露天風呂で肩を並べて
夜の修練が終わった時には22時を回っていた。
夜はだいたい、平均2〜3時間、術の修練をすることになっている。式神相手に実戦的な訓練をしたり、お互いに術を掛け合ったりが主な内容だ。
(俺の心は弱い)
と裕樹は思う。昼間の動揺が心から抜けない。特に夕食の時に聞かされた言葉は衝撃だった。期待されて育ったという事実よりも、自分にまったく自由がなかったことに戸惑う。生まれた瞬間から、自分の道は定められていたのだ。ちっとも修行に集中できなかった。とりとめの無い思考が頭の中をグルグルする。術の発動スピードが落ち、呪をかけそびれ、受けそびれ、散々な内容だ。それに引き換え蒼雲は。いつも通りの冷静さで淡々と修練をこなした。
「はぁ」
蒼龍からこっぴどく怒られて、ボロボロの気持ちで風呂に向かう。
母屋の西の対に、地下からくみ上げた天然温泉を引いた風呂があって、いつでも利用できるようになっていた。裕樹は、夜の修練が終わった後は風呂に入ることにしていて、そこで一日の気分をリセットしていた。坪庭が見える半露天風呂だ。
湯温はぬるめでちょうど良く、アルカリ質の柔らかな泉質だ。
洗い場から湯船に向かい、体を沈める。
「はぁ」
湯に浸かりながら、もう一度大きな溜め息をつく。やる気はある。でもそれが空回りしている。「集中できないなら出て行け」と修練場を追い出された。
「あぁ、もう、俺は何をやっているんだ、まったく」
ダメな自分に嫌気がさす。グシャグシャと頭をかきむしる。
いろいろなことが一気に起きすぎて、頭が混乱している。
ガチャリ
扉が開く音がする。
ここは裕樹たち専用の風呂場だが、使うのはいつも裕樹だけだ。蒼雲は風呂に入ること無く、いつもだいたいシャワーで済ませている。それも、ジムの隣にある簡易シャワーを使っている。
「蒼雲?」
薄暗い洗い場に人の気配があって、裕樹はそこに声をかける。
「なんだ」
「あ、いや、わりぃ。俺、すぐ出るから」
「なんで?」
「は? なんでって、お前が入るんだろ?」
「狭い風呂じゃないし、お前が居ても構わん」
「いや、だけどさ…嫌かな、と思ってさ」
「なんで?」
言われて考えてみる。男同士なのだから、別に遠慮する必要は無い、はずだ。
「見られて困るもんじゃないだろ」
「まぁ、そうだけどな」
特に断る理由もなく、そのまま湯の中に留まった。振り返って洗い場の方を見る。こちらに背を向けて、蒼雲が座っている。その背中が、灯りに照らされている。一切の無駄の無い、俊敏な猫化動物のような体だ。おそらく、体脂肪率が極めて低い。引き締まった、足から尻にかけての筋肉。肩から背中にかけての筋肉。細い体を包む筋肉のひとつひとつが、動くたびに外側からわかるほどだ。男の裕樹から見ても惚れ惚れする体だ。
「お前、ほんと良い体してるよな」
ついつい、感想を口に出してしまう。
「あ? 見んなよ」
髪を洗いながら、自分を見ている裕樹の気配をちらりと見て、素っ気ない言い方。言葉とは裏腹に、特別嫌がっている風でもない。
「見られても困んないんだろう?」
「困りはしない」
「ならいいじゃん」
「勝手にしろ」
ぶっきらぼうに言いながら、手際よく体を洗っていく。傷だらけの背中。上半身の怪我はほんの少し見たことがあったが、これだけじっくり見るのは初めてだ。縦横に走るのは大抵が古い傷で、おそらく猫たちとの格闘の歴史だ。その古傷の上に、新しい傷が出来て血が出ている。内出血して赤黒くなっているところもあちこちにある。
「傷だらけだな」
「まだ見てんのかよ」
「興味あるんだよ」
「男の体に興味あるなんて変態だろ」
「おいおい。別に俺は男の体になんて興味ないよ。女の子の方が好きだし。でもお前の体には興味がある」
自分でも何を言っているのかわからなかった。言ってしまってから、裕樹は恥ずかしくなる。
「いや、それは…」
たぶん顔が赤くなっていたはずだ。
「ふっ」
蒼雲が小さく笑ったのがわかる。呆れているのか馬鹿にしているのか。それでも、拒絶された感じは無い。
「勝手にしろ」
また一言そう言って、豪快に蛇口を捻って頭からシャワーを浴びる。
ひとしきりシャワーを浴びた後、立ち上がって湯船に歩いてくる。
「猫化すると体の構造も変わるんだったよな」
歩いてくる姿は人間なのに、猫化している状態だと、7〜8メートルくらいの高さの跳躍は余裕でこなす。不思議な体だ。自分のことは変態ではないと信じたいが、ついつい見とれてしまう。
「あー、ほら、お前、すっごい跳躍できたりするだろ? 体が特別軽いってわけでもないのに、すっげーなーって思ってさ」
「なら猫化してない今、いくら見ても仕方ないだろ」
言われてようやく気がついたが、蒼雲は珍しく猫化を解除している。
「あれ? ほんとだ。いいの?」
「たまには人間でいたい時もあるんだよ」
その言葉には、言葉以上の深い意味があるような気がして、裕樹は応えられなかった。
「猫化すると関節の可動域と筋肉の組成や付き方が変わる。筋肉質にはなるが、白筋が多くなるから疲れやすくてつらい」
蒼雲はそう言いながら、湯の中に入ってくる。
「くっ」
傷が沁みるのか、ほんの少し顔を歪める。
二人は、中庭を望むように並んで座った。こうして一緒に風呂に入るのは初めてだ。
「お前が風呂に入るの珍しいよな? いつもシャワーだけだろ?」
「あぁそうだな。滅多に入らない」
「こんな良い風呂があるのに、なんで?」
「水は好きじゃない」
予想外の返事。猫らしいというべきなのかもしれないが、いくら猫化できるとはいえ蒼雲は人間だ。
「泳ぐのに?」
「泳ぐのは仕方なくな。持久力を維持するために意図的に赤筋を鍛えないといけないんだよ」
「相変わらずストイックだねー。体を鍛えるためなら苦手な水も平気だけど、風呂は嫌だって?」
裕樹は呆れたような声で言う。想像通りの答えだが、たぶん自分は、その答えを期待していた。そんな自分にも少し呆れる。
「はぁぁ」
裕樹の問いには答えず、浴槽の縁に頭を乗せて体を投げ出して蒼雲は大きく溜め息をついた。
「たまには風呂もいいな」
珍しくリラックスした表情。張りつめた気配がない。いつも蒼雲は、研ぎすまされた刃のような気配を身にまとっている。触れただけで何ものをも切ってしまいそうな、鋭い刃だ。それが今日は、きっちりと鞘に納まっている感じだ。そしていつもより、心を許してくれているような気がする。
「なぁ、裕樹」
「うん?」
「生きている意味って、何だろうな」
独り言のように、蒼雲が呟いた。それはともすれば湯気に紛れて消えてしまいそうなほどに頼りなく、それでいてどうしようもないほどに切ない潤いを含んだ声だった。
裕樹は、天井を見上げている蒼雲の横顔を見た。
24時間猫化していることを強要されている蒼雲にしては珍しく、今夜は猫化を解除している。それも自分の意志で。
「俺たちは何のために生きている?」
いつになく、切なそうな、苦しそうな、悲しそうな顔。
「それは…」
問われた裕樹も答えに困る。自分の記憶の中から、一生懸命に答えを探そうとする。
(ここでの正解はいったいなんだ?)
それは、わからない。だから、セオリー通りの答えを返す。
「魂の成長のため、だろ?」
人は現世に生まれ、試練を乗り越えることで魂を成長させる。そう、祖父からも父からも教えられた。
「本気でそう思ってるか?」
「…いや…」
「じゃぁ、本音は?」
「…わかんないよ。そんなこと、真面目に考えたこと無い」
それが真実だった。生きる意味なんて、考えたことは無い。
「お前は、答えあるのかよ?」
逆に問いかける。
蒼雲は答えない。視線を動かさず、じっと天井を見つめている。
裕樹も、蒼雲と同じように石の浴槽の縁に頭を乗せて足を伸ばした。
同じ天井を見つめる。言葉がいくつか浮かんでくる。裕樹はそれを、そのまま口から出してみることにした。
「俺はただ、死にたくないから生きる、それだけだった。それ以外の答えはないよ。なぜ死にたくないのかもよく分からない。でもなんとなく、生きていればもっといろいろ楽しいことあるんじゃないかって、そう思っていただけかな」
「楽しいこと?」
「あぁ。俺、行ってみたいところあるしさ。国内だって、まだまだ行ってないとこあるけど、海外には絶対に行ってみたい。木霊使いになる前は、そう、俺の平和な10歳の頃は、シャーロック・ホームズに憧れていてね。あぁ、これ、イギリスのコナン・ドイルって人が書いた小説の主人公ね。名探偵なんだよ。ちょうどお前みたいにさ。クールで頭が切れて、どんな事件も解決しちゃうの。依頼主の姿を見ただけで、その人の特徴から、職業や性格まで当てちゃうくらい観察眼に優れているって設定で、天才なんだよ。ワトソンって相棒が居てね。この人は医者で、それなりに頭も良いはずなのに、天才ホームズの前ではただの相棒ね。で、小説はこの人の記録を元に書かれているって設定なんだ。すごいよ。小説の主人公なのに、未だに実在の人物だと信じられているくらい愛されててさ。ロンドンにシャーロック・ホームズの家なんてのがあるんだよ。だからいつか、ロンドンに行ってみたい、イギリスに住んでみたいって思ってたんだ。仕事始めてからは、さすがにそれは無理だろうって思ってるけどね」
天井を見上げたまま、裕樹は昔の自分の夢を思い出していた。探偵になりたいって思ってた。それより前は、侍だ。チャンバラごっこが大好きだった。物心ついた頃から剣道は始めていたし、祖父の影響で時代劇を見たりもしていた。
捨てて来た夢は多い。
「だから、早く大人になりたいって思ってた。お前は? 子供の頃、夢とかあった?」
聞いてから、その質問は不適切だったことに気がつく。
「あー、ごめん。お前は子供の頃からずっと猫使いになるための修練ばっかだったんだよな。そしたら、何かになるなんて夢なかったよな」
10歳からの自分は、夢なんて無かった。そんな甘い理想を思い描いていられるほどの余裕はもう無かったから。蒼雲はそれが、物心ついた頃から続いているはずだ。夢など抱く余裕は無かったはずだ。
「鳥」
「え?」
思わず蒼雲の方に顔を向ける。答えが来るとは思っていなかったのだ。
「子供の頃、俺はずっと、鳥になりたかった」
「鳥か…」
「遠隔透視の訓練で、意識を四方に飛ばす修練するだろう? あの時、鳥のように上から世界を見る。あの感覚が好きだ」
見たいものを鳥のように上から見る。確かに、そういう修練は積む。
「だからずっと、鳥のように自由になりたいと思ってた」
バシャリと水音を立てて、蒼雲は右手を天井に向けた。宙で何かを掴むような仕草をする。
「大切なものを作ると失うのが怖い。だから鳥のように自由でいたいと、俺は思っていた。いつ死んでもそれでいい、と。俺が死んでも、泣いてくれるものなど居ない。それでいいと」
「それは違う」
裕樹は体を起こし、先ほどより大きな水音を立てて蒼雲の方を向く。
「俺はお前のパートナーだろ? お前が死んだら俺は泣く。お前の猫たちだって、きっと泣く。それに、梓乃ちゃんや雅哉だって泣くぞ、きっと。俺たちはもう大事な仲間だからな」
「じゃぁ何か? 仲間を悲しませないために俺たちは生きるのか? 誰かのために生きるのか?」
淡々とした声とは裏腹に、振り回されている人生への憤りが見え隠れする。夕食時、平静そうに見えていた蒼雲も、動揺していたのかもしれない。
(高天原の監視下にあってなお、俺たちの生きる意味とは何だろうか)
「いいんじゃないか? それで。俺たちは、誰かを悲しませないために生きる。仲間を助けるために生きる。シンプルでいいだろう?」
正しいかどうかはわからない。でもひとつの結論にたどり着いた。裕樹は大きく溜め息をつく。
「そうか」
予想外の落ち着いた答え。
「お前と話せて良かった」
と蒼雲は言った。
「え?」
「少し、すっきりした」
蒼雲はもう立ち上がっていた。
「なんだよ、それ」
来た時のように飄々と湯船から出る。
「先行くぞ」
せっかく追いついたのに、放っておいたらまた先に行ってしまう。
「置いて行くなよ。俺らパートナーなんだから、いつでも俺を連れてけ」
自分でもうざいと感じるくらいの台詞を吐いて、裕樹は蒼雲の背中を追いかけた。
これからずっと、一緒に歩いて行くために。
家に露天風呂あったらいいですね。温泉に入ると気持ちが解放されるような気がします。
温泉に入っている間には、普段は言えない本音も、ポロっと口にできたらいいな。と思いまして。




