再会
その日の夕方。
梓乃と雅哉は、猫風家の母屋の、客間の前で鉢合わせた。30分ほど前に到着した雅哉が、蒼龍への挨拶を終えてちょうど客間を出るところだったのだ。
「梓乃ちゃん」
嬉しそうな雅哉の声。
「雅哉さん。お久しぶりです」
立ち止まった梓乃が、少し後ろから頭を下げる。
「猫森さん」
室内から、梓乃の父である猫森樟誠に声をかけたのは、雅哉を連れて来た遠山富嶽だ。
「遠山君。久しぶりですね」
開いた扉の向こうにお互いの姿を確認して、富嶽と樟誠が挨拶を交わす。
「あぁ、本当に久しぶりだな」
「先日、弥生君が来てくれたよ」
「いきなり押し掛けて失礼しました」
「立ち話も何だ。入ってくれ。猫森殿」
その向こうから、蒼龍が身を乗り出すようにして声をかける。
「蒼龍先生、本日からまたお世話になります」
父である樟誠の後ろに従っていた梓乃が、蒼龍に頭を下げる。
「あぁ。梓乃。悪いが、雅哉を離れへと案内してくれ。お前達にはまた後で声をかける」
「わかりました」
以上のような経緯で、父親達を客間に残して、梓乃が雅哉を案内する形となり、二人は離れに向けて歩いている。
「はぁ。緊張した」
十分に客間から離れたところで、雅哉が本音を吐き出した。ちょっとやそっとなことでは動じなそうな屈強な体からクタッと力が抜けるのを見て、梓乃は含み笑いをした。
「あなたでも緊張することあるんですね」
「はぁ? 当たり前だろ。あの威圧感に耐えられる人間なんてそうそういないだろ?」
「お父様の方が、迫力ありますのに」
チラッと見ただけだが、遠山富嶽は、雅哉以上に肉の密度が詰まった格闘家の体をしていた。
「迫力だけなら親父も大概だが、蒼龍先生はヤバいだろ。眼力だけで悪霊も寄り付かんだろう、あれ。俺、もう冷や汗タラタラで」
「雅哉さん。ところでこの屋敷の中、会話筒抜けらしいですよ」
「まじで!?」
雅哉が慌てて左右を見渡す。
「ねぇ、それ、ほんと? まじ?」
明らかに挙動不審。壁や天井をキョロキョロと見回している。
「ふふふ」
「おい、梓乃ちゃん!」
「蒼雲さんがそう言ってました。ほんとかどうかは知りません」
「そりゃまじだな」
「信じるんですか?」
「信じない理由はない」
過ぎてしまったことは悔やんでも仕方がないと考える質らしい。大胆というか剛胆というか雄勁というか。
「それにしても、さすがは猫風家だな。東京の屋敷って一種の別荘みたいなもんだって聞いてたけど、なんだよ、この広さ」
相変わらずキョロキョロと周囲を見回しながら、雅哉がついてくる。
「母屋の方のお部屋は、私もほとんど知らないのですが、ここを行った先に医務室へと続く廊下があって、その手前のこの部屋が食堂です」
食堂の障子は開いていて、雅哉はフンフンと頷きながらその中を覗き込む。そこからさらに曲がりくねった廊下を進んで、庭に面した廊下を、庭を左側に見る形でさらに真っ直ぐに進む。
「まるで京都の庭園だな」
中央に池を配した回遊式庭園は、都心には不釣り合いな広さだった。もうすぐ5月というこの時期は、躑躅や藤の花が美を競っている。甘く香しい香りは、二人の来訪者を歓迎するかのように優しく包み込む。
「離れから庭に直接降りられるんですよ」
「さっすが。風の一族はすげぇな」
建物と庭の広さに、雅哉は先ほどから感嘆しきりだ。
「母屋の地下には、道場やジムやプールもあるんですよ」
「へぇ。プールもあるの? 至れり尽くせりだな、おい」
「至れり尽くせりは、あまり好ましい方の意味ではなくですけどね」
梓乃が辛そうに笑う。
「ここで合宿させられる意味がわかったよ」
梓乃の作り笑いの意味を雅哉もわかっていた。どれも必要があるからここにあって、自分たちは必要があるからここに呼ばれた。
二人の足はいよいよ離れへと差し掛かった。
「お? ここか! ここが離れね。離れっていっても、ちゃんと渡り廊下で繋がってるわけね」
「えぇ。食堂もお風呂場も道場も全て母屋側にあるので、行き来は結構頻繁なんですよ」
「でも、離れに寝泊まりするの俺たちだけなんだろう?」
「やぁ、雅哉。久しぶり」
離れ側の入り口で裕樹が二人を出迎えていた。
「お! 裕樹! お前、大丈夫か?」
「裕樹さん、お怪我はもういいのですか?」
梓乃と雅哉が、ほぼ同時に裕樹に訊ねる。
実に5日ぶりの再会。
「痛み止めもらってるし、まだよくはないけど、動き回れるようにはなったよ」
「それは良かったです」
「蒼雲のやつは?」
「蒼雲も元気だよ。部屋にいると思うけど。さっきまでここの模様替えを一緒に手伝ってた」
裕樹がここと言ったのは、改装すると予告されていた共有スペースの茶の間だ。
渡り廊下から続く離れの廊下は、最初の分岐を曲がったところが洗面所とトイレに続く廊下で、次の分岐が右手に数段降りる形になって共有スペースの茶の間への入り口だった。裕樹は、二人を伴って茶の間に降りた。
囲炉裏の周りに円座が並べられているのは同じだが、その奥のスペースにテーブルが置かれ、顔を突き合わせておしゃべりが出来るような配置に変更されていた。座椅子まである。本棚も充実したようで、本の数も3倍くらいに増えている。それからホワイトボード。遊ぶためというよりも、ここで作戦会議が出来るようにという想定。プライベートスペースにも関わらず、揺るぎない意志が感じられる。そして何より大きな変化は、小型の冷蔵庫がやってきたことだ。
「お? 冷蔵庫あるじゃん」
めざとく見つけた雅哉が扉を開く。冷蔵庫があったら、何となく扉を開けずにはいられない。
「あら? ほんと」
「ついさっき置かれたばかりだから、まだ冷えていないよ。後で麦茶作って持って来てくれるって」
「へぇ」
「飲み物くらいならここで自由にしていいってことみたいね」
これまでの生活を知っている梓乃に向かって言う。これまでも、囲炉裏でお茶を沸かして飲むくらいの自由はあった。でもこれから夏に向けて暖房を使わない生活になるのにどうするのだろうと、先週末に梓乃と話をしたばかりだ。
「ポットも来たよ」
「すごい!」
今時、部屋に冷蔵庫やポットがある生活は当たり前だが、これまでの1ヶ月の生活で、彼らの感覚は完全に麻痺してしまっていた。
「ここでくつろぐ時間なんて本当はほとんどないんだけどさ。食堂の隣にテレビが置いてある部屋があって、食後なんかはそこで時間つぶしちゃうこと多いし。だからここを使うのって、夜の稽古終わってからとか、休日とか?」
「そうでしたね。私なんて、結局3回くらいしかここでお茶飲んでないです」
「そっか、やっぱりほとんど自由時間なんてないんだな」
「そうだね」
雅哉も覚悟を決めて来たのか、それについてはあまり悲観的な口調ではなかった。
「で、俺の部屋は?」
「ここの隣だよ」
雅哉は廊下に出て、すぐ隣の部屋の障子を開ける。
「へぇ。ここね」
「お前の荷物、運び込んでおいたぞ」
「おう。すまない」
雅哉の私物の段ボールが二箱、入り口の脇に置かれている。文机と布団、そしてクローゼットに本棚。部屋の作りは裕樹達の部屋と同じだ。
「隣が梓乃ちゃんの部屋で、その隣が俺の部屋ね。で、一番奥が蒼雲の部屋」
「へぇ? あれ? これって、この襖開けたらすぐに隣の部屋ってこと?」
部屋の構造に気がついた雅哉が、その扉に手をかけようとする。
「雅哉さん。私の部屋に入って来たら、殺しますよ」
梓乃の口調は冗談とは言えない迫力だった。
「まだ何も言ってないのに、そりゃないぜ」
「あなたの考えていることなんてすぐにわかります」
「何だよー、それ。少しくらい楽しみ与えてくれたっていいじゃんかよ」
「一応言っておきますが、内側に呪符を貼ってありますから、開けた瞬間、蜂の巣ですからね」
本当なのかはわからない。でもそういう呪符があるのは確かだし、梓乃の表情は至って真面目だった。
「おー怖っ。俺のささやかな楽しみまで奪おうってわけなのね、まじで」
雅哉の嘆きにはかなり力が入っていて、裕樹は思わず苦笑いを浮かべた。
「お前は相変わらずやかましいな」
「蒼雲!?」
「蒼雲さん!」
「地獄の一丁目へようこそ」
蒼雲にしては珍しく、二人に軽口を叩く。
「おいおい。笑えない冗談だな」
裕樹は苦笑いの上にさらに引きつった笑みを重ね、耐えきれずに吹き出した。
「お前でもそんな冗談言うんだな」
「冗談じゃないだろ。おおかた真実だ」
「まぁ確かに、的を射た表現っていうのはわかるんだけど」
四人がここに集められた理由は明確に伝えられている。死ぬかもしれない仕事のために、個人として、チームとして技を磨くために昼夜を問わず心身を鍛える。そのための共同生活。向かう先は修羅の世界だ。どこからが地獄かはわからないが。
「お前、大丈夫か? だいぶひどい怪我したって聞いたぜ」
「何を基準に『だいぶひどい』のかわからんが、もう動けるからそれほどひどくはない」
「本当に大丈夫なのですか?」
蒼雲も茶の間へと降りてくる。その後ろを、風霧と雲風が軽やかについてくる。
「久しぶりだね、七枝。七枝は怪我してない?」
猫たちは猫たちで会話を始めている。
「それより、5日前のことだ。お前達はどう思った?」
蒼雲はすでに話題を移している。
「あぁ、親父…じゃなくて、お袋が聴取したんだってな。まったくあれには俺もびっくりしたぜ。何で俺の両親がSICSの…」
「その話はいい。何があったかの話は一通り聞いたし、報告書もすぐ出てくる。それより聞きたいのは、お前らが何を思ったかだ」
「何を、思ったか?」
雅哉と梓乃が顔を見合わせる。
「何を思って、どうしたいと思っているのか」
裕樹はといえば、二人のことを見ることもなく蒼雲を真っ直ぐに見つめている。
梓乃が蒼雲を見た。蒼雲の青い眼は、猫の眼をしていた。彼が何を尋ねているのか、梓乃にはわかっていた。
梓乃は、スーッとひとつ大きく息を吸った。
「私は…。私は、とても怖かったです」
蒼雲の眼が鋭くなる。
「いえ、今でも、今この瞬間も、私は怖いです。足手まといになることが、力が足りないことが、力が足りない自分が」
梓乃の眼も、猫の眼をしていた。萌え立つ新緑の緑のような、鮮やかな緑色の猫の眼をしていた。
「だからここに、戻ってきました。次はもう絶対、足手まといにはなりません」
空気が震えるほどの気迫のこもった言葉だった。
「あーあー。まったく、お前らみんな優秀だから困っちまうな」
場違いな声に視線が集中する。
「みんなして修羅場が好きなのかね。あんな死にそうな目に合って、それでも前へ進もうなんて馬鹿、蒼雲と裕樹くらいかと思ったんだけど。どうやら俺ら、みんな馬鹿みたいだな」
雅哉が照れを隠すように頭をかきながら、背けていた視線を中央に戻す。
「まぁ、無謀なこと始めようとしてる馬鹿度は、俺が一番だと思うけどな」
雅哉の視線が、蒼雲の視線とぶつかる。
「どっちみちやるしかないんだろう?」
「あぁ、そうだ」
蒼雲がようやく一言返した。
「なら、答えは決まってる」
蒼雲が、雅哉を見て、梓乃を見て、そして裕樹を見た。
その口元がほんの少し緩む。
「ほんと馬鹿だな。お前ら」
「蒼雲にだけは言われたくないね」
「あーそうだそうだ。お前にだけは言われたくねーな」
「ですね」
四人は顔を見合わせて笑った。
心で血の涙を流しながら、それでも四人は声を立てて笑った。




