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樹海

(困ったな)

 と御鏡(みかがみ)裕樹(ひろき)は思った。

 道に迷った。

 きれいな蝶が飛んでいるのを見つけて。

 それを捕まえて母さんに見せてあげたら喜んでもらえるかもしれないと思って。

 木々の間からほんの少しだけ覗く空に、その瑠璃色の羽がとても美しくキラキラと輝いて見えて。

 気がついた時にはその瑠璃を追っていた。

 それで……。

 いつの間にか蝶は手が届かないくらいの高い高いところに舞い上がってしまって、そして自分は、たった一人取り残された。

 圧倒的な自然の中に。

 しかも、空はきれいな夕焼けだ。夜が来る。

「困ったな」

 今度は口に出した。

 道に迷ったことに対してではなく、この状況にも比較的冷静でいる自分に対して。

(冷静に考えろ)

 と自分の中の誰かが言う。

 ここは青木ヶ原樹海で、時刻は夕方。小学生の少年が一人、絶賛迷子中。

 どう考えても、泣き出すべきシチュエーションだ。

 でも、なぜか少年は冷静だった。

 辺りを見渡し、木々の根元に溶岩が少しせり出している場所を見つけた。

 慎重に足を進める。

 頭の中で、今朝の父さんとの会話が再生される。



『いいか。樹海の中には、溶岩が流れた跡がいっぱいある。中でも溶岩樹型っていうのが危険だ』

『溶岩樹型?』

『そうだ。木がたくさん生えている森に溶岩が流れると、木はその熱で燃える。でも太い木は燃えるまでに結構時間がかかるから木の周りを溶岩が取り囲んでじっくりと燃やしていくんだ。そうしているうちに次第に溶岩が冷えて固まる。中の木は燃えて炭になって無くなっている。そうすると、木の幹を取り巻く形で溶岩だけが残る。それが溶岩樹型だ』

『わぁ! おもしろい!』

 無邪気に目を輝かせた息子を、父は首を振ってたしなめた。

『だから危ないんだ。木は地面に根を下ろす。つまり、』

『その穴はすっごく深い』

 自分の言葉を遮って結論を導き出した息子に微笑みかける。

『そうだ。だから、気を付けて歩くんだ。枯葉や苔で穴が見えにくくなっていることが多い。この森では、不用意に森に入って、そうやって穴に落ち込んで出られなくなって死ぬ人が多い。だから、溶岩が木の形で盛り上がって見える箇所に近づくときには、足を踏み出す前によく確かめるんだ。いいね』



「気を付けるよ、父さん」

 今朝の父親の言葉を思い出して、裕樹はそう声に出した。

 慎重に足を進めて溶岩の根元までたどり着く。

「穴は無い、っと」

 洞の下は、柔らかな苔が生えてはいるが、しっかり詰まった溶岩の塊のようだ。

 どうやら、手前にあった大きな石に溶岩流が遮られることで洞のようになった場所のようだった。

 庇のようにせり出した岩の下は、大人が2人くらいは座れそうな大きさの洞で、雨露をしのぐのにはちょうどよさそうな場所だった。

 裕樹は、ここを今夜の宿に決めた。


『道に迷った時には、不用意に動かずにその場にじっとして体力を温存するんだ。夜の間は絶対に捜索隊は来ない。だけど、捜索隊は朝になれば必ず来てくれる。だから夜の間は安全な場所にじっとして、朝を待つんだ』


 裕樹の父は樹を診る仕事をしていた。世間では樹木医と言われている。でも、裕樹の父の仕事は少し変わっている。なぜか頻繁に山に入る。山に入って、古い木を診る。そんな父に連れられて幼稚園の頃から山に入っていた裕樹は、道に迷った時の対処法も父から何度も聞かされていた。だから、10歳の子供が知っているとは思えないほどにサバイバル知識を持ち合わせていた。それもまた、裕樹を冷静にさせている一因だった。

 小さくないリュックの中には、水やチョコレート、ビーフジャーキーに缶詰など、3日分の食料が入っている。それに、ビニールシートや保温用のアルミシートまで。

 火をつけるために燃やせそうな枝が無いかと思って少し周りの倒木に触れたが無理そうだった。一昨日の雨で濡れている。緑が深いこの森の中では、1日や2日晴れたところで、地面の下草が乾くことはない。

 裕樹は火をつけることを諦めて、リュックからビニールシートを取り出して洞の中に敷いた。暗くなる前に、今夜の宿の快適さを確保しなくては。一応、懐中電灯はある。火が無くても困ることはない。

(火は諦めよう)

 夜は待ってくれない。決断は早い方が良い。

 程なく日が落ちた。

 裕樹は、ビニールシートの上で体育座りをしたままの姿勢で、チョコレートをかじっていた。今夜の夕食はカロリーメイトとチョコレート。3日分の食料をどうやって食べるべきか、その配分について考えた結果だ。

 夜の闇は必要以上に暗い。

 木々が密集して影を作り、昼間でも暗い森だ。

(怖い)


『怖いときには寝てしまえばいいんだ』


 再び父親の声がする。父と一緒に、森の中で夜を明かすことは何度もあった。でもその時は、「いつでも傍らに父さんがいてくれる」という安心感があった。その安心感で、暗い森の中でも安心して眠ることができた。でも今は違う。

 闇は怖い。

 そして、嫌な気配がする。

 こういう気配の時には見る。

 アレを。

 見てはいけないものを。

 時には切なくて儚くて美しいこともある。

 でも大半は、恐ろしい。特に、夜に見るアレは恐ろしかった。

 昼間のものはみな忙しそうに何かをしている。

 電車に乗ってどこかに向かっていたり、ラーメン屋で見えないラーメンをすすっていたりする。でも夜のアレは……。

 それに「幽霊」って名前がついているのは幼稚園に入ってすぐに知った。

 それと同時に、それが他の人には見えないということも知った。


『他の人には言ってはいけないよ』

 幼稚園に入ってすぐの春。父さんに連れられて、初めて二人きりで山に入った日、唐突にそう言われた。

『なんで?』

『他の人には見えないからだよ?』

『みっちゃんにも? りょうくんにも?』

『そう。見えない。それに、母さんにも』

『え?』

 裕樹は驚いて声を上げた。だって、いつも、それが見えると母さんに報告していた。母さんはいつも楽しそうにその話を聞いてくれて……。

『裕は母さんのことが好きだろう?』

『うん』

『みっちゃんのことも、りょうくんのことも好きだろう?』

『うん』

『だから、好きな人を心配させちゃだめだよ』

『心配するの?』

『そうだよ。だって、アレは特別な姿に見えるだろう?』

『うん』

『特別な姿の人達は、特別な世界に生きていて、特別な仕事をしているんだ。だから僕たちが邪魔しちゃいけない。裕がその人たちの邪魔をするんじゃないかって、母さんはいつも心配している』

『そうなの?』

 裕樹の目が大きく見開かれた。大好きな母を心配させているという言葉は、裕樹の心に強く響いた。

『でも、父さんには見えるんでしょう?』

『まぁな。父さんには見える。でも父さんは、これまで、見えるって言ったことは一度もないだろう?』

『う、うん』

 (確かにそうだ)と裕樹は思った。自分がはしゃいで目に見えたアレの話をする時、父さんはいつも別の話に切り替えようとしていた。

『だから、特別な人達の姿が見えても、見えない振りをするんだ。みんなには見えない。だから裕も同じように、見えない振りをするんだ。いいね。見えない振りをすれば、彼らはだいたい、話しかけてきたりはしない。もし話しかけられても、無視すればいい。そうすれば、母さんも心配しなくていい。それに父さんだって、安心する。わかったか? (ひろ)。これは男同士の約束だぞ』

『うん』

 裕樹は元気よく頷いた。母さんや父さんがそれで安心するのなら嬉しい。

 だから。



(無視しよう)

と裕樹は思った。100メートルくらい離れた岩の上に、白いものがいる。

 遠くでよくは見えないが、人の形をしている。髪が長い女のようなシルエット。暗い森の中、見えるはずはない人影だ。

 裕樹は息を殺して、身じろぎせずにじっとしていた。

 すると、すぐに人影はその岩から消えた。先ほどと変わらない沈黙。

 遠くでフクロウが鳴く低い声が聞こえる他は、樹上の枝がこすれる音がほんの少し聞こえるだけだ。

 いつも通りだ。

 やり過ごした。

 タオルを首に巻きつけて、パーカーのファスナーを首元まで引き上げる。

 それから、アルミのシートをぐるりと体に巻いて、リュックを枕にビニールシートの上に横になった。

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