少年と化け猫
嫌な気配がした。
アレが来る気配だ。
次の瞬間、裕樹の体は苔の上に倒れ込んでいた。
少年が突き飛ばしたのだ。
その彼の姿は、暗い森の中に溶けてもうほとんど見えない。ほんのわずかな時間、白い着物にこぼれてきた月光が当たる時にだけ、その位置を確認できる。
彼は戦っていた。
アレと。
白い透明な人影と。
すごい数だ。
いつの間にかものすごい数の人影に取り囲まれている。裕樹は本能的に息を潜めた。
これはきっと、まずいやつだ。
事態の急展開についていけない。
しかしその間も、少年は、左腕に握った刀で、その人影を切り割いている。
剣道とは違うようだった。そういう規律に富んだ動きではない。それでいて、がむしゃらに振っているわけでもないようだった。
(きれい)
と裕樹は思った。白っぽく透明な人影が小さく切り裂かれて宙を舞っていく。それはまるで、桜吹雪のようだった。
(強い)
これも本能が告げる。少年の動きには無駄が無かった。片腕で握った刀を素早く振って、花吹雪を量産していく。
「!」
突然、少年の体が丘から消えた。
横から飛んできた何かが、彼にぶつかったのだ。
突然現れた、白銀の大きな獣が。
獣は空中でくるりと一回転して、音も立てずに木の幹に垂直に留まった。二秒と待たずに、再び空中に舞い上がると、少年が消えた斜面に向かって落ちていく。
シュンシュンシュン
パシッ
パシッッツ
ガサ
パキッ
ガサガサ
ドス
ドスン
いろいろな音が絶えることなく続いている。
裕樹はつけっぱなしになっている懐中電灯で足元を照らしながら、斜面の下が見える場所まで移動した。
20メートルくらい離れた場所に、開けた場所があった。
月明かりがスポットライトのようにその場所を照らしている。
そこに、少年はいた。
彼の前には、銀色の長い毛をなびかせる獣。長くて大きなフサフサの尻尾が激しく振られている。
獣の左手が、少年の背中で左上から右下に大きく動いた。
「ぐあぁっ」
少年が前のめりに吹っ飛ばされる。
ふいに、白銀の獣の隣に、同じくらいの大きさの黄茶色の獣の姿が現れた。
2匹の獣の影が、月光に照らされて地面に伸びる。
(と、ら?)
裕樹は口を開いたが、声が出なかった。
体が動かない。
夜に透明な人影に出会うとなることがある、金縛り。体が地面に縫いとめられたように動かず、声を出すことすらできない。
その間にも、その2匹の大きな猫科動物は、代わる代わるに彼に向かっていく。
目の前にいるのは虎か? 虎サイズの猫か?
シルバーに渦巻き模様のような大きな黒縞の猫。黄茶に黒い縞の、それこそ見た目まで虎模様の猫。どちらもフサフサの長い毛に覆われ尻尾を立てている。
(尻尾が2本!? バケネコだ)
去年買ってもらった本にそう書いてあった。妖怪になった猫は尻尾が2本になる、と。
銀猫の爪が、彼の右の肩に刺さる。そのまま、着物の右袖を引きちぎる。彼が蹴り上げた足を利用するように逆に蹴り返しながら、銀猫が体を離す。
入れ替わるようにして虎猫が飛び掛かる。
地面を転がって虎猫の攻撃をよけた彼は、左手に持つ刀を大きく横に薙ぐ。
飛び掛かろうとしていた猫が空中で身をひねり、刀身を蹴って飛びのいた。
先ほどよりもますます、彼の体はボロボロだった。
立ち上がった彼の右腕から、遠目にもわかるほどに大量の血液が、ボタボタと地面に吸い込まれていく。
そこへ、別の獣が2匹現れた。こちらもフサフサの毛をした白黒猫と灰色猫だった。先ほどの2匹ほどではないが、ゴールデンレトリーバーほどの大きさがある。
肉食の大型獣が4匹。
絶望的な状況だ。小さな人間の少年が、大きな猫に狩られている。
予備動作もなく、後から来た猫のうちの1匹が、いきなり少年を背後から蹴り飛ばした。倒れ込む体を、その白黒猫がいきなり咥えた。
(あ! 喰われる!)
丘の上で立ったまま動けない裕樹は、思わず目をつぶった。
ブスリ
と。牙が肉に刺さる音が聞こえたような気がした。
そっと目を開ける。
少年の体が、猫の口の中にあった。
牙が、深々とその体に刺さっている。
猫は、少年を咥えたまま、クイッと顎をあげた。
少年の体からスローモーションのように牙が抜けて、その体が大きく宙に跳ね上げられた。赤い血の軌跡が月光に照らされる。
落ちてくるところを、猫は鼻先でもう一度空に放った。
まるでネズミのおもちゃのように。
彼の体が、裕樹の5メートルほど離れたところに落ちた。
ついさっき彼を跳ね上げていた白黒猫が身を低くして、ギラギラとした目でそれを狙っている。
もう1匹の灰色猫も、同じように上半身を低く落として臨戦態勢だ。2本の尻尾が、ゆっくりと振られている。青銀色に怪しく光る目。真っ赤な舌で舌なめずりをする。
(今度こそ喰われる!)
裕樹の体は震えていた。
ついさっき会ったばかりの少年だが、彼が弄ばれている姿に心が切り裂かれるほどに苦しい。彼が目の前で喰われるのを黙って見ていることしかできない自分。だがしかし、黙って見ている以外、自分が助かる術はない。
『猫は見つけた獲物を容易には殺さない』
また父親の言葉が蘇る。
いつだったか、おじいちゃんの家の庭に猫が鼠を咥えて来たことがあった。
猫は鼠を死なない程度に甘く噛み、放り投げ、逃がし、また捕まえ、しばらく狩りを楽しんだ。そして結局、食べなかった。
猫は、必ずしも食べるために狩りをするわけではない。
(だとすれば)
と裕樹は思った。
(まだ彼を助けられる! 今のうちに彼を猫の攻撃から守れば、彼を助けられる)
彼と自分との間の斜面に、彼が握っていたあの刀が落ちている。
(あれさえあれば…)
でも体は動かない。
(動け!)
と裕樹は願った。灰色の猫の尻尾の振り方が早くなる。
(動け、動け、動け!)
「動けー!!!!!」
8つの目が一斉にこっちを見る。
裕樹は斜面を走り出したのは、灰色猫が地面を蹴ったのとほぼ同時だった。
「!」
「!」
「!」
その森の全ての時間が、一瞬止まった。
灰色猫の振り上げた左手の肉球が、刀の切っ先と触れ合うようにして止められていた。
両手でしっかりと刀を握りしめた裕樹が、倒れている少年の前に立ちはだかっている。
猫が振り下ろしかけていた手を持ち上げる。
肉球に、ツーッと血の珠が浮かんだ。
「ど、どけ! あっちにいけ!! バケネコ!!! あっちに行け!!!!!!」
ブン
空気を切る音を立てて刀が振られる。
ブンブンブン
裕樹は無我夢中で刀を振った。
猫は腕を引いて、血の珠が浮かぶ左手の肉球を舐める。
「驚いたな。人間だぞ」
右手奥に座っていた銀色の猫が人の言葉を話した。
裕樹は慌ててそちらに視線を送る。
ゴクリと唾を飲み込む。
「痛いな。肉球、切れた」
目の前のものすごい近い距離で、灰色猫がその真っ赤な舌でペロリと肉球を舐めている。ギラギラと、青銀色の目が光っている。
「しかも、オレたちが見えるらしい」
「ほんとだね、オレたちのこと見えてるみたいだ」
「しかも、蒼魔刀を使って、風霧の体に傷を付けた」
左の猫、奥の猫、右の猫、すべての猫が人の言葉を話す。
「うわぁ!!」
悲鳴の代わりに大声で気合いを入れて、裕樹は刀を八双に構えて大きく前に踏み出していた。
「うわっ、危な!」
灰色猫が座った姿勢からそのまま、2メートルは後ろに飛び退った。
「いきなり危ないなぁ、もう」
驚いて真ん丸の目をしている。
「今の、なかなかすごかったぞ」
「何者だ、こいつ?」
「雲風、こいつ蒼雲の友達か?」
黄茶の虎模様の猫が、近くにいる白黒猫に声をかける。
「いや? あいつに友達なんていないし。オレ、知らない」
「アタシも知らない、こんなヤツ」
灰色猫が言葉を被せる。
「お、お前……何、やってる……」
「あ! 気がついた!? 大丈夫??」
背後に倒れていた少年が体を起こす。裕樹が振り返って、足早に駆け寄る。
「くっそ!」
少年は左手の甲で、目に入ってくる額の血を拭う。
「さっきより傷増えていて血だらけだよ。大丈夫? 逃げよう、一緒に。ここから一緒に逃げよう!」
しゃがみ込み、その手を取ろうとし裕樹の腕を、またしても乱暴に払う。
「お前……何やってんだ……。こんなところに、出てきてるんじゃねぇ。あっちに行け、邪魔すんじゃねぇ」
「何言ってるんだよ! きみ、こいつらに、このバケネコ達に殺されそうになってたんだよ。ここにいたら、食べられちゃう。逃げよう、一緒に! ね!」
「バカ。こいつらに見つかって、もう、逃げられるわけねぇだろう」
少年は苦しそうに肩を押さえながら立ち上がった。
「なら、僕がここでこいつらを足止めするから、その隙にきみは逃げて!」
なんでそんなことを言っているのか分からなかった。
でも、裕樹はそうした。
さっき会ったばかりの他人だけど、でも、人が一人目の前で殺されるのを、黙って見ていることは裕樹にはできなかった。かといって、それで自分が死ぬかもしれない理由にはならないけれど。
母さんは悲しむだろう。
父さんも悲しむだろう。
おじいちゃんも、きっと悲しむ。
それでも。
「早く、逃げて!」
ギュッと刀を握り直す。手のひらにべっとりと汗をかいているのが分かる。
今やすっかり間合いを取った4匹のバケネコ達は、ギラギラとした目で、不思議そうに裕樹の動きを眺めている。
「おい、蒼雲。そいつ誰だ? お前の知り合い?」
一番近くに座っている白黒猫が、無造作に言った。
さっきまでの殺気が全くない。
「違う。こいつは、ただの迷子だ」
「ただの?」
「迷子?」
銀猫と虎猫が重なるように言って顔を見合わせる。
それ以上に驚いたのは裕樹の方だ。
「きみ、このバケネコと知り合いなの??」
何が起こっているのか分からなくなって、裕樹は混乱した。
さっきまで、バケネコ達は明らかに少年を狩りの獲物のように扱っていた。実際に彼の体は傷だらけで、ダラダラと流血している。それなのに。
おかしい。
(全ては罠で、ここで喰われるのは自分なのではないか)
裕樹の脳裏を一瞬、そんな不安が駆け巡った。
背中を嫌な汗が流れる。
喉が、カラカラに乾いていた。