魂追(ソウルトレース)
部屋の四隅に呪符を貼って、蒼雲は部屋の中央に戻った。
野中美菜世が、うつろな表情で目の前のベッドの上に横たわっている。
着替えと準備を終えた蒼雲は、魂を失った野中美菜世の収容されている病室に立ち入っている。猫使いの正装、水干に袴姿。そして肩には、彼の使役する二匹の化け猫。
右肩に風霧、左肩に雲風を乗せたまま、女性が横たわっているのを彼女の頭を右手方向する形で眺める。正面の壁は鏡。マジックミラーになっているので、蒼雲の側からは直接向こうに立っている人の顔は見えない。しかし、人の気配を読める術者にとっては、壁自体があってないようなものだ。鏡の向こう側では、裕樹達仲間三人とともに、蒼龍はじめとした大人組も立ってこちらを覗き込んでいる。見られている感覚どころか、視線そのものまでも感じる。気配が筒抜けで気持ち悪い。蒼雲は意識して壁の外からの感覚を遮断する。
「まったくいつも通りって顔してるな」
雅哉が小声で、すぐ隣に立っている裕樹に話しかける。傍目には、いつもと変わらない淡々とした調子に見える。でも裕樹には、普段より過度に抑制された気配に、蒼雲が緊張しているのを感じていた。
裕樹達は、つい先ほどまで、これから蒼雲が執り行う呪法の難易度について、蒼龍から話を聞いていた。
魂追法は緻密で繊細な霊力のコントロールを必要とする。出力を調整して、それを長時間維持する必要があるのだ。それは、たとえるならば、数メートル上空から水の入った容器をゆっくりと傾け、地面に置かれたグラスに、極めて少量の水を同じ量、途切れさせずに延々と流し続けるくらいの作業だ。しかも、追跡するべき魂は非常に弱っていて、極めて弱い出力で迎えないと、破壊してしまうことがある。強大な力を一気に放出する戦闘系の呪術の対極にある呪法だ。
(緊張してるな)
蒼雲は、自分の体が息詰まるような緊張感を感じていることを自覚していた。指先が震えている。右手をグッと握りこみ、大きく深呼吸をした。蒼雲がこの呪法を苦手としているのは、彼自身が持っている膨大な量の霊力を、徹底して抑え込み、細く長く出し続けるという作業が必要だからだ。強い気を出し続けるのとは根本的に違う。なので通常は、戦闘系の能力が高い呪術師が使える技ではないのだ。
蒼雲は静かに目を閉じた。
しばしの沈黙。
意識を集中させているのが、裕樹たちの目にも視えた。青いオーラが太陽から放射される火焔のように激しく四方に放出されて、彼の周りを取り巻くように覆っていく。
およそ2分ほどその状態を保ち、閉じた時と同じように、静かに目を開ける。
あふれ出していた霊気が、一瞬にして体の中に押し込められる。
蒼い眼が、冷たく、それでいて熱を帯びた色に輝いている。その光は、まるで、氷が燃えているかのような深淵な光だ。緊張の色は既にない。不安も恐れも現れてはいない。
「はじめます」
この言葉は、こちら側で自分を見ている蒼龍に対して言ったものだ。彼の動かした視線が、確実に蒼龍の瞳とぶつかる。部屋の中には結界干渉を受けない特殊なマイクが設置されていて、隣の部屋の音は、モニター室になっている隣室に届くようになっていた。
蒼雲の父蒼龍は、蒼雲が呪法を失敗した時のためにこの場に立ち会っている。なにしろ、蒼雲が実際にこの呪法を仕事で使うのは初めてなのだ。そしてこの立ち会いは、いざという時に蒼雲を守るためにではなく、女性の魂を救済するためのものだ。魂が完全に体から離れてしまった時、すぐに体ごと幽冥界に送れば、魂と体を再び出会わせられる可能性がある。それでもし運が良ければ蘇生も可能だ。百万分の一くらいの確率ではあるが。
「風霧、雲風」
二匹の猫に呼び掛けると、彼らの体から青白い霊気が立ち上ってくる。化け猫としての力を開放しているのだ。吹き上げてくる風で、蒼雲の髪が揺れる。化け猫たちの眼も爛々と輝いている。普段から蒼くてきれいな目が、ロイヤルブルーのサファイアのように眩いほどの輝きを放っている。
蒼雲の右手が、手の中の呪符を野中美菜世の体の上に放ると、白く仄明るく光る鎖が、彼女の体を一瞬でベッドごと拘束した。
蒼雲は、ベッドに上り、彼女の上に馬乗りになる形で膝をつく。
風霧が軽やかに肩から降りる。左肩に乗った雲風のみがそのままだ。人差し指を伸ばして左右の指を組み合わせ鎮魂印を結び、両手の人差し指と親指の間に左袖の袂から取り出した呪符を挟む。
「やるぞ、雲風」
「いいよ、蒼雲。準備万端」
唐突に、雲風が蒼雲の首筋に牙を立てる。雲風自身の頭が影になって良く見えないが、短くない時間、そのまま動かない。
そのままの状態で蒼雲が低く呪文を唱えた。少し長めの咒だ。
手の中の呪符が青白い炎をあげて消える。
雲風が蒼雲の体から体を離し、彼女の体の上に降りた。蒼雲の首筋に、まるでドラキュラにでも噛まれたかのような二つの傷が残り、ジワリと出血していた。
蒼雲は、右手をゆっくりと彼女の丹田の上に置く。そしてその手を、ゆっくりと上へと上げていく。その手の動きに呼応するように、彼女の体から、金色の糸が揺らめくように立ち上がってきた。
それは、まるで陽炎のように見えた。
ユラユラと不規則に揺れる細い糸の集合体。今にも切れてしまいそうに細く、頼りない糸。彼女の体と魂をつないでいる経絡糸だ。蒼雲が想像していたより遥かにひどい状態だった。しかし、蒼雲の表情は変わらない。ボロボロの細い糸が、所々切れたりくっついたりを繰り返しながら、かろうじて繋がっている状態だ。蒼雲は、慎重に左手を近づけ、糸を左右から挟むようにする。その距離をさらに慎重に近づけていく。
蒼雲の掌がほんのわずかな光を放っている。
ゆっくりとゆっくりと糸の放つ光に合わせるように調整した気を、自らの両手に集中させる。そしてゆっくりと、糸に触れる。
一瞬。
フルルン
と、美菜世の魂が震える気配が指の先で微かにした。
経絡糸の先に、まだ、彼女の魂が存在している証拠だ。
極度の緊張を保ったまま、蒼雲の両掌が、彼女の経絡糸を優しく包み込む。そして、糸を糾うように、慎重に慎重に、自身の気で経絡糸の周囲をコーティングしていく。
風霧と雲風は、ベッドに飛び乗った状態で、彼の作業をじっと眺めている。
作業自体にほとんど動きは無い。膝立ちで自分の体重を支えながら、両掌に集中させたほんのわずかな気を、左右の掌を擦りあわせるようにして糸に練合わせていく。ゆっくりとした動作が、規則正しく繰り返される。
ゆっくりとゆっくりと、ただ時間のみが過ぎて行く。
蒼雲の作業を見守りながら、裕樹は、壁にかかった時計をチラリと見た。
時計の針は15時を回っている。
蒼雲があの部屋に入ったのが14時少し過ぎだから、かれこれ1時間の時間が過ぎていることになる。
蒼雲は、作業を始めてからずっと目を閉じている。
動きの地味さとは対照的に、蒼雲の額には玉のような汗が浮かんでいた。
汗は、額を流れ落ち、顎を伝ってポタポタと袴の上に落ちる。傍目にはまったく想像もできないが、運動量に換算すれば、全力疾走を何キロも延々と続けている状況に近い。その作業を、1時間以上繰り返しているのだ。
裕樹達は、彼の集中力が、一瞬足りとも途切れずに続いていることを知っていた。彼の体から余分な霊力の放射が無く、ただ掌のみから、極めて弱い霊力が、一寸の揺らぎも無く放出されている。ものすごい制御力だ。裕樹達は、その神業とも思える技を実際に目で視ていた。
風霧はそれを横たわる女性の枕元に座ってじっと見ていて、雲風は彼女の体に前足をかけるような形で踞って眺めている。静かな静かな作業だった。
「何を、やっているのでしょうか?」
じっとマジックミラーの向こうの作業を見つめていた梓乃が、たまりかねて蒼龍に質問した。
同じ猫使いである梓乃にも、蒼雲のやっている呪法は初めて見るものだ。ほとんど動きがないために、何をやっているのかわかりにくい。呪符や呪術の類いは、この一時間の間使われていない。最初に発動した呪符による呪術を延々と維持し続けているようにしか見えない。
「体から離れている魂を追跡するにしても、辿るべき経絡糸があまりにも脆弱だと辿る前に千切れてしまう。だからその前に、経絡糸を撚り直して強化する必要がある。強化してから魂を辿るのだ。距離が離れているのか、魂自体が何者かに厳重に拘束されているのだろう。それにあの脆さだ。それで時間がかかっている」
「でも最初の呪符には……」
裕樹が更なる質問をした。チラッと見えた最初の呪符は、結界符の類いに見えた。どのような咒が使われているにしても、あの呪符で維持するには複雑すぎる呪術だった。
「その通りだ。あれは干渉してくるものを防御するために張っている守護符の類いに過ぎない。経絡糸を引っ張りだす呪術は、呪符ではなく咒そのものにあるからな」
「それでは蒼雲さんは、それをこの1時間、ずっと自分自身の精神力でのみ制御しているということですか?」
「元々そういう類いの呪法だ」
身に秘めた霊力を用いて呪術を具現化させる方法は、咒、この場合は実現したい結果や形のことだが、を強く念じて、それを現実の世界に出現させる。つまり、咒そのものを自由に操ることができれば、呪文も呪符も呪具も、本来は必要としない。原則はそうだ。しかしその原則を実現するためには咒を継続して実現し続けられる霊力・呪力が求められる。
現実には、心の中で想像しただけのものを、具体的に形ある現象として出現させるのは極めて困難だ。細部まで厳密に具体化する必要があるし、継続して念じ続ける必要があるからだ。具象化の途中で一瞬でも気が逸れれば、その呪術は発動しない。そのため、呪符や呪具を使ってその具現化を助ける必要がある。
蒼龍は平然と言ったが、蒼雲のやっている作業は非常に高度な呪法で、15歳の少年が容易に使えるようなものではないはずだ。
「だから苦手だと言っていたのだろう」
「あのねぇ、猫風君。苦手というレベルじゃなくて、呪符も呪具も用いないであんな呪法を発動させるなんて、普通の術者が何十年修行してもできるようにはならないレベルのものよ。確かにあなたも10代で使っていたけど、だからってねぇ」
腕組みをして作業を見守っていた弥生も、呆れた口調で蒼雲を見上げる。
「それは仕方が無い。あれは俺たち風の一族に伝わる秘術のひとつだからな。意識の相転移。化け猫と一体化することで意識を人のものから化け猫のものへと変化させている」
「意識の変化?」
「人ではなくなっているということですか?」
「簡単に言うとそうだな」
梓乃と裕樹の質問に簡潔に答える。猫使いにとって、完全猫化は諸刃の刃となる。完全猫化の状態が長く続き猫化が暴走すれば、人に戻れなくなる。猫使いは、それを一番恐れている。そのため、一瞬であっても人で無くなる精神状態に陥ってはいけないと教えられる。しかし今、目の前で展開されている風の一族の秘術は……。
淡々と説明していた蒼龍の目が細められた。
「そろそろ終わる。もし向こうに敵がいるのなら、繋がると同時に気づかれる可能性が高い」
一同の目が、再びマジックミラーの中の世界に注がれる。緊張が走る。
蒼雲が目を開いている。完全猫化した時の眼だ。縦の猫の眼が青く輝いている。
「雲風」
短く、己の左膝に寄りかかるように踞っている白黒斑の化け猫の名を呼ぶ。
雲風が身を起こし、首を伸ばすようにして、蒼雲の手の中の金色の糸をペロリと舐める。
蒼雲の両手が糸を握り込む。
再び目を閉じる。
蒼雲の全身から膨大な量の青いオーラが立ち上り彼の体を覆い尽くす。それが一気に、両掌から手の中の経絡糸の中へと流れ込んで行くのが視える。
ほんの数十秒。
これまでの時間を考えれば本当に一瞬だ。
「見つけた」
そう固い声で言って目を開く。すぐに印を結び呪を唱える。ベッドの周囲を取り囲むように、結界が出現する。
隣室の大人たちは、その声を受けて、壁に貼られた地図へと目を移す。地図の上に一カ所、赤い印が突き刺さっている。
「やはりな」
腕を組みながら、蒼龍が低い声で呟く。
その瞬間も、蒼雲の作業はまだ続いていた。蒼雲の手は、握った金色の糸を、強引に引っ張りながら、横たわる美菜世の体に押し込むような動作を繰り返している。それと同時に、新たに懐から取り出した呪符を数枚、彼女の体の上に貼り付けて起符する。
ほんの一瞬、彼女の腹の辺りから禍々しい黒い煙のような物が這い出てくる。敵が放った呪詛だ。しかし、裕樹達がそれを認識するよりも早く、光の爆発とでもいえるような反応が起きる。部屋中が白く飛ぶほどのまばゆい光。強い光の下で割られたガラスの破片のように、まばゆい光が迸って消える。
光が収まると、蒼雲の手はすでに自由になっていた。着物の袖で額の汗を拭い、肩で大きく息をする。彼女の体を拘束していた鎖のようなものも消えている。あの禍々しい影も消え失せていた。
「終わりました、賀茂班長」
息が乱れている。
弥生はマイクを口元に寄せスイッチを入れる。
「お疲れさま、蒼雲君。すぐに開けるわね、ちょっと待って」
「医療スタッフを呼んで、彼女の状態を診て下さい」
蒼雲は、正確に壁の向こうの賀茂弥生の顔に視線を合わせてそう言うと、ゆっくりと、気怠そうにベッドを降りた。




