学院の日常
嵐のような激しい雨も、地下空間ではまったくその気配すらない。
皇居東御苑、桔梗門を入ってすぐの建物の地下にある霊泉学院は、この国の呪術的な防御の要である天御柱の下部組織だ。一般の高校に相当する年代の若者を対象にした、教育の場として位置づけられている。今年も、56名が入学し、実力や特性によって9クラスに分けられ教育を受けている。
猫風蒼雲、御鏡裕樹、猫森梓乃、遠山雅哉の4人は、午前中の弓術の授業を終えて、更衣室から教室に戻るところだ。この授業は4人が揃って受ける珍しい実技授業だ。同じクラスとはいえ、すでに兵部への所属が決まっている蒼雲と裕樹は、一般科目の座学授業が免除されているし、実技の授業も、それぞれの専門に特化した別々のクラスで受けることが多いため、4人が教室で全く同じ授業を受けるのは珍しい。呪術の現場では、鳴弦や蟇目など、弓を使って行う儀式が比較的多い。そのため、体術同様、弓術も必須科目に指定されている。この時間の「弓術」は、いわゆる武道としての弓道とは違い、呪術に特化した技を学ぶ時間だ。
「はぁ。腹減った〜。なぁ、雲風、今日の昼飯なんだと思う?」
雅哉が、斜め前を歩く蒼雲の肩に乗っている化け猫、雲風に話しかける。
聞かれた化け猫は、クンクンクンと首を伸ばして空気を嗅ぐような仕草をしたあと、
「うーん、たぶん魚」
と、雅哉の方を振り返りながらペロッと舌を出す。
食堂のあるフロアは、蒼雲たちの教室がある階の2フロアも上だ。匂いがするとは思えないが、化け猫の嗅覚ではそれも感じられるのかもしれない。
「え? マジ? やっぱりわかるの? すっげー」
「テキトー」
雲風が「ふふふ」と笑いながら楽しそうに2本の尻尾を振る。通常、使役者以外と慣れ合うことを嫌う化け猫だが、蒼雲の使役する二匹、雲風と風霧は、その性格ゆえなのか生育環境ゆえなのか、蒼雲が心を許している友人を「仲間」と認定して懐いている。
「えー、なんだよ、それ。適当なの? 雲風も最近俺に意地悪じゃね?」
口を尖らせて不満げに嘆く雅哉は、年相応の高校生に見えた。ここにいると、というか呪術師の卵としての日々の中では、早く大人になることばかりを強要される。彼らに求められるものは、学生らしさや若者らしさとはかけ離れたものばかり。感情を抑制し、喜怒哀楽を表に出さず、霊力を内に籠らせ、呪術を扱う力を高める。最も感情が跳ねる時期に、それを押さえつける。だからこそ、仲間と過ごすほんのわずかなひとときに、時折こぼれ落ちる感情は新鮮に映る。
「お? 何か入ってるぜ?」
テンション高めのままの雅哉が、教室前のメールボックスにA4の封筒が入れられているのを目ざとく見つけた。学院の生徒たちは、呪術の特性によって戦闘系呪術を専門とするA組と、非戦闘系呪術を専門とするB組とに2組に分けられ、その中でさらに、実力ごとによって4〜5班に細分化されている。それぞれのクラスに担任と副担任が付き、授業の内容は担当教員が自由に設定できる。そのため、A−1クラスの裕樹たちのように、ほとんど教室に通学せずに外部での実戦実習を主体にするクラスもあるので、教務部からの連絡や授業資料など、配布物は、教室前に設置されているメールボックスを使ってやり取りされることも多い。
「中身はなんですか?」
授業に持参した教科書を棚に戻しながら、梓乃が雅哉を振り返る。
「第1回実戦演習のお知らせ、だとよ」
手近な椅子に腰を下ろした雅哉は、封筒に入っていた紙の束を机の上に引っ張り出しながら、一番上に書かれた文字を読み上げる。
「あぁ、来週の資料ね」
隣の席に座った裕樹が、その資料を覗き込む。
「来週?」
「月曜日に講堂で、模擬戦の説明会があるって言われただろう?」
「もう来月末ですよね? 模擬戦」
「6月29日〜30日。場所はいつもの東富士演習場西側森林地帯。雨天決行」
一番上の紙に記されている日付を、雅哉が読み上げる。
「めっちゃ雨の季節じゃねーか」
「えー。雨の中は嫌ですね」
梓乃が椅子を引き寄せて座り、彼の手元の資料を覗き込む。
「だから、『雨が降らないようにするところから演習です』だってさ」
机の上に、ドサっと置かれた紙の束。ホチキス留めされた資料がいくつもクリップで止められている。裕樹たちは、銘々にその紙の束に手を伸ばす。
「止雨の呪法を事前に試せ、って? また無茶言ってくるねー。蒼雲、お前できる?」
蒼雲も、無造作に椅子に腰掛ける。
「俺は無理だな。たぶん、大神ならできるはずだ」
「オオガミ?」
「大神紫水。水龍を召喚して水を操る呪術を使う。他の1年がどんな呪術を使うのか全員分知ってるわけじゃないから、他にもいるかもしれない」
「で、演習って何やるの?」
「通常なら、第1回目の模擬戦は9月に行われる1年生チーム対2・3年生混成チームの陣取り合戦ですよね?」
「今回のは1年生同士の対決みたいだね。修祓・退魔した数を競うらしいよ」
「クラス対抗?」
梓乃からの問いかけに、裕樹は手に取った資料を続けてめくっていく。
「Aクラス対Bクラス、Cクラス対Dクラスってことみたいね。1組、2組それぞれ別々に」
「1−Bはできるやつばかりだ。今話した大神もそうだし、他には、武内に三輪、星野……近距離から遠距離まで、人材もバランスいい」
蒼雲が、引っ張り出した名簿の上に指を滑らせる。クラス分けは、入学後の実力テストで成績上位だったものから順に並んでいると聞いている。必然的に、自分たちと一番実力が拮抗しているのが1−Bだ。
「でもちょっと待てよ。B組って、6人だよな? 4対6ってこと? 人数的に不利じゃねえの?」
「多ければいいというわけでもないだろ」
「そりゃそうだけど」
「蒼雲は何人か知り合いなんだね?」
「直接会ったことはないが、話は聞いてる。今後いろいろと共闘してもらうメンツだし、実戦で動いてみるのが実力を確かめるには一番いい。それに、たぶんBクラスのメンバーは、将来の兵部か刑部だ。今後の関係性も強い」
「そういえばさぁ。お前ら二人、もう兵部所属なんだよな? 天御柱所属ってどうやって決まるんだ? 試験とかあるの?」
「試験はない。上が判断して、唐突に通達される。ただ、学院に入ってからは、呪術の特性も含め、2回の模擬戦の成績で評価されると聞いている」
「そうなの? で、兵部にするか刑部にするって希望だせたりするの?」
雅哉からの問いかけに、(そういえば、希望を出したこともないし、通達を受けた認識すらないまま兵部に所属が決まっていたな)と裕樹は逡巡した。
「だってさぁ。兵部って言ったら最前線に出ていく仕事だろ。俺、中務は絶対向いてないから呪術師の方がいいけど、できれば刑部の方が良くない?」
「良くない?って言われても……。刑部は警察内で働く仕事ですし、それはそれでまた大変だと思いますよ?」
梓乃が、資料から顔を上げる。
「雅哉さん、規律に縛られるの人一倍嫌がるじゃないですか」
「まぁね。でも、兵部よりも死ぬ確率は低いだろ?」
大真面目な顔をして腕組みをした雅哉に、裕樹と梓乃は思わず顔を見合わせる。
「お前、初対面の日、なんて言ったか覚えてるか?」
「そうですよ、雅哉さん。『お前らのおかげで死にぞこなった〜』とかなんとか」
おどけた表情で梓乃が声真似をするので、言われている方の雅哉まで吹き出した。
「まぁ、そもそも、死ぬ確率云々でいったらあまり変わらないはずだぞ?」
蒼雲も珍しく表情を緩めながら苦笑いを浮かべている。
「刑部も祓いの現場に出ていくことは比較的多い。それに、1組に配属されると、基本的には兵部だ。さっきも言ったように、2回の模擬戦の成績で評価されて決められるから、基本的には俺たちに選択権はない。まぁ、雅哉の場合、刑部を希望すればきっと入れるとは思うが、もし刑部に入るなら間違いなく自衛隊の富嶽さんのとこだろうな」
「うわっ、マジ? ならいい。兵部目指すわ」
しかめっ面にペロッと舌まで出して、雅哉が小さく横に首を振る。
「そもそも1年で天御柱に任命されないと学院に残留で進級だから、そうなると強制的に、それ以降は刑部にしか入れない」
「そりゃやばいな。俺、死ぬ気でがんばるわー。なんとしても親父のとこだけは避けたい」
「そんなに嫌かよ」
あまりにも頑なな表情に、裕樹が呆れたように笑う。雅哉の父である富嶽が、ことさら雅哉に厳しくあたるのは度々垣間見てはいたが、その“程度”でいったら、蒼雲に対する蒼龍の態度の方がよっぽど厳しい。それでも、いつだったか「親父とは相性が悪い」と愚痴っていたから、親子の間でしかわからない何かがあるのだろう。
「本当、マジ大変なんだからな。まぁ、とりあえず昼飯にしようぜ。腹減った」
口を尖らせて不満を吐き出す雅哉を宥めながら、資料を封筒に戻し、四人は揃って教室を出た。




