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休日の使い方

 よく晴れた日曜日の朝。

「ありがとうございました」

 裕樹は、猫風家の典医である舘野(たての)医師に頭を下げて医務室を出た。昨日の朝まで、3日間眠り続けていた体は、想像以上に筋力が落ちていた。しかも昨日は、SICSの本部で催眠術に似た手法で4時間にも渡る聴取を受けたのだ。たっぷりと眠って起きた後だが、今朝も全然本調子ではない。朝食を済ませた後、舘野医師立ち会いのもと筋力回復のための簡単なトレーニングと全身の状態チェック、怪我の治療のフルコースを終えたところだ。すでに10時を回っている。

 爽やかに晴れた日曜日の午前中。暑くも寒くもないちょうどいい春の陽気だ。

 離れに戻ると、蒼雲の部屋の障子が開いているのが見えた。裕樹達の個室は、庭に面した縁側廊下に障子一枚で接している。その障子が開けられている。


「蒼雲」

「うん?」

「入っていいか?」

「あ? あぁ」

 声を掛けると、入室の許可が出た。ダメ元だったので、許可されたことが意外で一瞬足を踏み出すのをためらった。隣の部屋で生活しているからといっても、お互いの部屋に入ることはほぼ無いと言ってもいい。

「入るぞ」

 蒼雲に、というよりも自分に言い聞かせるようにして、裕樹は彼の部屋に足を踏み入れた。蒼雲も裕樹と同じメニューを朝食前に終えていて、同じように、最低でも午前中いっぱいは体を休めておくように言われている。

 蒼雲は、部屋の扉を開け放したまま畳の上に寝転がっていた。殺風景な部屋の中程に寝転がって、座布団に肘をついた俯せの姿勢で本を読んでいる。

 今日の蒼雲は、おそらく医務室帰りそのままの着物姿だ。寝転がって書物を読んでいる姿は、書生のようにも見える。


「お前、ほとんど物持って来ていないんだな」

 遠慮気味に部屋の中を見渡して、素直な感想を述べる。

「持ってくる? どこから?」

 ページをめくる手を止めずに聞き返して来た。

「どこって、本家からだよ。お前だってここに住み始めたの4月からだろう?」

「別に、特に持ってくるもんなんかないだろ。必要な物はここで揃えてもらっている」

「いや、そうじゃなくてさ。ほら、なんか無いのかな、って」

「何かって?」

「え? うーん、たとえば、気に入っている服とか、本とか」

「特にない」

 彼が肘をついている座布団の脇に、何冊も本が積み上げられているのが見えた。左手側に座布団に頭を乗せるようにして灰色の長毛猫、風霧が眠っている。雲風はといえば、こちらは蒼雲の右足に寄りかかるようにして丸くなっている。

「読書か?」

「せっかく体を休めておけって言われたからな」

「いや、たぶん、舘野先生が言ってた意味は、午前中いっぱいは寝ておけって意味だと思うぞ」

 蒼雲の隣に座りながら、裕樹が渋い顔をする。

「寝ていることには変わりない。座布団ならそこにあるから使っていいぞ」

 蒼雲が、顎を上げて壁際におかれた座布団を指す。

「いや。寝ているって意味が違うだろ」

 裕樹はその好意を受け取ることにした。手を伸ばして座布団を取り、蒼雲の隣に同じように寝転がる。

「今のお前は、寝ているんじゃなくて読書しているんだからな。それにこんな格好で読んでちゃダメだろう?」

「確かにな。寝ながら本読むなんて、ここ以外では絶対許されない」

 的外れた答えが返ってくる。

「え? いや、そうじゃなくて、これ、楽な姿勢じゃないだろってことだよ」

「そうか?」

「お前、腕も怪我してるんだし」

 腕で上半身を支えるのは、怪我をしていなくても楽ではない。それが打撲している腕でともなれば。でもどうやら、蒼雲にはその自覚も無いらしい。溜め息をつきたくなるのを堪えて、

「で、何読んでんだ?」

 蒼雲の手元を覗き込む。

「リーダーシップマニュアル? それも軍の?」

 よく見れば、脇に積まれている本も、全てがその手の本だった。洋書まである。

「それ、遠山隊長が言っていた本?」

「あぁ。昨日の夜、帰りがけにわざわざ届けてくれたらしい。さっき父上から受け取った」

 裕樹が聴取を受けている間、蒼雲は雅哉の父である富嶽と二人きりで雑談をしていたらしい。何を話していたかは詳しくは知らないが、その何分の一かはリーダーシップ論に関する話だったと聞いている。これは昨日の夕食の時に、蒼雲自身から聞いた話だ。

「休日の貴重な自由時間にまで仕事のこと考えてんのかよ、お前は」

 裕樹は心の底から呆れた声を出す。

「こんな時じゃないと、のんびり本なんか読めないからな」

「だからってさぁ。もっとないのかよ? 休日らしい時間の使い方」

 蒼雲は活字を追っていた目を上げて、裕樹の顔に焦点を合わせる。

「例えば?」

 くそ真面目な声が質問の形で返ってくる。踏み込んで聞かれるとは思ってなくて、裕樹は一瞬ためらう。

「えっと、そうだな…もっと楽しい本読むとか。小説とか、漫画とか」

「別に興味ない」

「じゃぁ、音楽を聴くとか」

「あの手の物は不快な音でしかない」

「出かけるとか」

「体を休めろって言われてるだろ」

「じゃぁ…」

 さすがにネタが無くなって言葉に詰まる。

「眠る、とか」

「なんだよ、それ。結局話が振り出しに戻ってるぞ、裕樹」

 蒼雲はクスッと笑って視線を再び本に落とす。馬鹿にされた気分だったが、裕樹には追撃の道が見えない。仕方が無いから話題を変えることにした。


「お前、もう体つらくないの? 痛みは? 無いの? 俺はさっき痛み止め出してもらって、弱いやつ飲んでる」

「体? まぁ、いつも通りだ。動けないほど痛くはない」

「お前なぁ」

 裕樹は、呆れるを通り越して非難するような色をたっぷりと台詞に含ませた。体がそんな状態なのにどうしてそういう方向の結論に至るのか理解に苦しむ。

「前にも言ったと思うが、俺たちにとっては体が痛いのは普通だから、動けるか動けないかだ」

「それって、猫使いはみんなそうなのかよ? 梓乃ちゃんも?」

「痛みの強さは猫化の程度に比例する。まぁ、比例といっても、指数関数的だけどな。今月初めにあいつが何度も意識失ったのはそのためだ。猫化の痛みに体が耐えられなくて失神する。迷走神経による一過性の失神と違うのは、一度落ちると体が防御状態に入ってなかなか目覚めないってことだろうな。だから普通は、仕事で必要がある時にしか猫化しない」

 必要がある時にしか猫化をしない。しかし目の前の男は、部屋でリラックスしているこの瞬間も猫目をしている。矛盾している言葉に、裕樹が首を傾げていると、すぐにそれに対して追加の説明が来る。

「完全猫化までの反応速度の問題だ。0から10に上げるより、3から10に上げる方が早いだろう? その最初の3が5や7になればさらに早くなる。それに、痛みに慣れておくことで、完全猫化しても意識を失わなくて済む」

「そのために、常に痛くても3とか5をキープし続けてるってことなのか?」

「そう教えられてる」

 他人事のような口ぶりに、裕樹にはもう溜息しか出ない。

 蒼雲のことを一生懸命理解しようとしているが、当分無理そうだ。蒼雲には、自分を甘やかすという発想が一切無い。というよりもむしろ、自分という存在に対する意識が希薄なのだ。自我が無い。人間誰でも、自分自身は可愛いものだ。多かれ少なかれ、自分自身を甘やかせてしまう感情を、人は持っている。しかし蒼雲は、たとえるならば、他人のために平気で自分の命を差し出せるような人間だ。それだけではない。おそらく、自分と他人の区別すらない感覚なのだろう。一生懸命想像してみるが、裕樹にはその感覚はわからない。

「そんな状態なら、寝るだろ? 普通」

「確かに眠るのはいくらでも眠れるけど、読書はなかなか出来ないからな。心に余裕が無いと、のんびり本を読む時間が取れない。それに、猫たちが寝ている時間じゃないと、こいつら、遊んでくれとか撫でてくれとか煩いしな」

 真っ当な意見だが、同意は出来ない。そもそも、体に疲労や痛みがある状態で心に余裕があるとかおかしい。あまりにもおかしいので、この話題もおしまいだ。もうこれ以上追求しないことにする。指摘したところで解決するわけではないのだから。

「でも、この本を読んでしまったらちょっとは眠るつもりだ。眠くないわけじゃないからな」

 裕樹の心のざわめきを感じ取ったのか、表情を変えないまま蒼雲が言う。蒼雲の手元の本は、後数十ページというところに来ている。

「もしかしてお前、そっちの本はもう読んだの?」

 本の山は、ざっと見たところ7冊くらいある。

「まぁな」

「な…」

「一字一句読んでるわけじゃないし、必要なとこだけ拾い読みだけどな。次にいつ時間取れるかわかんないからな。先にざっと全部見ておこうと思ってな。明日なんてないかもしれないからな」


『明日なんてないかもしれないから』


 裕樹の脳裏に、過去の映像がフラッシュバックした。

 それは2年前、父親の仕事に同行した時のことだ。

 オレンジ色に染まった空と、蒼雲の背中が鮮明に脳裏に蘇っていた。

 


「そういえば、雅哉と梓乃が夕方には来るらしいぞ」

 蒼雲の声が裕樹を現在に引き戻す。

 右手でページを捲り、視線を上げずに口にする。

「そうなのか?」

「あぁ。それで、午後になったら部屋の準備を手伝えって言われている」

「雅哉が一番手前の部屋に?」

 離れには同じ大きさの部屋が4部屋と居間を想定した作りになった共用スペースがある。奥から、蒼雲、裕樹、梓乃が使っていて、空いている一番手前の部屋が雅哉の部屋になる予定らしい。

「だろうな。空いているのはあそこだけだし。ついでに、共用スペースも少し改装してくれるらしい」

「改装? どんな?」

 共用スペースには囲炉裏が切ってあって、お湯を沸かしたり暖を取ったりできる。雑誌や本も置かれていて、雑談する場所として使われている。まぁ実際には、そんな時間はほとんどないのだが。

「さぁな」

 その答えだけで、誰から聞いた話なのかわかる。改装の指示は出しても、そこに意識を向けることを許さない人。蒼雲の専属執事の筆頭である宗徳なら、もう少し丁寧に情報をくれるはずだ。


 蒼雲が、一瞬だけ動きを止め、顔を上げて耳を澄ます。

「そろそろ作業に入るみたいだし、宗徳が知っているんじゃないか?」

 裕樹も耳を澄ませてみる。ガヤガヤと人が話す声がすごく遠くで聞こえる。もちろん裕樹には、それが誰の声なのか判別はつかない。その足音がいよいよ離れの玄関をくぐる段になってようやく、蒼雲の専属執事である宗徳と宗鷹の声が含まれていることがわかった。

「お? じゃぁ俺、ちょっと見てくるかな」

 裕樹が体を起こす。

「俺は少し寝る」

「は?」

 読み終わったらしい本をパタリと閉じて既読の山の上に重ねて、蒼雲は枕に頭を付ける。

「正午に起きる」

「寝るの? このタイミングで? 興味ないの?」

 宗徳達の足音が廊下を進んでくる。気配だけでも、4〜5人の人間が、重そうな物を運んでくるように感じられる。それらを無視して、蒼雲は早くも目を閉じて眠る体制に入っている。本当にこのまま眠るつもりらしい。無意識なのか意識しているのかわからないが、蒼雲は眠る時に体を丸めて眠る。

「おい、蒼雲」

 返事はない。寝ると決めたタイミングですぐに寝落ちできるのも、長年の修練の賜物らしい。横向きになって体を丸めた姿勢は、猫そのものだ。端から見ると無防備この上ないが、それだけ自分は許されているのだろうと前向きに捉えることにした。

「ったく。風邪引くぞ」

 諦めて裕樹は立ち上がった。布団の山の中から、薄手のブランケットを引っ張りだして、それを彼の体にかけてやる。

 リラックスした横顔。二匹の猫も、眠ったままだ。

 裕樹は静かに部屋を出て、障子をゆっくりと閉めた。

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