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幽冥界

「風霧、始めるぞ」

 虎の大きさに変化した風霧が、蒼雲の左手が差し出した呪符を咥えて宙に舞った。蒼雲が印を結び、口の中で呪を唱えるのに合わせて、風霧の体が空中に舞い、優雅に宙返りする。

 一瞬激しく光が明滅し、次の瞬間には、二人の前に、燃え落ちる前の家の形が出現していた。白く、しかし暗く、暖かくて冷たい不思議な色の光の中にいる。同時に、甘い花の蜜のような、芳しい果実の雫のような何とも言えない香りが二人の鼻孔をくすぐる。幽冥界に入った証拠だ。

 二人の周りには、家の部材がある。柱があり梁があり壁があり、テーブルにソファー、照明器具。現実の物質のような質感を持った部材が、彼らの周りに広がっている。ほんのわずかに透けているような感覚がある他は、違和感がない。二人と二匹は、ほの明るい光の玉に包み込まれるようにして、その家のリビングの中央に立っている形になっている。

「おぉ。さすがだね。いつの間にかもう幽冥界に入ってる」

 雅哉が興味深そうに周囲をキョロキョロと見回している。

 出現した家は、完璧だった。間取りはもちろん、つい先ほどまで人がそこに座っていたかのような状態だ。キッチンには火のついたままの鍋が置かれ、音こそ聞こえないが、テレビも付いたままだ。少しずつ少しずつ映像が変化して、新しく情報が書き足されているようだった。

 二人は少し歩いて壁際に移動した。ソファーの上に子供達が座っているのが視えてくる。

「霊が見せたい世界を視せている。おそらくこの日ここで、何か大きな変化があった」

「なるほど」

「しかし子供の目線だ。再現率は高くない」

 床に置かれたおもちゃ箱の中身は小さなものまで再現されているが、本棚の本はその形すらも曖昧だった。

 ガチャリと玄関が開く音がして、小さな男の子が二人、勢いよく廊下に飛び出していく。そしてすぐに、にぎやかな気配となってリビングに入ってくる。

 手を引かれて入って来たのは初老の女性。

 その祖母と思われる女性から手渡されるぬいぐるみ。

 それを受け取る子供。

 お菓子。

 ゲーム機。

 はしゃぐ子供達。

 床に放置されたぬいぐるみ。

 それを拾い上げてソファーに置く母親。

 子供達がリビングを出て行く。

 母親と祖母だけが部屋に取り残される。

 そこで二人の動きがカクリと止まった。

 風景の彩度が落ちる。

「行くぞ」

 蒼雲は、雅哉を伴って部屋を出た。雲風と風霧も付いてくる。

「子供達の意識がここから離れたんだ。二階に行くぞ」

「あ、あぁ」

 目の前に階段がある。透けているような曖昧模糊とした質感。それでいて、固い。二人は階段を上って二階に向かう。実際には、階段を上ることを意識するだけで良かった。それだけで既に二階に出る。

 目の前には子供部屋。

 扉を開ける必要はない。

 開けなくても中の様子が視えるのだ。この世界では、術者の望む方向へ視界を移すことができる。移動も自在だ。扉を開けなくても中へと入れる。二人は子供部屋へと入った。

 三人の兄弟が、取り合うようにしてゲーム機のコンソールを握っている。

 三人はこの日の夕方、ここでゲームをしていたようだ。

『楽しかったんだよ』

『ばぁばにゲームを買ってもらって、楽しかったんだ』

『みんなで遊んだんだよ』

 不意に、子供達の声がする。

「それで、お前達に何があった?」

 蒼雲が子供達に声をかける。

 世界が暗転する。

 背を向けてゲームをしていた子供達が、立ち上がってこちらを見ている。

「この日の夜、ここで何があった?」

 兄弟の姿が、血まみれに変わる。

 首から血を流し、胸の中央に大きな穴をあけた子供達が、うつろな眼でこちらを見ている。

『ママがね』

『ママがしたんだよ』

『ごめんね、って言ったんだ』

『でもね』

『笑ってたんだ』

『そして、泣いていたんだよ』

 映像が切り替わるように、目の前に新しい光景が流れる。

 母親の野中美菜世の姿が現れる

 少年が寝ているベッドに、母親が忍び寄る。髪の陰に隠れて、表情をうかがい知ることはできない。

 ヨロヨロと歩み寄り、おもむろに、少年の首に手をかけた。

 少年の右腕が、力なくベッドの縁から垂れ下がる。

 母親の右手がナイフを取り出すのが見えた。

「おい!」

 思わず飛び出しそうになった雅哉の腕を、蒼雲が黙って掴む。

「無駄だ」

 雅哉にも、無駄なこととはわかっていた。それでも、飛び出さずにはいられなかった。

 振り上げたナイフは幼い少年の胸に吸い込まれ、その心臓を抉り出す。真っ赤な血飛沫が吹き上げ、母親の顔を赤く染める。

 反対側のベッドに寝ていた少年も、同じ目に合った。

 隣の部屋に寝ていたと思われる最年少の女の子も、既に事切れている。

 灯油の臭いが鼻につく。

『痛かったんだよ』

『熱かったんだよ』

『怖かったんだよ』

 子供達の声が聞こえる。

 母親がストーブから引っ張りだした灯油を部屋中に撒いている。

 火の手が上がる。

 赤い炎が、蒼雲と雅哉が立っている周囲を取り囲むように燃え上がってくる。熱い。熱で体が焼かれる感覚がある。

 火をつけた母親の目が、真っ赤に輝いている。ドロドロとした黒い瘴気が、彼女の口、鼻、耳、そして眼からも溢れ出してくる。

 何事かを叫んでいる。

 炎が容赦なく二人にも襲いかかってくる。メラメラと音を立てて、周りの風景が燃えていく。紅蓮の炎が、二人の視界を覆っていく。

「おい、蒼雲!」

 たまらずに雅哉が蒼雲の腕を掴む。

 母親はまだ何か叫んでいる。その言葉が読み取れない。

「蒼雲!」

 雅哉の腕が、もう一度強く、蒼雲の腕を掴む。

 蒼雲が小さく舌打ちをした。

「限界か…」

 炎は現実のものではないが、それでも、肌を焼く灼熱の感覚は現実そのもののように感じられる。離脱のタイミングを誤れば、幽冥界に取り残されることになる。

「風霧!」

 風霧が再び宙を舞う。

 次の瞬間。

 炎は消えて、二人は元いたリビングの跡に立っていた。建物も全て消え失せている。ブルーシートから差し込む淡い明かりが場所を占有している。

 少し離れた場所に、三人の子供達が肩を寄せ合って立っているのが視える。

「心配するな。ママのことは任せておけ」

 蒼雲が優しい口調で彼らに話しかける。

「だからお前達は、向こうへ行って待っていろ」

 子供達の霊が、じっとこちらを見ている。

「雅哉。引導を」

「あ、あぁ」

 雅哉が低く経文を唱え始めた。

 ほどなく、三人の気配は彼岸へと渡った。


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