御鏡家の秘密
「ほぉ」
背後から、まったく別の声が裕樹の背中を射た。
低い、圧力のある声。
ビクン。
と、地べたに座り込んでいる少年の体が緊張した。
「ただの迷子が、化け猫を見て、蒼魔刀を使うか」
裕樹は、声がした方を慌てて振り向いた。
だいぶ高く上がった月からの光がその姿を照らす。
人だ。
透けてもいない。
袴姿。父親と同じくらいの背格好の、大人の男。
暗すぎて表情はよく見えない。
「おい、そこのガキ。お前、何者だ?」
目の前に4匹もバケネコがいるというのに、男の声は落ち着いていた。ゆっくりとした足取りで斜面を降りてくる。落ち葉と枯れ枝が幾重にも積み重なった斜面を歩いてくるのに、不思議なくらいに何の音もしない。
「ぼ、僕は……僕は、御鏡裕樹」
「御鏡?」
男が少し目を細めた。それから、目の前の少年を値踏みするように眺める。
「なるほど。御鏡俊樹の息子か」
「え? 父さんのこと、知っているの?」
裕樹は驚きの声を上げた。こんなところで、父さんのことを知っている人に出会うなんて。
「腐れ縁でな」
裕樹の警戒心が一気に薄らいだのを感じて、男は小さく鼻で笑った。
「で、お前はなんで、一人でここにいる?」
「父さんと一緒に森に入って、きれいな蝶を見つけて、追いかけていたら、」
「迷子になった、か」
呆れたように溜め息をつく。
「森で迷子になったら、夜の間は、動き回らないでじっとしていろって父さんに教わったから、だからここで…」
「先ほどの剣捌き、なかなかだった。さすがは恒樹に教わっているだけのことはあるな」
「おじいちゃんのことも、知っているの?」
裕樹の警戒心は、完全に消え去っていた。
「それを返してくれないか」
答えることもせずに、男は裕樹に手を差し出す。
疑うこともなく、裕樹は男の手に刀を手渡す。
刀が、男の手に移る。
「恒樹は剣の達人だからな。しっかり学べ。この状況下で、臆せずに太刀をとって化け猫に立ち向かおうとする根性もいい。それに引き換えこいつは」
男は、鋼のように鋭い声でそう言うと、地面に座ったままの血だらけの少年のだらりと垂れた右腕に、いきなり刀を突き刺した。
「あ!」
裕樹が止める間もなかった。
「ぐはぁっ!!! っ…って……」
少年が叫び声をあげた。顔が激痛に歪む。
「な、なにすんだ!」
裕樹が反射的に男の刀を持つ手を掴む。ビクともしない。
「なんで、なんでそんなことするの?…」
裕樹は泣きそうな顔をしていた。
「知っている人の名前を言われたからとて、他人を容易に信用するな。お前は今の状況を分かっているか? 化け猫が4匹。刀を無くした瞬間に襲ってくるかもしれない」
男の声がゾクリと背筋を寒くする。
獣の髭が、背後から裕樹の首筋に触れるように迫ってくる。
「まぁいい。その状況で泣き出さないのは褒めてやろう」
獣の気配が首筋から消える。
「お前は優秀だ。父親の言うことを聞いて移動せずに、ここで朝を迎えようとしていた。それに引き換えこいつは、父親の言うことも聞かずに逃げ出して、夜の森から抜け出そうとした。これはその罰だ」
「!」
裕樹はギッと男の顔を睨んだ。
「いい眼だ。だがまだ足りんな。その程度の気では金縛りにかかるぞ。霊を見たら、いや、常時見ているお前は、常にグッと腹に気をためておけ。そうすれば、金縛りなどにはかからん。雑魚には無視も有効だが、相手が悪意のある強い霊体だと、そのまま魂を喰われるぞ」
男の鋭い眼光が、すぐ真上から裕樹を見下ろしていた。
「ほら見ろ。そうやって金縛りにかかる。悪霊は容赦しないからな。憑依されるか、喉をかっ切られておしまいだ」
「あ、あ……あ…あ……」
「それから、安易に自分の名前を相手に名乗るな。名前を知られると、縛られる。悪意があるやつなら、それでお前を操ることもできる」
「おいおい。そのくらいにしてくれよ。蒼龍。人の息子に、いらんトラウマ植え付けないでくれよ」
金縛りが解けた。
そして、聞こえてきたのは、懐かしい父の声だ。
「父さん!」
「無事か。裕樹」
「う、うん!」
父親の元に駆け寄ろうとして、裕樹の足は止まった。足下に視線を移す。
足下の傷だらけの少年の腕には、未だに刀が刺さったままだ。
「その子は猫風蒼雲。そしてそこの男は、彼の父親の、猫風蒼龍」
「ふん。人の息子を親切にも教育してやっているんだ。感謝こそされても、文句を言われる筋合いはないね」
息子達を無視して、父親同士は会話を続けた。
「ったく。相変わらず鬼畜だな。10歳の子供に、そこまでやる必要あるか? 蒼雲くん、ボロボロじゃないか。可哀想に。虐待だろ、それ。その刀、いいかげん抜いてやれよ」
「人の家の教育に口を出さんでくれるか」
「それが教育の仕方かね。血だらけでボロボロになってる自分の息子を容赦なく刀で突き刺す父親。それを目の前で見せられているうちの裕樹が、トラウマになったら損害賠償請求してもいいか?」
「お前が生温い教育してるからだろう? 一歩間違えば、化け猫に狩られていたかもしれないんだぜ。なにせこの馬鹿が、まだ自分の猫の使役も充分にできてないのに逃げ出すんだからな。それよりも、うちの修練場に、丸腰の息子を放置する方がよっぽどひどい教育方針だと思うがね。しかも、まったく情報開示もしてないみたいだしな。ここには俺の管理してないモノも、時々入ってくる。勝手に死なれて文句を言われたんじゃ敵わん」
蒼龍の言葉に、俊樹は大きく溜め息をついた。
「それは、」
会話を続けようとした俊樹の声は、息子の言葉に遮られた。
「蒼雲くん?! しっかり! ねぇ、蒼雲くん!」
完全に力が抜けた蒼雲の体が、ぐったりと枯れ草の上に倒れる。
「どうしよう、お父さん! 蒼雲くんが死んじゃったよ!」
「死んではいないよ。意識を失っただけだ」
蒼龍が無造作に刀を抜く。ドクドクと鮮血が傷口から溢れ出してくる。蒼龍は身を屈めて、その傷の上に何やら赤い文字や記号のような物が書かれた紙を貼付けた。紙がすぐに、血を吸って真っ赤になっていく。
「ほら、お前が刺したりするから。これ、血圧低下による意識消失だろ」
「やかましい。ただの睡眠不足だ」
「なんだよ、寝かせてもやってないのか」
「せっかくくれてやった睡眠時間に、こうして好き好んでで森を歩いているようなヤツなんだよ、こいつは」
遠くの方から、人の声と足音が近づいてくる。チラチラと松明の灯りも見える。
「蒼龍様! 蒼雲様!」
「意識を失った。運べ」
「はい!」
促されるようにして裕樹は立ち上がり場所を空ける。
「約束の時間より数時間早いが、来てもいいぞ」
刀を鞘に納めながら、蒼龍が俊樹に声をかける。
「そうさせてもらうよ」
俊樹は、呆然としている息子の頭に優しく手を置いた。
「と……父さん」
「ごめんな、裕樹。驚かせて」
彼の頭をグシャグシャッと撫でる。
「帰るぞ、猫ども」
蒼龍は、座ったり寝転がったりして思い思いの格好でこちらを眺めていたバケネコ達を振り返りさらりと声をかける。
「今日は久々に楽しかった」
灰色の猫が肉球を舐めながらゾクリとするような視線で裕樹を見る。
「知らないヤツに切られたのが?」
隣の白黒猫がニヤッと笑う。その目も裕樹に向けられる。
「裕、リュックはどうした?」
俊樹が裕樹に声をかける。
「え? あぁ、そこの下の岩の影に」
「持っておいで、僕たちも移動するよ」
俊樹はそう言いながら、息子が丘の上で落とした懐中電灯を差し出してやる。
裕樹がリュックを背負って戻ってくる頃には、蒼雲は担架に乗せられ担ぎあげられ、すでに移動を始めていた。虎のように大きかったバケネコ達はいなくなり、猫としてはだいぶ大きいけれど、柴犬くらいの大きさの猫が4匹そこにいるだけになっていた。
「戦闘モードが解けたからね」
怪訝そうにしている息子に、父親の俊樹が説明してやる。
2匹の猫は蒼龍の左右の肩に乗っている。白黒の猫は、蒼雲の乗る担架に飛び乗る。
「にゃー」
足下で、灰色の猫が鳴いている。
「乗りたいの?」
「にゃー」
猫が鳴く。
「あれ? さっきは喋ったのに」
「尻尾を見てごらん」
俊樹が声をかける。
「あ」
「尻尾が2本のときは化け猫だけど、1本のときは普通の猫だ。あぁ、化け猫には違いないんだけど、普通モードの時には、人の言葉は話せない。猫使いの人達はこの状態の猫さん達とも会話はできるけど、普通の人間にはただの猫。にゃーとしか聞こえない」
「ねこつかい? もしかして蒼雲くんが?」
「彼のお父さんもね。猫風家っていうのは、代々、猫使いの家系なんだ」
にゃーにゃーにゃー
足下の猫が喋るように鳴いた。
「肩に乗せてくれと言っている。無理だ、風霧。リュックの上にしろ」
蒼龍がぶっきらぼうに猫に言う。
猫はすぐに裕樹の背中に飛び上がり、リュックの上に踞り肩に両手をかけた。
「そしてうちは、樹木の精霊を使役する木霊使いの家系なんだ」
父さんのいきなりの告白に、裕樹の思考はまだちっとも、追いついていなかった。