は全て、SICSの関係者だ。学院の事務と外部とのパイプ役であり、警備の役目を果たす。
授業が終われば、通常は、迎えの車に乗ってまっすぐに帰宅するだけなのだが、今日は違う。表玄関の広場に猫風家の車は停まっていない。
「俺たちが一緒にいると必ず何か起こるからな。街に出て大丈夫なのか?」
「ならお前は来なくていいぞ」
「なんだよ、それ。冷たいなぁ」
蒼雲の乾いた切り返しに、雅哉は子供のように口を尖らせている。
「で、どこまで行くんだ?」
「警察庁だ」
蒼雲は、ポケットから取り出した偏光眼鏡を、慣れた手つきでかける。
「なんだよ。すぐそこじゃないか。どんなにゆっくり歩いても30分もかからないぜ。あぁぁ。このままパァーッと遊びに行きたいぜ」
雅哉は不満そうに、背後の森を指差した。木々の向こう、霞が関の方向を。
「まぁ、久々に外出できるんだから、それだけでも喜ぼうぜ」
玄関扉をくぐりながら、裕樹がポンと雅哉の肩をたたく。
「ところで、警察庁行くなら、お前らのその大荷物、平気なのか?」
まだまだ不満げな雅哉が、少し意地悪に指摘したように、裕樹も蒼雲も梓乃も、刀や弓などを背負っている。セキュリティで止められるのは間違いない。
「それは大丈夫だ。兵部の人間が迎えに来てくれる」
「カフェで待ち合わせています」
昼休みに、梓乃が電話をかけていたのは、カフェの予約だったのかそれとも、兵部の人間とのアポイントメントだったのか。
「兵部?」
「天御柱の実戦部隊だ。俺たちもそこに所属している」
裕樹が驚いた表情で蒼雲を見返した。
「本当は、所属した時に説明があるが、」
「まぁ、ここ数ヶ月バタバタだからね」
「そういうことだ」
「オレたちも街に出ても平気」
風霧が声を弾ませて楽しそうに周りを飛び回っている。
「平気、ねー」
化け猫3匹は、すでに霊体に変化している。霊能力のある人間にしか見えないが、やはり、トラサイズの巨大猫に変化すると迫力がある。口調だけは可愛いが、ヒトなど一瞬で狩り仕留めることができそうな獰猛さが、その体から溢れている。
「霊体になってもモフモフだな」
雅哉が、すぐ隣を歩いている雲風の背中をガシガシっと撫でる。霊体であっても、見える人間には触れることができる。輝くように白いフワフワの長毛に、ところどころ雲のような黒い模様が入っているのが雲風の特徴だ。
「こんな姿で歩き回って、街中で誰かに見られたことってないのか?」
「時々あるよ」
「あるのかよ」
雲風が、ふふふんと、尻尾を大きく振る。二本のフサフサの尻尾は、動かすだけで風が生まれる。
「めっちゃびっくりした顔するよ」
ちょっと前を歩く風霧が「びっくり」の顔真似をしながら振り返る。
「そりゃそうだろ」
「見える相手はオレ達にもわかるから、なるべく見られないようにはするんだけどね」
「はっきり見えるやつなんてほとんどいないしね」
「ねー」
「だからカフェに行っても大丈夫なんですよ」
風霧の背中越しに、梓乃が微笑みかけてくる。
「この後、日比谷公園内のカフェに予約を入れていますから」
「日比谷サローか」
「行ったことあります?」
店名を言い当てた雅哉を仰ぎ見て、梓乃が満面の笑みを浮かべる。
「まぁ、子供の頃、何度かな」
「待ち合わせするにはいい場所だ」
こちらは蒼雲。
「待ち合わせ?」
東京に土地勘のない裕樹が怪訝そうに尋ねる。
「警視庁や警察庁がすぐ近くだ」
「お前、そんなとこ行くことあるの?」
今度の質問は雅哉からだ。
「警察庁には、結構頻繁に出かけるな」
「ってことはSICSですか?」
「あれ? でもSICSの本部は市ヶ谷の地下だよね?」
裕樹が疑問に思うのも無理はない。先日、裕樹たちが聴取に呼ばれた場所は、市ヶ谷の防衛省内の建物から地下に降りた場所だった。
「本部自体は警察庁本庁舎にあるんだ。市ヶ谷の地下司令所は、実働部隊の本部に過ぎないからな。今日だって行くのは本庁舎の地下保管庫だ」
「へぇ、そうなの?」
「ってあれか! 俺が子供の頃、お袋との待ち合わせにあの店使ってたのって!!」
裕樹を押しのけるようにして会話に割り込んできたのは雅哉だ。日比谷サローの思い出が、ようやく母親の本当の仕事につながったらしい。
「お前の過去は知らないが、賀茂班長は、普段は本庁内におられるからな」
「あー」
と、頭をガシガシと乱雑にかきながら、雅哉は不機嫌そうな声を上げている。
「梓乃さん!」
突然、広場に止まっていた一台の車の後部座席が開いて、女子生徒が一人駆け寄ってきた。朝、梓乃を頼って教室前までやってきていた神楽坂祥子だ。
「今ちょうど、家から連絡がありまして。行方不明になっていた信徒の男性が、……いえ、男性の遺体が、見つかったそうです。これを」
差し出された手書きのメモを受け取った梓乃が、それをそのまま蒼雲に手渡す。
「蒼雲さんの言った通りですね」
「秩父か」
その手元を覗き込んだ裕樹がポツリと呟く。
「これって、この前事件があった現場の近くじゃねぇか?」
雅哉が思い出しているのは、蒼雲の父、猫風蒼龍が直々に出張ったという天赦鬼道宗が死体を集めて何らかの儀式を行っていたといわれる場所のことだ。
「でも、あれって、結局すでに痕跡も何もなかったんだよな?」
「猫風先生が出向かれてから2週間経っていますから、そのあとに何者かが似たような儀式を行ったということでしょうか?」
「やっぱり行ってみないとダメだろうね。蒼雲? どうした?」
蒼雲の視線は、駐車場の方に向けられていた。生徒の迎えの車が数台、連なって入ってきていた。生徒の登下校は、車での送迎が基本だ。車で2〜3時間の範囲ならば、通学が可能だ。地方出身者で東京に別宅を設けていない生徒は、都内の関係者宅に下宿したり、数人は学院内の寮に居住したりしている。
「送迎はいつも同じ運転手か?」
「え? あぁ、私ですか? うちは、数人が交代で」
自分に聞かれているとは思わなかったのか、神楽坂祥子は、蒼雲から見つめられてようやく返答した。
「そうか」
蒼雲が何を気にしているのか、尋ねようとした裕樹の言葉は、背後からの気配に遮られた。ちょうど正面玄関の扉が開いて、生徒たちが賑やかに出てくる。
「きみも気をつけろ」
そう言いながら、蒼雲が祥子に何かを差し出す。符号の書かれた小さな紙切れだ。
「これは?」
「気休めだ」
「ほぉ。お前にもそんな気遣いができるのか」
ニヤニヤと眺めている雅哉を無視して、蒼雲はすでに歩き始めていた。
「無視かよ」
「蒼雲さん、先ほどのあれは、護身用ですか?」
祥子を見送ってから、梓乃が小走りで追いついてきた。
「そんな大したものじゃない。ほんの気休めだ」
そんなことを話しながら歩いていると、ほどなく、木々の影を抜けて、桔梗門から皇居前広場に出た。外国人の姿もかなりある。
「こんな時間なのに、人いっぱいだな」
「皇居ランナーっていうのでしょう?」
「何人か死者が出たあの夜からまだ二週間ちょっとだっていうのに、よく来るね〜」
雅哉が言うように、土御門典膳の突然の襲撃によって、この皇居前広場でも、民間人に複数の死傷者がでた。未だ広場の半分ほどに規制線が張られ、舗装がめくれあがったり、石橋の一部や街灯が壊れたりしたままだ。
「場所が標的になったテロではないと思われているから、市民には関係ないんだろうね」
雅哉の方を振り返った裕樹は、何かの気配に引きつけられた。
陽炎のような人の影。周りの人たちとは色調が違う。何層かフィルターを重ねた世界の、その一番内側にいるような、そんな色だ。人影の周りを、慌ただしく現在が流れていく。
「放っておけ」
思わず立ち止まろうとした裕樹の肩を、蒼雲が軽く叩く。
「この辺りには多い。未だに、忠誠心が揺らがないんだろう」
「でも」
「相変わらず冷たいのな、お前」
ニヤリと笑いながら雅哉が茶化すように二人の間に割り込む。
「そんなものにいちいち対応していたらキリがない」
「真っ当な意見だと思うぜ、俺も」
「それはそうなんだけど、取り残されている感じがね……」
裕樹は歩みを止めることなく、軽く視線だけ、もう一度そちらに送った。
セピア色の軍服姿の人影がいくつか。皇居の周りを走るランナーたちに揺らぐことなく、まっすぐに立っていた。
「……他人事とは思えなくてね」
裕樹の最後の言葉は、広場の雑踏にかき消されてしまっていた。
すでに書いてある在庫があるので延々と続いています。
すみません。




