天国か地獄か、それとも
遠くで声が聞こえる。
「よせよ、うざい。舐めんな」
「良いじゃん、舐めさせてよー。さっきまで舐めさせてくれてたのに」
「勝手に舐めてたのかよ。おい、よせ。やめろって言ってるだろ、くすぐったいんだよ」
「えー、じゃぁ裕樹は舐めてもいい?」
「まだ寝てんだからやめろ」
「えー」
遠くで誰かが自分の名前を呼ぶ。少しずつ、音が体に戻ってくるような感覚がある。
小鳥がさえずる高い音が聞こえる。
「うっうん」
目を開ける。部屋の中。窓から光が差し込んでいる。
白い光に満ちた穏やかな室内。
天国ではないらしい。
そしてどうやら、地獄でもないらしい。
「起きたか?」
裕樹は目を開けた。
すぐ隣のベッドの上に、蒼雲が寝ていた。首だけをこちらに向けている。
彼の体から、チューブやコードが何本か出ているのが見える。改めて自分の周囲を見回してみれば、自分の体も点滴のチューブと繋がれていた。
「蒼雲?」
その体の上に白黒の長毛のブチ猫。黒い模様が雲の柄をしている化け猫、雲風だ。そして、自分のすぐ脇に、灰色の長毛猫が座ってこちらを見下ろしている。こちらは風霧。
「裕樹、起きた。舐めて良い?」
蒼雲に向かって小首をかしげる。無邪気な表情だ。
「やめろ。俺たちは疲れてる。しばらく放っておいてくれ」
「えー。意地悪。撫でて撫でて」
蒼雲の胸の上に座っている雲風が不平を述べる。左手の肉球で、蒼雲の頬をペシペシと叩く。
「さっきは裕樹のこと舐めてたくせにずるい」
「え?」
「そんなことしてねぇだろ。適当なこと言ってんな」
猫たちは、蒼雲の腕を舐めたり首筋を舐めたり好き放題している。小さく首を、体を動かして、それを何度か振り払う。
「ここ、お前んち?」
白い壁の小さな診療所の処置室と言った風情の部屋だ。左右の壁にガラスケースが置かれていて、薬の瓶や医療器具のようなものが棚の中にも、その手前の台にも置かれている。裕樹の知らない部屋だ。
「あぁ。母屋の医務室だな」
猫風家の母屋には、隣接する形で簡単な怪我の治療をしてくれる医務室が付いているが、その中には手術などの専門的な治療もできるような設備もあると言っていたので、おそらくそちらの部屋にいるのだろう。しかも、呪術的な治療にも対応しているらしい。自分の隣には点滴のポールに心電図モニター。その外側には自分たちを取り囲むように貼られた結界の札。
「体だりぃ。体中が痛くて動けねぇ。お前は?」
言われて裕樹も動いてみる。
「あぁ、無理そう。ひどい筋肉痛と、脇腹と背中が痛い」
「目眩は?」
「目眩もひどいよ。グラグラする」
「あの夜のことはどの程度覚えている?」
「あ、そうだ! 俺たち、どうしてここに?」
「わからん。俺も記憶が無い。猫化が解けて、一気に意識を失ったらしい」
「俺は…」
自分の記憶も曖昧だ。目眩もする。
ひどく疲れていた。そして体中が痛かった。雨の中で、緊張感から解放されて、それで…。
「とりあえず、助かったらしい」
「あぁ」
「梓乃と雅哉も無事らしい」
「二人ともそれぞれうちに帰ってるよ」
「だって、もう三日も経つもんね」
雲風と風霧が、顔を見合わせて、「ねー」と言いながら笑う。
「三日? 俺三日も寝てたのか?」
「今日はあれから四日目の朝」
「土曜日土曜日」
風霧が「ふふふん」と鼻を鳴らす。
「まじか?」
「おそらく、薬で眠らされていた。俺も少し前に目が覚めたばかりだからよく分からん」
「そうか…」
裕樹は、左肘を支点に体を起こそうとして顔をしかめる。額に手をやり、ギュッと目をつぶった。目が回る。一瞬体の上下感覚がわからなくなるような気持ち悪い感覚に襲われて、再びベッドに横たわる。
「よっし。『目覚めたよ』って、蒼龍と俊樹に教えてやんなきゃ」
雲風が蒼雲の胸の上から降りる。
「あぁ、待て待て。まだ無理だ。もう少しこのまま寝かせろ」
蒼雲がベッドから飛び降りようとする雲風の体を抱きとめる。
「ダメだよー。起きたらすぐ教えろって言われてるもん」
「ねー」
「ねー」
猫たちは顔を見合わせて意地悪な笑みを浮かべる。
「くそっ。お前らは俺の使い魔だろ」
「蒼龍の命令の方が優先な契約なの」
「師弟関係を遵守する契約」
「ねー」
「ねー」
「でも、蒼雲が舐めさせてくれるなら待ってやっても良いかなー」
「いいかなー」
「くそ。お前らなぁ。猫のくせに生意気だぞ」
蒼雲が大きな溜め息をつく。
「別に俺たちどっちでも良いけどー」
再び顔を見合わせて意地悪にニヤリと笑う。
「あぁ、もうわかった。好きにしろ。その代わりもう少し寝かせろ」
「わーい」
「わーい」
風霧の青い瞳が、裕樹の眼をじっと覗き込んでくる。試すような視線。
「え? んじゃ、良いよ、俺のこと舐めても」
「ほんと? わーい、じゃぁアタシ、裕樹舐める」
風霧が裕樹の胸の上に上がる。
「わー、まじ? くすぐったい」
早速顔を舐めてくる風霧に裕樹が首をすくめる。
「ザラザラしてくすぐったいよ、ねぇ」
「俺はもう少し寝る」
「え? こんな、あ、くすぐったいから…眠れないよ。あぁん」
雲風に首筋を舐めさせたまま、蒼雲はすでに目を閉じてしまっている。おそらく皮膚感覚を遮断しているのだろう。そういうことが平然と出来る男だ、蒼雲という男は。
「あ? ずるいぞ、蒼雲。あぁ。ちょっと、ちょっと待てって風霧。痛っ…」
裕樹はくすぐったさに身じろぎする。
その度に体のどこかが痛む。
「あぁぁ、もう!」
裕樹の悲鳴のような声が、明るい室内に満ちる。
たわいのない会話。
穏やかな日常。
束の間の平和。
まだまだ続きますが、いったんこちらで2巻目が終了。
布団の中で天井を見上げていることが多い主人公達です。
早くもっと強くなって欲しい…。
そして、せっかくの学園ものなのに、同級生があんまり出てこなくてすみません。
次の巻には出てきます。
完結させずにこのままダラダラ続けようかと…。




