親と子
チュンチュンチュン
小鳥の鳴き声が聞こえる明るい部屋の中で、裕樹は目を覚ました。
和室の天井。
見たことがない天井。
フカフカな布団。
(どこだ、ここ?)
裕樹は、この布団の中に至るまでの記憶を逆向きに辿った。
(そうか、ここは蒼雲の家か)
迎えの車で猫風家に戻って、家に上がった。
(俺も蒼雲も、想像以上に結構ボロボロで、あちこち血が出ていて。風呂を借りて、怪我の治療してもらって……!!)
「蒼雲!」
声に出していた。
「お、気がついたか、裕樹」
意外なことに父の声だった。
首を回して室内を見渡すと、部屋の奥のテーブルの脇に、父親の俊樹が座っていた。
「父さん? っ……」
起きようとして、左脇腹の痛みに顔をしかめる。
「あまり急に動いちゃだめだ。傷が開くぞ」
傍らまで歩いてきた俊樹が、裕樹が起き上がるのに手を貸す。
布団の隅に座っていたオレンジ色の大きな化け猫が立ち上がり、障子を開けて廊下に出ていった。
包帯が巻かれている。ほんの少し息苦しい。
「どうして、父さんが?」
「お前が怪我をしたって聞いたからな」
「でも、東京に」
「あぁ。猫風家の迎えが来てね」
「そうなんだ?」
朝の3時に、猫風家はわざわざ迎えの車を出したらしい。
「まぁ、僕が、迎えに来いっていったんだけどな」
「え?」
「だってそうだろう? 大事な僕の息子が怪我をしたんだ。それも、猫風家からの依頼の仕事で」
「いや、それは……確かに、結果的には依頼された仕事の内容だったけど、でも昨日は、ランニングのついでっていうか」
「だいぶ無茶したみたいじゃないか」
「それは……」
「等級3の仕事を、木霊使い一人で処理しようとするのは、万全に準備しておいても結構ハードだぞ」
優しい父親の声に、厳しい師匠の声が混じる。
「下見に行こうとしたのか? 一人でなんとかしようとしたのか? あそこの神社のクスノキがたまたま力のある精霊だったから良かったが、どっちにしろ、呪具も持たずに丸腰で行くなんて自殺行為だ」
「でも、昨日あそこに俺がいなかったら、」
「ふざけるな!」
俊樹が声を荒げた。
普段は温厚な父が珍しく語気を強めて怒ったので、裕樹の体がビクリと大きく震える。
「この仕事は、遊びじゃない。ほんの少しの油断が命取りになる。自分が命を落とすだけならまだ良い。お前の判断ミスで、仲間や、一般市民が命を落とすかもしれないんだ。お前はまだまだ未熟だ。思い上がるな」
「……」
「わかったか」
「はい…ごめんなさい、父さん」
俊樹の大きな手が、ポンと裕樹の頭に乗せられる。
「わかればいい」
もうすでに、俊樹の声は、いつもの穏やかな父親の声に戻っている。
「大きな声出して悪かったな。でもまぁ、このくらい怒らないとな。蒼雲くんばかり怒られるのは可哀想だしな」
「そうだ! 蒼雲は?」
昨夜。
部屋に入った瞬間に、蒼雲は殴り飛ばされていた。
驚いて止めに入った裕樹も、蒼龍に殴られた。そのとき殴られた左頬が腫れている。
それから。
起こったことを説明させられて、裕樹は風呂に連れて行かれて、怪我の治療をしてもらって、この部屋に通されて、そして眠った。
(では蒼雲は?)
「蒼龍は厳しいからな。さすがに、もう殴られてはいないと思うけど」
「殴られていたの?」
「俺が来たときはね。正確には修練の真っ最中だったけど、一方的に殴られる状態と変わらないだろ、あの実力差じゃ」
「でもあいつ、結構怪我してて!」
「知ってる。流血しながらやってたからね」
「そんな」
理不尽だ。初めて会った5年前も、そして今回も。
いや、これまでもずっと。
(蒼雲は精一杯頑張っている。なのにいつも、理不尽に殴られている。なぜそんなひどいことをする?)
「猫使いの一族はね…」
俊樹が、少し遠い目をした。遠い記憶を辿り起こし、フッと小さく息を吐いた。
「猫使いの一族はね。僕たちよりももっと大きな責任を担ってるんだ。例えば今回の仕事みたいに、誰かとパートナーを組んでの仕事の場合。例えばもっと大きな仕事で、複数の人とチームを組んでしなきゃいけない場合もある。猫使いは常に、そのチームをまとめる重要な役割を果たす。猫使いの力不足や判断ミスは、チームのメンバーの死につながる。だから許されない。だからこそ、蒼雲くんは、厳しくされてる。15歳にしては充分すぎるくらいに強いけど、それでも、もっと強くならなきゃいけない。蒼雲くんのお父さんの蒼龍も、そうやって育てられてきた。猫使いの家の中でも最強と言われる猫風家の人間にはね。失敗が許されないんだよ」
「でも」
「リーダーが強くなかったら、安心して僕たちは命を預けられないだろう?」
俊樹の手が、裕樹の頭をもう一度グシャグシャッと掻き回す。
裕樹は、泣きそうな顔をしていた。悔しくて、泣きそうだった。
自分は弱かった。
自分は蒼雲に助けられた。
「だからね、僕たちには大事な役目がある。リーダーを補佐するのが、参謀としての僕たちの仕事だ」
「入るぞ」
固い声がして、着物姿の男性が悠然と部屋に入ってきた。蒼雲の父、蒼龍だ。
「傷の具合はどうだ?」
布団の方を見下ろしながら、先ほどまで俊樹が座っていた座布団に無造作に腰を下ろす。
「……」
「人のことを心配するなんて意外だな」
裕樹の代わりに、父親が答えた。
「おい、俊樹。俺はそんなひどい人間じゃない。人の子供が怪我してたら心配するだろ、普通」
「自分の子供のことは心配しないくせにな」
裕樹が心の中に押しとどめている怒りを、俊樹が代弁してくれている。
「人の子供のことは分からんからな。まぁ、お前が自分の代わりに寄越すくらいだから大丈夫だとは思っていたが、あいつは心配していたようだ。結局は、何かを基準にしてしか人の能力は測れない。それなくして他人を判断できると思うのは傲慢だ」
「あの……蒼雲は」
「未熟なくせに責任感だけはある」
言ってから、それでは答えが充分ではないことに気がついて、蒼龍は小さく溜め息をつく。
「俺があいつに厳しくするのは、あいつの潜在能力を評価しているからだ。期待していなければ、厳しくなどしない。この程度でダメになるヤツなら、この世界でこの先使い物にならんからな。時間をかけるだけ無駄だ」
傍らに座っている茶虎の化け猫、虎風の頭を撫でる。
(あぁ、そうか。この人は、愛情表現が不器用なんだ)
と、裕樹は思う。
(蒼雲は、愛されてなかったわけじゃない。むしろ、愛されている。命懸けで)
「猫は気まぐれなんだ。自由を好み、主従の法則に従わない。だから、生半可な気持ちでは扱えない。命懸けの愛情を与えて、受け入れてもらって初めて使役できる。それが、俺たちの仕事だ。化け猫の力は強大で恐ろしい。本来は、人間も狩られる側の存在だ」
裕樹の脳裏に、10歳の時に見た樹海の夜の光景がまざまざと蘇ってくる。
蒼龍の手に頭を擦り付けるようにして、虎風が気持ち良さそうに喉を鳴らしている。
「だから、自信をなくせば猫は使役できない。仕事に失敗すると自信を失う。生きることを放棄したくなる。だから自由を奪う。自由を奪えば、また、自由を得ようとあがくだろう。あがけば強くなり、強くなれば自信が戻る。俺たちは、一生この繰り返しを続ける定めだ」
最後の言葉は、廊下の気配に対して言ったものかもしれない。
「入ります」
2秒置いてから襖が開く。蒼雲だ。
頬に絆創膏が貼られている。両手には白い包帯。疲れた顔をしているが目は蒼銀色の猫の眼をしていた。手に、封筒と木の箱を持っている。
「もはや八割くらい状況が違うが、こいつが、今あの街で何が起きているのか話す。一度始めた仕事だ。最後までお前ら2人で片付けろ。今夜だ。時間の猶予はないぞ」
蒼龍が立ち上がる。
「あぁ、その前に、飯を運ばせる。それ喰ってから作戦会議をしろ、いいな」
部屋の入り口に立っている蒼雲の頭を、大きな手でガシッと撫でて廊下に消える。
「じゃぁ、父さんも行くね」
俊樹も立ち上がって、蒼龍に続いて部屋を出ていく。入れ替わりで、雲風と風霧の2匹の猫が部屋に入ってきた。
静かに障子が閉められて、蒼雲と裕樹は、数時間ぶりに対面した。
*****
蒼雲と裕樹は、向かい合って黙々と朝食を食べていた。何となく、気まずい雰囲気。
「怪我、増えたみたいだね?」
裕樹は会話を切り出す。
「まぁな」
「大丈夫?」
「箸が持ちづらいな。後、正座も痛い」
「その程度?」
「その程度だ」
「そっか、それなら良かった」
「あぁ」
再びの沈黙。
「で、お前の方はどうなんだ?」
「俺も当分、正座は無理かな」
捻挫した足首が腫れている。内出血まで起こして黒くなっているのも確認した。
「腹筋運動も当面は自粛だね」
「今夜の仕事への影響は?」
たくあんをボリボリと噛み砕きながら、蒼雲は視線を上げる。
「固定しておけば平気だよ」
「上等だ」
2人は目を合わせ、吹き出すように小さく笑った。
知り合って5年。そういえば、こんな風に一緒に笑ったことはなかった。
「なんだかんだ言って、2人は気が合うんだね」
その様子を眺めていた風霧が、肉球の間に生えている長い毛を舌で舐め梳きながら言う。2本の尻尾が大きく左右に振られる。
「そんなんじゃねぇよ」
「そうだよ。仲良い。羨ましい。アタシも撫でて」
「『も』、ってなんだよ。風霧。俺はこいつを撫でたりしてないぞ」
「じゃぁ舐めて」
「舐めてもいねぇ」
羨ましいくらいに仲がいい。
「蒼雲が裕樹のこと好きなら、俺も裕樹のことが好きだぞ」
反対側の座布団の上で、同じように毛の長い白黒の化け猫が言う。
黒い模様が雲の模様のようなこの猫は、雲風という。
「こいつのことなんか好きじゃねぇ」
「好きじゃないなら、俺、食べちゃうかも」
雲風は、ゾクリとするような声で言って、真っ赤な長い舌でベロリと口の周りを舐める。
蒼い2つの眼が裕樹の眼を射る。
「好きじゃねぇけど喰うな」
「なんで?」
「なんででもだ」
「ほんとは好きなんでしょ?」
意地悪な声音。まるで人間のようだ。表情がクルクルと変わり、会話が弾む。
「煩い。もう黙れ」
「ふふーん」
ニヤッと笑って、白黒猫はヒゲをピクリピクリと動かす。
「好きなのに、好きじゃないって嘘つく」
「ツンデレって言うんだよ」
風霧がニヤニヤと笑っている。
「なんだよ、ツンデレって」
「普段はツンツンして強がったり意地悪したりしてるけど、ほんとは甘えたがりでデレデレしたいって思ってるんだって」
「へぇ」
「源五郎が言ってたもん。蒼雲はツンデレなんだって」
「うっせーぞ、お前ら」
「じゃぁ抱いて。抱いてくんなきゃ他の猫にも言っちゃう」
風霧が、すぐそばに座って蒼雲の顔を見上げる。得意げな表情で、髭をピクピク動かしている。
「はぁ」
蒼雲は、疲れた表情で大きくため息をついた。
「あー、もう、分かったから大人しくしろ。ちょっとだぞ」
「わ〜い」
風霧が嬉しそうに蒼雲の膝に乗り、彼の顔を見上げてゴロゴロと喉を鳴らす。
「あーずるい。俺も」
雲風が不満そうに口を尖らせる。
「同時には無理だろ。裕樹に抱いてもらえ」
「え? 俺?」
裕樹の了解を得ずに、雲風はもう、裕樹の膝の上に乗っていた。
「よし、裕樹。俺を撫でろ」
「偉そうだな、おい」
「猫は飼い主に似るんだよ」
勝手に膝の上に寝転がった雲風が、首だけを裕樹の方に仰向かせて笑う。
「15分だけだからな。それ終わったら、作戦会議するから」
蒼雲がぶっきらぼうに言う。
「わかったよ」
2人の膝の上で、2匹の猫がゴロゴロと喉を鳴らしていた。実に嬉しそうに。




