忍び寄る不穏な影
一台の黒いセダンが、静かに速度を落としながら木々の間の道を抜けてきた。行く手の道路には規制線が張られ、赤色灯をつけた警察車両が数台止められている。雨合羽を着た警官が何名か、黄色いテープの外側で警備している。その全てが、激しい雨に打たれている。
「随分と広い結界だな」
セダンの後部座席に座っていた男が、窓の外を覗き込むようにしながら独り言のように口に出す。猫森柾一郎。猫使いの一族、猫森家の長男だ。彼の横で丸くなっていた猫が、その声で体を起こし、「猫のポーズ」で気持ちよさそうに体を伸ばす。
「見慣れない気配があるね」
ヒゲをピクピクと動かしてフロントガラスの向こうを凝視した猫が言う。柾一郎が使役する化け猫、森景は、焦げ茶色の体に黒い縞が入った、いわゆるキジトラ柄の長毛猫だ。並みの猫の倍はある大きな体は長く柔らかな被毛に覆われ、二本の尻尾は、超高級な羽ばたきのようだ。
「内側か?」
答えるように、森景の尻尾が大きく左右に振られる。柾一郎は、かけていた眼鏡を外して、猫の視線を追ってフロントガラスの向こうを見た。黄色いテープの内側に、垂直な壁のようなものが空に向かってそそり立っている。意識を集中して、その結界の向こうに視点を合わせる。
「情報統制のために、広めに結界を張ったと報告を受けています」
助手席でタブレットを操作していた柾一郎の部下が、軽く後方を振り返る。守矢丞。柾一郎の幼馴染でもあり、護衛の役目も果たす呪術師だ。猫使いの各家には、主家を補佐する役目を果たす呪術師の家が幾つか従属する。守矢家は、代々、猫森家に仕えてきた。柾一郎が警察庁に配属になったのに合わせて、丞も彼の部下として警備局に所属している。
「だろうな。敵も相当広範囲に幻術を使ったようだ」
森景が言ったように、張られた結界の内側には、SICSのものではない呪術の気配が感じられた。
規制線の外側には、地元警察のパトカーが何台も止まり、それに合わせて「報道」という腕章をつけた人間が何名か、カメラを抱えてウロウロしている。
「報道には、安否不明の拉致事件の可能性があるため、対象者の安全のためにも一切の報道を控えるように通達を出してあります。地元警察にも、何が起こっているのかの詳細は伝えていませんので、報道に情報が漏れることはありません。しかし、」
「潜り込まれると厄介だからな」
「はい。それも踏まえて、侵入阻害だけではなく、認識阻害のための結界も張ったと。ご確認なさいますか?」
「いや、いいよ。この結界なら安心だ」
人の群れを抜けて規制線の中に入った車は、美術館前のバスロータリーに静かに止まった。ロータリーには、すでにSICSの車両が何台か停められていた。ひときわ目を引くのは、猫塚がリーダーを務めるネットワークトレース専用機器を積み込んだ特殊車両だ。
「ったく、ひどい雨だな」
ドアを開けた柾一郎は、容赦無く打ち付ける雨に小さく愚痴った。
「申し訳ありません」
外から傘を差し出した警官がぺこりと頭をさげる。
「きみのせいではないだろう?」
「いえ。こんな雨の中にもかかわらず、わざわざご足労いただきまして、申し訳ありません」
実直そうな男は、そう言ってもう一度頭を下げる。
「群馬県警に派遣されております鷹庭です」
「聞いている。頼む」
「はい、こちらへ」
先ほど差し出された傘をさしながら、柾一郎は鷹庭の後に続いて美術館のロビーに入った。鷹庭は、SICSから各県警に派遣されている呪術師の一人だ。
美術館ロビーには、臨時の捜査指揮所が設けられていた。テーブルを囲んで資料を覗き込んでいた数人が、柾一郎の気配に気がついて顔を上げ、慌てて立ち上がって席を譲る。
「状況は?」
「はい。既に、捜査権限はこちらに移っていますが、被害者の数が多すぎて、情報操作が間に合っていない状況です」
「承知している。その件は、群馬県警に向かっている弥生班長が対応する。関係者を全員集めて、記憶を少しいじらせてもらう。この場の痕跡はどうだ?」
「バスの中のドライブレコーダーは途中で映像が途絶えており、それどころか、バスの中に残っているはずの乗客の気配も巧妙に消されています。荷物は残されていて、乗っていたことは確かなのに、です」
「レコーダーの映像の方は、猫塚さんに任せておけば大丈夫だ。ここで一度状況を整理してくれ。被害者の情報は?」
鷹庭が、机の上に散らばる資料の中から、人名がずらりと並んだリストを抜き出して柾一郎に差し出す。
「通報があったのは今朝、深夜3時です」
「随分と遅い時間だな」
柾一郎は、渡されたリストをめくりながら疑問を口にする。
「もともと深夜の最終便で、終点であるここには0時半に到着。そこから15分くらいかけて車庫に戻る決まりになっていたところ、1時過ぎても戻らないので、残っていた社員が総出で探したようです。位置情報システムは、まだ取り付けていなかったようです」
「で、ここに止められているバスを発見したものの、運転席はもぬけの殻。運転手とも連絡がつかない、と」
「それだけではなく、乗客の荷物も残されたままってことだな?」
「バスの発着地点である駅前、路線沿いにあるコンビニ等の防犯カメラは全て確認しています。バスは乗客を乗せたまま、確かに定時にここに到着したと推察されます」
「歯切れが悪いな?」
「はい。それが、肝心の美術館前のカメラも、ちょうどその時間の映像が撮影されていないんです。警備員もその時間のことはよく覚えていないと……」
「眠らされていたか」
柾一郎の脳裏に、最近起こった一連の事件の記憶がふっと浮かんだ。悪霊が絡む事案で、対象者が眠らされること自体は珍しいことではない。しかし、勤務中の警備員が二人同時に眠らされることは極めて稀だし、機械である監視カメラが無効化されることなど、通常の霊の仕業とは到底思えない。
「おそらく……」
柾一郎の纏う気配が険しくなったので、目の前で報告していた鷹庭の声も緊張した。
「残されていた持ち物から判断すると、行方不明者は、乗客25名と運転手1名。それと、うち2人の家族からは奇妙な証言も得ています」
「奇妙な証言?」
「はい。その二人は、夫から連絡があり、この場所まで迎えに来たという二人です。二人は、確かにここでバスの到着を見て、夫を乗せて家に帰った、っていうんですよ。しかし朝になってみたら夫がいない、と」
「記憶の改ざん、か…」
「被害者と思われる乗客の身元は全て判明しており、ただいま、昨夜の、バスに乗るまでの足取りを収集中です」
「わかった」
「猫森さん」
背後から声がかかった。
「いらして下さいと、リーダーが」
ガタイのいい角刈りヘアの男性が、そういいながら視線を窓の方に移す。視線の先を追うと、先ほどの特殊車両のドアから、同僚の猫塚燿次郎が顔を覗かせ手招きをしていた。
「何か出ましたか?」
車両の中は、複数のモニターや解析用の機器がぎっちりと詰め込まれた特殊な空間だ。
「バス車内ドライブレコーダーの消されていた映像だよ」
柾一郎が斜め後ろの座席に座るとすぐに、耀次郎はカチカチとキーボードを叩き、モニターに映像を映し出した。
「復元できたんですか。さすがですね」
「呪術による改竄だよ。しかも、隠し方が巧妙だ。塚姫を二度潜らせて、ようやく尻尾を捕まえたよ」
モニターの横に座っている茶トラの長毛猫が、得意げにヒゲをピクピクと動かす。
画面には、途中からブラックアウトしてしまうバスのドライブレコーダーの記録した映像が映し出されている。
「バスが止まってドアが開いた瞬間に、バス全体に対して複数の呪術がかけられている」
「この複数の霊体も術の影響?」
柾一郎が、モニターの映像を指差す。画面には、霊能力者にしか見ることができないであろう、霊体の姿が写り込んでいる。人の形をしたそれらの霊体は、皆一様に顔を伏せ、黒く冷たい無機質な色をしていた。何者かに使役をされている霊の特徴だ。
「いや、これは術とは関係ない。術は霊体が乗り込む前にかけられていて、おそらくその術によって、乗客は眠らされ、運転手は思考を奪われている。そして、ドライブレコーダーの動作も、その呪術にコントロールされている。で、映像はここで止まっていて、この後の録画はされていないことになっている」
「でも実際には撮影は続いていたと?」
「そう。ドアが開いた瞬間に、霊が複数体乗り込んできただろう? それらがまずカバーとなって、映像を遮蔽している。まずそのマスキングを外して、その後、最初にかけられていた呪術を解呪する」
「できたんですね?」
「それがね、完璧にはできなくてね。最初に発動している呪術が何なのか正確には判明しないんだよ。とても古い、見たことがないタイプの呪法だ。なんとか似たような呪法を複数試してみて、ようやくね。映像が不鮮明なのは、完璧に解呪されていないからなんだけど……そうだね。まずは見てもらったほうが早いね。塚姫」
耀次郎がトラックボールをグリグリと動かしながら、猫の名を呼ぶ。
塚姫の肉球がトラックパッドに触れる。全身の毛がブワッと逆立ち、ほのかに発光を始めた。それを合図にしたかのように、耀次郎の眼が猫の眼に変わる。
カチカチ
左でトラックボールをグリグリと動かしながら、右手がキーボードを叩く。モニター画面にはもう一度、先ほどのバス車内のモノクロの映像が映し出される。バスが止まってドアが開くと、すぐに、複数の霊体が乗り込んできた。映像がもう一段、まるで薄いベールに覆われたかのように曖昧になる。
カチカチカチ
再びコマンドを入力すると、その映像が少しだけ鮮明になった。
「この二人は!?」
先ほど映像が途切れてしまっていたその先だ。目深に帽子をかぶった二人の人物の姿が映し出される。男の方は、黒いパンツに黒いパーカーのようなものを着て、つば広のキャップを目深にかぶっている。男より20センチほど身長が低い連れは、同じように黒いパンツを履いた姿だが、おそらく女だろう。こちらも目深に帽子をかぶっている。
一瞬だけ、その表情がカメラに映った。動画は一旦そこで静止する。解像度が低い上に、帽子の影になってほとんど判別できない。
「人物認証にもかけたよ」
再び、耀次郎の指がキーボードを叩く。
「これは……」
画面が、より鮮明になり、男女の顔を識別認証した画面で止まった。
「そう。戸賀昇と花田萌だよ」
戸賀昇と花田萌って誰?と思われた方は、
肆の巻 「神楽坂家の混乱」
をご参照ください。




