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蒼雲と裕樹

「大丈夫か?」

 蒼雲に声をかけられて、裕樹はようやく自分を取り戻した。

 太刀を握ったまま、袈裟がけに振り下ろしたその恰好のまま、地面に片膝をついて呆然としていたのだ。

 声をかけてきた蒼雲も、地べたに座り込んだままだ。

「あ、あぁ。やったのか?」

「いや、逃げられた。結界を2重に張っていたんだが、見事に破られた。くそっ」

 蒼雲は、珍しく悔しさを顔にまでにじませて、ギュッと拳を握った。その左こぶしの間から、血が溢れてきて手首に伝う。

「お前こそ大丈夫か!?」

「平気だ」

「待てよ、平気なわけないだろ? 掌、だいぶ血が出てる!」

「平気だ」

「見せろよ、おい。掌見せろって! それにそれ! その足、肩! 血が出てるだろ」

蒼雲の左の太ももと右肩に、折れた木の枝が突き刺さっている。着物のあちこちが深く切れて肌が覗いていた。頬からも血が出ている。

「急所は外した。問題ない」

言いながら、刺さっている枝を無造作に引き抜く。

端正な顔が、一瞬だけ歪む。

「問題ないって、お前」

「怪我には慣れている。それに、猫化している時にはあまり痛みを感じない」

「そういうものなのか?」

 白い着物に、ジワーッと血の染みが広がっていく。

 灰色の化け猫が傍らに寄り、肩に手をかけて立ち上がる。破れた着物の隙間から舌を差し入れてその傷をベロリと舐める。

 ベチャベチャ

 猫が血を舐める音が何となく卑猥だ。

「猫化を維持し続けておく方がよっぽど痛いからな。この程度の傷の痛み、大して感じない」

 肩口で卑猥な音を立てながら、そんなことを、さらりと言う。

「おい、それって、ただ痛みの強さに麻痺してるだけってことで……」

 灰色の猫が顔を上げる。顔をあげた猫は、白い口周りの毛を、蒼雲の血で艶やかに濡らしていた。

「それを言うなら、お前の方がひどい格好だぞ」

「え?」

 言われてはじめて、裕樹の体中に痛みが戻ってきた。

「いてっっ」

 左脇腹がドクドクと脈打つように痛む。触ると濡れている。血が出ているようだ。

「大丈夫か?」

「平気だ。かすり傷だよ」

 それはほんの少し強がりだった。出血多量で死ぬような深刻な状況ではないが、相当痛い。

 蒼雲が、呆れたように小さく笑って、

「そうか。ならいい」

 その強がりを受け流した。

「それにしても、まさか一撃で、あいつの大部分を切り崩してしまうとはな」

「え?」

 蒼雲の台詞が、自分の行動を称賛している言葉であることに気づくまでに3秒かかった。

 

「いや、だが、斬り逃したんだろ」

「それは仕方がない。あの速さで逃げられたら対応できない。次は外さない。ちゃんと呪印も撃ち込んだ。見つけたら、今度こそ、猫に喰わせて終わりだ」

「そうなのか?」

「それよりもお前、いとも簡単に蒼魔刀を鞘から引き抜いたな」

「は?」

「その方が驚きだ」

 袴の裾を破いて、それを血だらけの手のひらに巻きつけながら、蒼雲が改めて裕樹を見た。

 言われて初めて、手に持っている刀に視線を落とす。

「咄嗟に『抜け!』と叫んだが、それは凡人がそう簡単に抜ける太刀じゃない」

 乱雑に布が巻かれた蒼雲の手が、裕樹の目の前に差し出された。

「返せ」

 彼の左手には、裕樹が無我夢中で抜き放って放り投げた瑠璃色の鞘が握られている。裕樹は、片膝をついたままの姿勢で、刀の柄をギュッと握りしめていた。

「あ、あぁ……」

 無意識のうちにかなりの力を込めていたらしく、両手にはじっとりと汗をかいていた。

 蒼雲は、自身も片膝をついて裕樹の腕から抜き身の刀を受け取ると、その刀身を、ほんのわずかに差し込んでいる街灯の明かりにかざして見せた。

「これは、邪霊を切るための蒼魔刀。鞘には強力な結界が張ってあって、常人には絶対に抜けない」

 蒼雲の声は、ようやく穏やかさを取り戻していた。

「なんだよ、それ。無責任なヤツだな。なら最初から抜いておけよ」

「馬鹿か。そんなことしたら結界の意味がないじゃないか」

「そういう問題か? あの時本当に俺に抜けなかったら、どうするつもりだったんだよ」

 質問に答えずに、蒼雲はしばらく、光が当たる刀身を眺めた。

 しばらく沈黙した後、

「死んだだろうな」

いとも容易く言う。

「はぁ?」

「きっと死んでた。お前も、俺も」

「ひっどい話」

「この仕事は、そういうものだ」

「……」

(それは分かっている)

 と裕樹は思った。命懸けの仕事だと、祖父からも父からも、何度も聞かされた。

 だから、覚悟がないわけではない。

 でも、意外なほどに身近に、死は転がっていた。

 それにしては、蒼雲の声は落ち着いていた。人生を達観した仙人のようだ。

「まさかお前に使わせることになるなんて思ってなかったんだよ」

 いつものように2人は口げんかを始める。

「無責任過ぎるだろ。じゃぁ、もしかしたら、俺はあのまま、あの黒いヤツに喰われてたかもしれないってわけか? それってだいぶひどくないか?」

「無責任はどっちだ。俺は結界から出るなって言ったぞ」

「だってあの時あそこから出てなかったら、お前は今頃」

「煩い。俺一人で何とかできた」

「いや、無理だね」

「無理じゃない」

「そんなに怪我しておいてよく言うよ」

「これはそもそも、お前が、」

 蒼雲は、言いかけた言葉をそこで止めて飲み込んだ。猫が、結界の外の気配に気がついたからだ。

「風霧、伝令を頼む」

「いいの? ばれちゃうよ」

 心配するような猫の声。

「もうばれてるだろ。ここは神社の境内だぞ。隠せるわけない」

「ふぅん」

 憮然と返事をして灰色猫は宙に舞った。

「どっちみち、失敗したことに変わりはない。いいか、悪いのは俺だ。危ない目に合わせて悪かった」

 独りごとのように言って、蒼雲は太刀を鞘に収める。

「なんだよ、それ。それならそもそも、俺の最初の失敗が原因なんだから、悪いのは俺だろ」

 蒼雲がいきなり謝ったので、暖簾に腕押し状態になった裕樹も慌てて謝る。

「あの少女の霊を囮にした」

「囮?」

「力不足の上に、計画まで杜撰だな、俺は」

「え?」

 悔しそうに唇を噛んで、

「くそっ」

と小さく呻いた。

「だから、悪いのは俺だ」

 裕樹を無視して、蒼雲は中指と人差し指を立てた左手を口元に持っていき低く呪を呟く。地面に散っていた呪符の欠片が燃えて消える。

先ほどまで死闘が繰り広げられていた痕跡は跡形もなく消えてしまった。

「蒼雲?」

「行くぞ。雲風。捕縛隊が来た」

 離れたところに座っていた白黒の猫が、駆け寄ってきて軽やかに左の肩に乗る。

 にゃー

 すっかり普通の猫に戻っている。

 石段を、袴姿の数人の男性が上ってきていた。彼らが手に手に懐中電灯を持っているので、暗かった境内が明るくなる。

「蒼雲様。お迎えに上がりました」

 先頭で蒼雲に深々と頭を下げた初老の男は、蒼雲に常に付き従っている従者の一人、宗徳(むねのり)だ。

「捕縛の間違いだろ?」

 蒼雲が座ったままで悪態をつく。

「いえ。自発的にお戻りいただくのですから、お迎えです」

「ッチ」

 また舌打ちをする。

 結局、どこまで行っても籠の鳥だ。

「蒼龍様からお電話です」

 蒼龍という言葉に、ほんの一瞬、蒼雲の気配が緊張したのが分かった。

 大きく息を吐く。

 宗徳から差し出された携帯電話を、血で塗れている左手で受取る。

 慎重に声を出す。

「お電話代わりました」

『声が揺らいでいる』

 電話の向こうの蒼龍の声は、いつもと微塵も違わない。

「すみません」

『心の動揺を表に出すなと言ったはずだ』

「はい」

『今どこにいる』

「…Dブロックの、八幡神社の、境内です」

『それで?』

「……逃げられました」

『お前、自分が何をしているか分かっているだろうな』

「……はい」

『ならいい。すぐに戻って来い』

 それだけで電話は切れた。

 にゃーにゃにゃにゃー

 にゃにゃ

 肩に乗ったままだった雲風が、蒼雲に話しかけている。雲風は今この状態も化け猫には違いないが、尻尾が1本に戻っている時の会話は裕樹にはわからなかった。

「覚悟はしてる」

 にゃーにゃにゃにゃ

「煩い。放っとけ」

 投げやりな言葉を吐くことで、蒼雲は、自分の心を落ち着けようとしていた。

 蒼雲が発する断片的な言葉を繋ぎ合わせて会話の内容を類推しようとするが、高度な暗号のようだ。

 にゃにゃーにゃーにゃ

「だから、そうじゃない。別に、こいつのことなんてどうでも良い」

「なんだよ、俺のこと話してるの? なに?」

 話がまったく見えないので、裕樹が噛み付く。

「あぁ、もう、ほら見ろ、めんどくさいことになったじゃないか」

 猫に悪態をつく。

「蒼雲様。取り急ぎお屋敷に戻ってお怪我のご処置を」

「わかった」

 従者が、蒼雲の肩を抱き、立ち上がるのを手伝う。

「お、おい、蒼雲」

 彼の背中に呼びかける。

「裕樹様もこちらへ」

 宗徳が、今度は裕樹にも声をかける。

「だいぶお怪我をなさっているご様子でございます。取り急ぎ、傷のお手当を。お母様には私からご連絡をさせていただきますが、この後はとりあえず当家へと」

「あ、はい」

 猫風家の人達の手を借りて、裕樹も立ち上がった。ご丁寧に、服についた土まで叩いてくれる。

 捻った足首が痛む。

「車をご用意しています。ご自身でお歩きになれますか?」

 裕樹は頷いて、右肩を支えられながら、足を引きずって歩き始めた。

 蒼雲は早くも、石段を半分ほど下っている。

 石段のすぐ下に、黒塗りの車が何台か止まっていた。

 2人を乗せたステーションワゴンは、静まり返った住宅街を抜けて川沿いの道を北へと進んでいた。

「本当にいいのか?」

「なにが?」

「母親に電話しなくて」

 蒼雲が、隣の席に座る裕樹に声をかける。8人乗りの黒いワゴン車の後部座席だ。助手席に宗徳、真ん中の席に蒼雲と裕樹、後ろの席には2匹の化け猫が乗っている。

「だって、宗徳さんが連絡してくれたんでしょう?」

 もう深夜3時半だ。ランニングに出ると言ったまま、こんな時間になっている。心配しているはずだ。

「はい、裕樹様。先ほどお電話させていただきました」

 助手席の従者、宗徳が、端然と振り返る。

「このまま当家にいらしていただけるということでしたので、そのように。直接お話しなさりたいようでしたら、携帯電話をお貸しいたしますが」

「いや、いいです。……母は、何か言ってましたか?」

「はい。ご指示通り、お怪我のことは申し上げませんでしたが、ご心配なさっておられました。よろしくお願いいたしますとおっしゃっておられました。それから、裕樹様に、気を付けるようにお伝えするように、と」

「そうですか。ありがとうございます」

 少し身を乗り出して宗徳と会話をしていた裕樹は、再びゆったりとシートに体を委ねた。

 にゃーにゃにゃにゃー

「そんなんじゃねぇ」

 にゃにゃ

「だから違うって」

 後ろの席で飛び跳ねたりして遊んでいた猫が顔を出し、蒼雲と何やらしきりに会話をしている。

「煩い。放っとけ」

 猫達の会話にも乱暴な拒絶の言葉を吐いて、蒼雲は窓の方へ顔を向ける。

 にゃにゃーにゃにゃにゃ

「俺は、寂しがりやのそいつが、直接母親と話したいんじゃないかと気を使ってやっただけだ」

「は? 俺は別に、寂しがりやなんかじゃないし」

 蒼雲と猫との会話が自分に関する話だったので、裕樹は思わず反論した。

「あぁ、もう、めんどくさい」

 応急処置がされて白包帯が巻かれている左手で、グチャグチャと頭をかく。

「家に着くまで、俺は少し寝る。頼むから静かにしてくれ」

「なんだよ、それ。さっきのあの黒いヤツについて、説明してくれるんじゃないのか?」

 説明は後だと、走りながら蒼雲は言っていた。

「仕事の話なら、家に着いたら父上がなさるだろう。それより、睡眠不足の俺に気を使え」

 憮然とした態度で言いながら座席をリクライニングさせて、腕組みをして目を閉じてしまっていた。

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