血まみれの少年
おそらく何時間か眠った後、不意の物音に裕樹は目を覚ました。
(何の音!?)
ガサガサガサ
パキッ
ガサガサ
枯葉と小枝を踏むような音が遠くから聞こえる。
裕樹は静かに体を起こした。
(何か来る)
アレとは違う。
アレは音を立てない。どう考えても音が立つような行動をしている時にも、音を立てないのだ。
だから今度のは違う。先ほどの白い人影とは違うものが、ここに近づいてきている。
体が緊張する。
(クマ?)
首元に白い月の輪があるクマが、この森には住んでいるはずだ。それも父から聞いた。人を襲って食べることはないとも、言っていたけれど…。
ガサ
枯葉を踏む音。そして、
ズズッー
何かを引きずる音。
それが不規則に、交互に繰り返されながら近づいてくる。
ドサッドドドドサッツ
急にその音が変わった。重さのあるものが倒れるような音。斜面を転がるような音。
沈黙。
この数分間は、裕樹がこれまでに経験した中で一番長い時間に感じられた。
じっと息を殺して、先ほどまで足音がしていた方向に注意を集中する。
あれから何の音もしない。
何かが倒れたのは、裕樹がいる洞のすぐ近くのはずだ。
洞がある場所は、周りからほんの少し低くなっていて、その周りは洞の入口よりもほんの少し高い。そこから緩やかな丘が右手の方に繋がっている。つまり、先ほど物音が途絶えた場所は、洞の入り口に向けて続く緩やかな斜面の下だ。
(すごく近い。たぶん、4メートルか5メートルくらいしか離れていないはずだ)
もう一度、もう二度と足音が聞こえないことを確認して、裕樹は洞を出た。
何の気配もない。
リュックから引っ張り出してきた懐中電灯を、ギュッと右手に握っている。
静かにスイッチを入れる。
「!!??」
人は驚いた時、何の言葉も出ないものだ。
心臓の音が恐ろしく早くなって耳の奥でガンガン響く。
裕樹は大きく深呼吸した。ブルルッと体が震えた。
小学生にはありえないほどのありったけの勇気を振り絞って、思わずそらしたままになっている懐中電灯の光を、もう一度その方向に向ける。
人が倒れていた。いつものアレではない。なぜなら、その体が透けて見えない。
なのに、普通ではない。
血まみれだ。しかも。
「子ども?」
自分と同じくらいの身長に見える。上半身は白っぽい着物のようなもの、下半身は白っぽい袴のようなもの。剣道をしている裕樹には、それが剣道着のように見えた。
白い着物の背中には何かに引っ掻かれたような何本もの赤い筋が縦横斜め無造作に入っていて、袴の裾は引きちぎれて、そこから覗く足にも赤い筋が見える。血の跡だ。
『ここは自殺のメッカとも言われていてな』
またしても父の言葉。
父の情報はいつも的確だ。
この森で起こる可能性があることを、事前にすべて教えてくれている。
でも……。
死体と遭遇したらどうしたらいいのかまでは教えてくれなかった。
だから……。
ここから先は自分で判断しなくてはいけない。
どうするべきか。
どうしないべきかを。
(父さん、こういう時には、どうしたらいいの?)
もちろん、答えはない。
その時、死体の腕が動いた。
動いたのを見た後は、迷わなかった。裕樹は駆け出していた。
さっきまで死体だったその傍らに。
死体だったはずのものは、裕樹の足音を察してぎこちなく体を起こした。
裕樹と同じくらいの年頃の少年に見えた。
端正なその顔にも、赤い筋や青あざが浮いていた。左目の上が腫れ、唇の端が切れて血が出ている。
「だ、大丈夫!?」
その少年は、裕樹の顔を見て、一瞬緊張させていた体を緩めた。
再び倒れそうになる体を、裕樹の腕が支えていた。
「大丈夫? 怪我、してる。クマに襲われたの?」
自分の体に寄りかかっている少年の顔を覗き込む。
「おまえは……だれ……だ?」
懐中電灯の灯りを嫌うように目を細めて、死体だった少年は声を絞り出した。
「僕は、御鏡裕樹」
「御鏡……」
少年は、裕樹から体を離して少し体を丸めた。
「ぐっ」
その顔が苦痛に歪む。
「だ、大丈夫!? すごい怪我だよ。血が出てる。早く病院にいかないと。あ、でも、こんな森の中じゃ、病院なんて……」
「その森の中で、お前は何をしているんだ」
「え? えっと……」
「死にに来たのか?」
「違うよ。ただの迷子だよ」
少年は立ち上がっていた。
「迷子にただもなにもない。夜この森で迷子になるってことは、死ぬために来たのと変わらない」
白かっただろう着物は泥と血で黒く汚れていて、隙間から覗く傷だらけの肌からは、この瞬間も血が流れ出ていた。
「ちょ、っちょっと。無茶だよ。きみ、傷だらけだよ」
「俺に触るな!」
再び体を支えようとした裕樹の手を、少年は思い切り左手で払いのけた。
それでバランスを崩したのか、少年は再び倒れ掛かり膝をついた。
ゴホゴホッとむせる。
血の塊が枯葉の上に落ちた。
「ちょっと待ってて! 水、水あるから」
裕樹は洞に走り、ペットボトルを掴んで戻った。
少年は先ほどと同じ格好で、肩で大きく息をしていた。
「水! 水持ってきたよ」
少し顔をあげて、裕樹が差し出した水をチラリと見る。
それからゆっくりと、裕樹の顔を見た。
まるでボクサーのように、痛々しく腫れあがった眼が、裕樹の視線と絡む。
躊躇する表情。
だが、渇きがそれに手を伸ばさせていた。
「悪い。水は貰う」
受け取ったペットボトルの蓋を開けようとするが開かない。だらりと下がった右手が上手く動かないのだ。
「貸して」
裕樹は渡したばかりのペットボトルを奪うと、そのふたを開けてもう一度差し出した。
乱暴に受け取り、水を喉へと流し込んだ。一気に半分ほど飲む。それをそのまま裕樹に返して、
「俺に関わるな」
と、お礼の代わりにもならない無慈悲な言葉で彼のことを突き放した。
少年は立ち上がっていた。そして歩きはじめる。素足だった。傷だらけの足を引きずるようにして、先ほど転がり落ちてきた斜面をゆっくりと上る。
「そうだ!」
裕樹は何かにひらめく。
「ちょっと、待ってて!」
慌てて洞に引き返しリュックの中をまさぐった。確か、絆創膏があったはずだ。ゴソゴソとしばらく中を漁ったところでようやく発見し、それを握ってパーカーのポケットに詰めた。
急いで、先ほど少年に出会った場所まで戻る。懐中電灯で照らすと、岩や木に掴まるようにしながら、少年が斜面を上っていた。
「待って! 待ってよ!」
傷らだけの足でゆっくりと斜面を上る少年に、すぐに裕樹は追いついた。
その頃には、二人は丘の上に出ていた。
「そ、それ……刀?」
少年は裕樹のことを完全に無視するようにして、地面に突き刺さっていた刀を左手にとった。そして、それを杖のように地面に突き刺しながら、再び歩き始めた。
「ま、待ってよ。どこに行くんだよ。そんなに怪我していたら、動いちゃだめだよ。それに、迷子になったら、夜の間はじっとして体力を温存しろって父さんが」
少年はその声を無視して歩き続けている。
「待ってよ!」
「ぐっっ」
思わず右腕を掴むと、少年がうめき声をあげて痛そうに顔を歪めた。初めて触る感覚だった。あり得ないところに関節があるように感じた。
慌てて手を離す。少年の右手は、だらりと慣性に揺れた。
少年が、その右腕を抱えるように体を丸める。顔が苦痛で歪んでいる。
「ご、ごめん……大丈夫? 痛いの? ねぇ、その腕」
「折れているだけだ、気にするな」
表情とは裏腹に、強がった台詞。
「気にするな、って。そんな体でどこに行くんだよ。夜の間はじっとしてろって父さんが」
「ならお前はそこでじっとしていろ。そのうち誰か来て助けてくれる」
「なら、きみだって」
「俺は、誰かに見つかる前にこの森を抜けないといけない。次見つかったら終わりだ」
「無茶だよ」
「お前には関係ない」
「そんな体じゃ、森を抜ける前に死んじゃうよ」
「どっちみち、ここにいたって死ぬ」
「大丈夫だよ、助かるよ」
当然、そんな言葉に振り返るはずもない。
足を引きずるようにして、わずかずつではあるが、少年は先に進んでいる。
裕樹は、今度は少年の左腕を握った。そのまま、彼の左肩を自分の右肩に引っ掛けるように体を入れる。
「何をする」
「僕の肩を貸すよ」
「なんで?」
「その方が、歩きやすいよ」
「なんでそんなことをする?」
「だって森を抜けるんだろう?」
「バカかお前は。森を抜けたいのは俺だ。迷子はここで朝までじっとしていろ。助けは必ず来る」
「ならきみも一緒にいればいいじゃないか。そんな傷だらけの体で、この森を抜けられるわけない」
「余計なお世話だ。俺は、この森から、逃げるって決めたんだ」
「は? 意味わかんないよ」
「分かんなくて結構。だから、俺に関わるな」
少年は、裕樹の腕を強引に振り払おうとしていた。その動きが急に止まる。鋭い視線を周囲に送る。
「くっそ。見つかったか」
少年が忌々しげに舌打ちをした。
ちょっと長くて読みにくかったので、二つに分けました。