猫との遊戯
猫風蒼雲は、遊戯室の真ん中で2匹の猫の標的にされていた。
白い体に黒い雲のような模様のある雲風と、全身灰色の風霧。豊かな長毛の毛が、自らが発する気に揺られて怪しく光る。
どちらの猫もすでに尻尾は2本に分かれており、虎のような大きさに変化している。
蒼雲も完全に猫化し、蒼銀の目が、細く縦に光っている。
「行くよ」
風霧が実に軽々と、ヒョイと飛びかかって来て右手を振るう。右手の先からは鋭いツメ。
蒼雲はそれを目の端でよけて、自分も猫のような軽やかな動きで大きく風霧の懐に飛び込む。そして、蹴りが飛んでくる前に、体に1発拳をあてる。
「いたた……よっと」
猫はのけぞって飛ばされながら、右足で思いっきり蒼雲を蹴る。
瞬時に左前腕で顔面だけを防御するが、後ろに大きく吹っ飛ばされる。
「っく……」
飛ばされた体を、下から雲風が鼻先で弾く。
蒼雲は、空中で猫のような可憐さで体の向きを上下入れ替えると、音も立てずに着地する。これですでに雲風の間合いの外だ。
この5年間で、猫たちも蒼雲も体が大きくなった。
それに、強くなった。
「狩りごっこ、楽しいね」
風霧が、上半身を低くして獲物を狙うポーズでこっちを狙っている。
「蒼雲が、だいぶ長く遊んでくれるようになったから嬉しい」
「追いかけがいがある」
雲風も同じようなポーズでこっちを見ながら尻尾を振っている。
「獲物のネズミ役は、楽しくないけどな」
2匹の猫がほぼ同時に向かってくる。
「うっにゃぁ〜、今のタイミングで外されちゃうんだ」
「オレは当てたもんね」
「あぁ、アタシもやる!」
休む暇さえ与えず、化け猫達が猫パンチを繰り出してくる。
「ってぇな」
頬に、ツメが当たった。引っ掻かれたところに、見る間に赤い血の珠が連なる。
それを拭う手の甲にも、無数の引っかき傷。
化け猫たちと遊んでやるのも使役者である蒼雲の仕事だ。猫達との信頼関係を築くためにも、食事やグルーミングなどの世話や、遊びや狩りの練習に付き合うのは欠かせない日課。まだ若い風霧と雲風は、放っておけば何時間でも遊んでいるほどのやんちゃ猫。
「お前ら、いつまでやるつもりだよ」
「いつまでって、飽きるまで」
「だから、いつ飽きるのかって聞いてんだ」
「え〜、もうアタシけっこう飽きてる」
理不尽な答え。
「なんだよ、それなら止めろよ」
「でも、まだ1時間しか経ってないよ」
「1時間も、だ。俺は昨日、2時間しか寝てない」
「え〜、オレ18時間」
「勝った〜、アタシ20時間」
「あ〜、もう止め止め。俺は寝る。」
容赦ないじゃれ合いに、蒼雲の体に引っかき傷が増えていく。
「え〜、やめちゃうの、つまんない」
「飽きたって言ったのお前らだろ」
猫は気まぐれだ。本来、主従関係を結ぶような動物ではない。
「飽きたけど、止めちゃうのはつまんない」
「アホか。飽きたのに遊ぶ必要ないだろ」
「だって楽しいもん」
白黒猫の背中を踏み台にして、灰色猫が飛び掛かってくる。
その手をギリギリのところで躱す。
「ちょっと〜。アタシを踏み台にしないでよ」
「うっさいにゃ〜。邪魔なとこにいるのが悪いんだろ?」
「あ〜、もう、俺は寝る」
「やだやだ。もっとやろうよ」
「飽きたんじゃないのかよ」
「飽きたけどやる」
「飽きたならやめろ」
両方から向かってきた化け猫たちの手を、右手左手それぞれで受け止める。鋭い爪が、顔に触れる寸前で止まる。掌に触れる彼らの肉球はじっとりと汗ばんでいた。
「頼むから休みをくれ」
心からの言葉だった。いつものことだが、睡眠時間が足りていない。体がだるい。
猫と同化する猫化は、本来、猫のような長時間の睡眠を必要とする。一晩中猫化の訓練をしたら、翌日の昼間は丸々寝ていても足りないくらいの疲労感に襲われる。
ここ数ヶ月、それを無視して追い込まれている。
しかも、ネズミ役をするこの時間は、修行時間ではなく自由時間の一部という扱いだ。引き換えに睡眠時間が削られる。
「お前らも寝るぞ、来い」
「わーい。寝る寝る」
猫は実に気まぐれだ。
「その前にお腹空いた」
「分かった、飯もやる。早く来い」
「わーい」
「わーい」
化け猫達の変化が解け、猫のサイズに戻る。
それでも、普通の猫よりは随分と大きな体ではあるのだが。
「ご飯食べたら抱いて〜」
「寝るって言ってるだろ」
「え〜、やだ〜。ご飯食べたら撫でてよ〜」
「蒼雲様」
道場の入り口から声がかかる。
「うん?」
「蒼龍様がお呼びでございます」
蒼雲の身の回りのことを手伝う、猫風家の従者の一人だ。
「……はぁ」
ガックリと肩を落とす。
「くっそー、わざとこのタイミング狙ってきてるだろ。どれだけ俺の睡眠時間削れば気が済むんだよ」
部下に聞かれないように、小さく舌打ちする。
(またお昼寝はお預けか)
父親からの呼び出しに、行かないという選択肢はない。
「わかった。どちらに?」
「お部屋におられます」
「着替えてからすぐに参ります、と伝えてくれ」
軽く汗を流して、破れた道着を着替えてから蒼雲は父親がいる奥座敷へ向かった。
*****
猫風家の屋敷は緑深い森を背にした広大な敷地に建つ。母屋の他に、武道場や神社建築の神殿、使用人たちの宿舎など、複数の建物が点在している。離れの地下1階にある遊戯室から地上に出て、庭園の中を横切る渡り廊下を通って母屋に移る。曲がりくねった廊下をいくつも曲がり、いくつかの障壁を通り抜けて、突き当たりの奥座敷の前まで来る。
この部屋の前に来ると、緊張する。
「お呼びでしょうか」
「入れ」
呼びかけるとすぐに返事が来た。中の気配を伺う。
慎重に障子に手をかける。
(油断はできない)
開けた瞬間、猫が飛びかかってくることもあるからだ。
案の定。
(来たか!)
扉を開けた瞬間に、オレンジ色の長毛猫が飛びかかってきた。
慌てて腕を引き最初の猫パンチをかわす。
虎風。
父親の使役する化け猫のうちの1匹だ。
部屋の奥の座椅子に緩やかにあぐらをかき、父親の蒼龍が座っているのが見える。臙脂色の着物姿だ。
(まずいな、色が見える)
猫化が消えかけているらしい。
猫の視覚は色の鮮やかさに対して単調だ。赤い色が灰色に見える。でもその代わりに、暗闇でも昼間と変わらない視力が得られる。
(猫化が消えかけているということは……)
「遅いぞ!」
地面を片足で蹴った虎風が、信じられない早さで腕に噛み付いてくる。
(間に合わない)
反応速度が落ちている。がっしりと、腕にしがみつく猫の重さを感じた。手首に牙が2本食い込んでいる。空いている手で払いのけようとすると、体に手が触れる前に、くるりとバク宙をしながらその身を離し、音も立てずにテーブルの上へと降りてしまった。
蒼雲の指の先に、虎風の柔らかな毛の感触だけがほんの少し残る。
「24時間猫化しておけと言ったはずだ」
「すみません」
猫化の維持には、相当の集中力が求められる。
特にこうして、近くに自分の猫がいない状況で猫化を維持し続けることは難しい。中程度の猫化であっても、今の蒼雲には、15時間維持するのが限界だ。
猫化はそれを維持し続ける集中力と精神力がいる上に、体にも相当の負担を強いる。
そもそも猫化とは、化け猫の力を借り、遺伝子の発現量を変化させ、視力、聴力、嗅覚などの感覚器だけではなく、関節の可動域や筋力など体の構造までもを瞬時に変化させる術だ。人体の限界を超える負荷がかかる。猫化している間は、体中の神経が針で刺されているかのように痛む。それどころか、猫化を解いてもしばらくは、恐ろしいほどの疲労と痛みで体が動かないことすらある。
その上、猫化が暴走すれば、人間に戻って来られなくなる。体が壊れて、やがて心も喰われてしまう。過去の猫使いの中には、そうして猫化が暴走して戻って来られずに、ついには虎になってしまったという者さえ、何人もいる。
そのため、猫化を限界ギリギリのレベルまで高めた上で、それを維持し続ける訓練が、猫化の程度をコントロールするためには欠かせない。
「来月には東京の屋敷に移るのだぞ。俺の目が届かないと思って油断しているなら甘いぞ」
「油断は、していません」
自由にできるとは思っていない。
「明日の仕事だが、御鏡俊樹が来られなくなったと連絡があった」
「そうですか」
座るとすぐに、蒼龍が翌日の仕事の話を始めた。蒼雲と裕樹の父とで処理する予定の仕事だった。
「では延期ですか?」
「そうだが、それほど猶予はない。アレはすでに、鬼になっている。またいつ犠牲者が出てもおかしくない。一日遅らせて土曜日の夜にやれ」
「では、木霊使いはいらっしゃらないということですか」
「いや。俊樹の息子が来る」
「!」
「そんなに嬉しそうな顔をするな」
「いえ、嬉しそうな顔など」
知っている名前を聞いて驚いただけだ。この5年間、仕事の現場で2人は何度か会ったことがある。一度だけ、彼の母親だという女性にも会ったことがある。なんとなくお互い存在が気になる程度の付き合いだ。
「半年前からどのくらい腕を上げたのかも気になる。。土曜の昼間に打ち合わせができるように手配してある」
(もしかすると、わざと裕樹が来るように仕向けられたのかもしれない)
と蒼雲は思った。
(父上ならばやりかねない)
「だったらどうする?」
「!?」
心の中を読まれている。
心の奥底を見透かすような怜悧で冷徹で冷酷な視線だ。
「感情を表情に乗せるな。気持ちの揺らぎは、悪霊に付け入られる隙を生む」
「……はい。気を付けます」
「御鏡裕樹は、来月からうちで預かる」
「!?」
予想外の展開にまた感情が漏れる。
「気を付けますと言ったその舌の根も乾かぬうちにそれか?」
緊張で喉が渇く。
「4月から、お前達は一緒に霊泉学院に通う。学院が東京に移ってから、御鏡家の子息は、うちの東京の屋敷に下宿することになっている」
蒼龍は、「御鏡家の子息は」、と言った。だからこれは、裕樹に限っての対応ではないのだろう。
(俊樹さんと父上の仲が良いのはそのせいかもしれない)
思考を感情の表面にあげないように、なるべく深いところでそう思った。
「俺はこれから高天原に行ってくる。お前はしっかりと資料を読んで準備しておけ。住宅街で場所が悪い。気を抜くと、一般人を巻き込むぞ。心しておけ」
蒼龍の言葉が、心に重く響いた。