心に触れるもの
裕樹は唐突に目を覚ました。穏やかな朝。外は薄明。しかしまだ、目覚まし時計が鳴る前だ。
世間は先週末からゴールデンウィークに入っていて、今日からは三連休。しかし、霊泉学院に祭日休みは無く、今日も普通に学校がある。それに関わらず、休日でも週末でも朝練は休みにならない。
それにしても猫風家の朝は早い。
一番早いのは蒼雲で、魂追法の呪法を行ったばかりということでさすがに今朝は免除されているが、毎日、朝三時から四時半頃にかけて猫化の修練を行っているらしい。らしいというのは、裕樹がその時間に見学をしたことが無いからだが、裕樹自身にとっても、なかなか確認する時間に起きるのは難しいのでそのままになっている。今日は、裕樹達の朝練開始は五時半からで、各々が素振りをしたり弓を引いたり、乱組みをしたりして一時間ほど汗を流す予定だ。地下には道場の他にジムやプールもあり、体を鍛える手段には事欠かない。朝食が七時からなので、それまでは皆、かなりギリギリまで体を動かしていることが多い。
裕樹は、感じた違和感を確かめるために意識を集中させた。結界に誰かが触れる気配だ。
猫風家の敷地は、敷地境界を通じてかなり強力に周囲から守られている。この結界は、猫風家に居住する全ての術者が共同で維持しており、裕樹達も、敷地境界周辺に段階的に結界を張ることでその結界の強化に貢献している。それとは別に、自分たちで、離れの周囲にも結界を張っている。
今感じている違和感は、通常なら感じるはずのない違和感だ。外部から何者かが侵入したわけではない。これは、内部の人間のものだ。しかし裕樹には、その微妙な変化が感じられた。藤棚の下に、誰かがいる。しかも、急にそこに気配が出現したような感覚だ。これまで抑えていた気配を、急に表に出したのかもしれない。そんな感覚だった。常に身の周りに置いている藤の花の精霊である那由他からそれが伝わってくる。学院の生徒を含め、呪術者が土蜘蛛衆に狙われていることもあり、特に夜眠っている間などには、周囲に式神を置いて警戒するようにと命令が下っている。裕樹はそれ以来、水仙の花や藤の花の精霊を式神として使っていた。
しばらくその感覚に意識を集中してから、ゆっくりと体を起こした。時計を確認すると、まだ四時前だ。
薄暗い明かりの中、裕樹は寝間着から道着に着替えて袴を付けた。澄み切った朝の空気の中へと出る。庭全体に、藤の花の甘い香りが濃厚に満ちている。廊下の向こうはすぐ濡れ縁で、その先は庭になっていた。静まり返った庭だ。
部屋から一切遮る物がないが、濡れ縁からこちらには何重にも結界が張られていて、人はおろか蟻一匹入ってくることはできない。
開けっ放しの縁側から濡れ縁に出て、草履を履いて庭に降りる。
庭木の隙間を抜けて、池の淵を歩いて藤棚の下へと辿り着いた。
池を望む位置に置かれた庭石に腰掛ける人影があった。
「蒼雲?」
座っているのは蒼雲だった。蒼雲にしては珍しく、声をかけられるまで気がつかなかったようで、ハッとしたように俯いていた顔を上げた。
そしてこれもまた珍しいことだが、猫を連れていない。
「何の用だ?」
声が少し震えている。
「蒼雲? 大丈夫か?」
様子がおかしい、ような気がした。
いつもと変わらぬように気を抑えているが、裕樹には何となく、その変化が分かった。
「そっち、行っていいか?」
「来なくていい」
拒絶されたが、裕樹はもう歩き出していた。
裕樹は、黙って、蒼雲の隣に腰掛ける。
「来なくていいと言った」
顔を背けたままぶっきらぼうに、突き放すような声音だ。
「大丈夫。俺には、この暗さではほとんど見えないから」
裕樹は真っ直ぐに池を見つめたままその拒絶を静かに受け入れる。
薄明るい朝の空を、甲高い声を上げて鳥が飛んで行く。二人はしばらく黙ったまま、池を眺めていた。時々小さなさざ波を立てて、鯉が水中を動く。二人は、その水面に広がる波紋を見つめている。
「那由他に、……聞いたよ」
繊細なガラス細工にそっと手を伸ばすように慎重に、裕樹は言葉を選んだ。
応えは、「何を」では無かった。
「……余計なことを…」
再び沈黙が二人の間を満たす。裕樹は、なぜ蒼雲がこの藤棚の下にいるのか知っていた。ここにどのような思い入れがあるのかも知っていた。おそらく、野中美菜世の姿が、彼に昔のことを思い出させているのだろう。そしてそれが、彼にとってどれだけつらい体験かも、彼は既に知っていた。
「蒼雲、お前の母さんって…」
「俺には、母上の記憶がほとんどない」
遮ったのは、絞り出すような切なさ。真っ直ぐに前を見つめたままだ。
「猫風の跡取りとなる子供は、早い段階から親と引き離されて化け猫達と生活させられる。だから、親を知らない。親子の情という物を知らない。俺にとって父上は、物心つく頃にはもう、親ではなく師匠だったからな。そして、思い出を作る間もなく母上は死んだ」
裕樹は、蒼雲の言葉を黙って受け止めていた。視線は向けず、話を聞く体勢だけは作っている。
「母上は優秀な猫使いだった。猫使いは、退魔のために命をかける。だから、母上は当然のことをしただけなのかもしれない。でも俺は、命をかけて守られるだけの価値があったのかとずっと考えている。俺なんかより母上が生きていた方が、高天原にとっては有益だったんじゃないかってな」
ひときわ大きな音を立てて、鯉が水面を叩いた。大きな波紋が水面を広がり同心円の円をいくつも描いていく。その波紋の消えていくさまを、二人は静かに見守った。
「だが、野中美菜世は、例え価値など無くても、母親だから、愛しているから子供を守ると言った」
その言葉が、彼を混乱させていた。
蒼雲はおそらく今も、母を守れなかった三歳の自分を責めている。その感情を深く深く沈めるために、蒼雲は意図的に、己の感情の一部を消している。
裕樹は、少し視線をあげて、藤の花の向こうの空を見つめた。少しずつ明るくなってくる空は、まだ不確かな色をしていた。世界のあらゆることは不確かで、自分はまだ未熟すぎる。それでも、自分にだって分かることはある。
「母親にとって、子供は自分の分身なんだって。うちの母さんが、よく言ってる。父親なんかよりずっと、母親の方が、子供のことを自分の一部みたいに感じてるって。だから、命懸けで守ろうって思う。命懸けで子供を守ろうって思うのは、母の権利だよ。特権かもしれない。それを否定しちゃいけないんじゃないかな」
裕樹は誰に語るでも無く、まるで独り言のようにそんなことを言った。
「お前の母さんも、お前がいつまでも苦しんでいるのは辛いと思うよ。だって、お前を苦しめるために助けたわけじゃないと思うからさ。そりゃぁさぁ、お前が風の一族の大事な後継者だからっていうのもあったかもしれないけど、それだけじゃないよ。愛していたから守りたいと思った。いつもそう伝えてくれているのに、お前はそれを拒絶している。いつまでも自分のことを責めて拒絶していたら、誰も救われない。だからお前は、もう自分を許してやった方がいい」
風が吹いて、藤の花房を静かに揺らす。甘い香りが二人の距離を満たしていく。蒼雲が感情を押し殺しているのが分かった。葉っぱ同士が擦れ合う微かな音が妙に耳につく。
「俺は甘え過ぎだって言われているけど、お前はもう少し、誰かに甘えてもいいと思うぜ」
裕樹は、蒼雲の肩に腕を回した。
「俺ら、親友なんだからさ」
照れを隠すために、裕樹は自嘲を込めて笑った。
腕の中の気配が小さく震える。
裕樹には、それまですぐ傍にあった那由多の気配が、遠慮気味に遠ざかったのが分かった。
顔を伏せたままの蒼雲が、手の甲で目元を拭う仕草をする。
「すまない。気を使わせたな」
しばらくしてから、蒼雲は微かな声で呟いた。
その台詞と言い方がいかにも蒼雲らしくて裕樹はクスッと表情を緩めた。
「そういうのがさぁ。他人行儀なんだよ、お前は。もっと俺に甘えていいって」
「断る」
にべもない拒否の言葉。あまりにも即答過ぎて、再び笑い出したくなる。
「そんなに俺は頼りないか?」
「お互いの傷の舐めあいみたいなことはしたくない」
「舐めてくれないじゃん、お前」
裕樹は、耐えきれなくて思い切り吹き出すように笑った。
「俺、確かに頼りないからな。でも、俺はなるべくお前に甘えないように頑張るから、だからお前は俺に甘えて来いよ。お前の傷、俺が舐めてやるから」
「舐めてもらうのは猫たちで間に合ってる」
「素直じゃないな」
「うっせー」
裕樹の腕を振り払うように外し、悪態をつく。すっかりいつもの蒼雲に戻っている。
「でも…。ありがとう」
「え?」
裕樹が思わず聞き返してしまうほど、それは突然だった。
「道場行くぞ」
何事も無かった顔をして、蒼雲はもう立ち上がっている。
「蒼雲はツンデレだからね」
いつからそこにいたのか、庭の飛び石の上に風霧と雲風がちょこんと座ってこちらを見ている。
「ほんとは舐めてもらうの嬉しいくせに」
「そうそう。舐めるの好きなのに」
「お前らは煩い」
「わーい、蒼雲照れてる」
「照れてる照れてる」
軽やかに飛び石を移って来た二匹の化け猫が、蒼雲と裕樹の目の前までやって来てニマニマと笑っている。
「あー、うっせー」
頭をガシガシ搔き上げながら、蒼雲は離れの方へと歩いて行く。
「あ、おい。待てよ、蒼雲」
その後を、裕樹と二匹の化け猫達が追いかける。楽しそうに。




