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朝の風景

 濡れ縁の向こうには、手入れの行き届いた庭が広がっている。色を深めた木々の緑は、糸引く雨に打たれてより一層の艶やかさを増している。

裕樹(ひろき)寝てないの?」

 突然声をかけられて、御鏡(みかがみ)裕樹は、庭に向けていた視線を膝の上に戻した。

 膝の上で、灰色の長毛猫が、顔を上げて裕樹を見ていた。月夜の空の色のようなその猫は、あぐらをかいた裕樹の膝の間にすっぽりとはまり込んだ姿勢のまま、顔だけを斜めに上に向けていた。根元から分かれた二本の尻尾が、その猫が並みの猫ではないことを示している。長いヒゲが、ピクピクと動く。風霧(かぜきり)というのが、この猫の名前だ。一見すると、ただの大型長毛猫にしか見えないが、人語を話し幻術などの術を使う化け猫だ。猫使いである蒼雲(そううん)が使役する使い魔の一種だ。

「いや、そんなことないよ? どうして?」

「疲れた顔してる」

 指摘されて初めて、裕樹は、ここ数日ぐっすり眠れていないのを思い出した。

 数日?

 正確には、鳥取での任務から帰ってきてからずっと、だ。もう4日も経っている。その間に、普通に学校にも通っていて、日々の修練にも問題なく参加できていた。眠れないことに不快感がなかったのは、神経の高ぶりが収まっていなかったからなのかもしれない。

「そう思うなら、風霧、お前はこっちへ来い」

 そう呼びかけたのは、風霧の使役者である猫使いの猫風(ねこかぜ)蒼雲。この家の主人の息子だ。

 斜め向かいで、同じように白黒の長毛猫を膝に乗せていた蒼雲が、手を止めてこちらに視線を送っている。こちらの猫は雲風(くもかぜ)。白い全身に黒い雲のような模様が浮かぶ長毛猫だ。

「やだ。裕樹に舐めてもらうの、気持ちいいもん」

「あ、うん」

 裕樹は、思い出したように、止まっていた手を再び動かす。通常、猫使いの使役する化け猫は、契約を結んでいる主人にしか不用意に体を触らせない。しかし、蒼雲の使役する風霧と雲風という二匹の化け猫たちは、なぜかその不文律を無視して、裕樹に随分と懐いている。今日もこうして、コームを使ったグルーミングを、裕樹の手に委ねている。猫たちは、この行為を「舐める」と表現する。蒼雲が雲風を膝の上に乗せてコーミングし始めてから、風霧が同じことを裕樹にねだったのだ。

「そう? 気持ちいい? 俺、猫のコーミングとかしたことないから、わかんないんだけど。それに、そもそも、化け猫もコーミングするんだね」

「本当は必要ない」

 蒼雲の答えは素っ気ない。

「え? そうなの?」

「こいつらは、自分でなんでもできるから、毛玉ができたりしない。でも、なでられると気持ちがいいとかで、並みの猫のようにこうしてコーミングを要求してくる」

「何それー。オレたちがわがままみたいな言い方〜」

「本当のことだろ?」

 口を尖らせて文句を言う雲風の首元を、蒼雲の手がわしゃわしゃと乱雑に撫でる。白い体に描かれた雲のような黒い柄が、蒼雲の指先で不規則に乱される。文句を言いながらも、気持ちよさそうに喉を鳴らす姿に「猫なんだな」と実感する。

 二人と二匹がいるのは、裕樹たちの部屋がある離れの、いわゆるリビングにあたる共有スペースだ。中央に囲炉裏が切られ、板敷きに円座(わろうだ)が置かれた古民家風の作りだ。5月も来週で終わりという時期でもあり、すでに囲炉裏に火は入っていないが、寒い時期にはここに火を入れ暖をとることができる。

「この前の仕事、大変だった?」

 気持ちよさそうにコームで体を撫でられながら、風霧が無造作に裕樹に問う。任務の詳細を他者に話すことは禁じられていないし、実際、鳥取から帰ってすぐに、その概要はここで蒼雲たち三人に話している。雲風も風霧もその場にいたから聞いているはずだ。

「そんなことはないってこの前も、」

 ……続けるはずの言葉がそこで止まった。

 しばしの沈黙。

 風霧のサファイアのような青い瞳が、心の奥まで見通すように、まっすぐに裕樹の眼を見上げている。

 鳥取での仕事は、裕樹の初めての単独任務だった。一応、初めての単独任務ということで、何かあった時に備え、蒼雲の父である蒼龍(そうりゅう)が同行してくれたが、終始一貫して見物を決め込んでいた。そしてその任務は、裕樹が初めて、自分の手で「人間」を手にかけた任務でもある。天御柱(あまのみはしら)に所属が認められた呪術師には、人を誅する権限が与えられている。呪術師が扱う任務は、死霊や生霊の祓いや除霊、悪鬼羅刹の退魔が主な仕事だが、その中には、悪霊や鬼を呪詛で操り災いをなす呪術師と、直接相対しなければならないような案件も多い。呪術師ならば少なからず直面するとはいえ、つい数ヶ月前まで中学生だった裕樹には、刺激が強すぎるものではあった。

「正直言うとさ」

 その言葉は、風霧に向けられているようで、そうではなかった。俯いたまま言葉をつなぐ。

「精神的に結構きつかったんだよね。こんな仕事だから、いつかは人を誅することもあるってことは、頭では理解していたんだけど。唐突にその場がやってくると、不安になるよね。自分の判断で人の命を奪うんだからさ。責任重大っていうか、そもそもそんな責任、俺に負えるのかって思って……」

 無意識に、最後の方が消え入りそうな弱々しい声になった。やはりまだ、あの事件の結末をちゃんと消化しきれていないのかもしれない。

「でも覚悟を決めたんだろう?」

 顔を上げると、蒼雲の青い瞳がこちらを見ていた。風霧と同じ、猫の眼をしていた。

「あまり心を入れすぎるな。俺たちはこれからも、きっと何人もの命を奪わなければならない。現場で下した判断は、最善だったと思うしかない。俺たちが後悔すれば、誅殺された魂が惑う」

 蒼雲の纏う気配は、今日もまた、凪いだ水面のように穏やかだった。呪術師の中でも破格の実力を誇る猫使い。その猫使い各家を束ねる頂点にいるのが、蒼雲が生まれ育った猫風家だ。先祖代々、呪術師としてその一生を捧げることを定めとしてきた家に生まれた彼には、おそらく、後悔などしている余裕などないのだ。

「俺は……」

 蒼雲が一旦視線を逸らして言い淀む。

「俺は、お前みたいに気遣いは得意じゃないが、話くらいは聞いてやる。一人で悩むくらいなら、俺に話せ」

 その気配が一瞬だけ揺らいで、蒼雲が照れているのがわかった。

「蒼雲も人間らしくなったよね」

 雲風が、感慨深そうな声で主人の顔を見上げる。

「うるせぇ」

 その一瞬の間に、蒼雲の気配はすでに、元のような凪いだ水面に戻っていた。

「来たね」

 何か言葉を返そうとした裕樹の言葉を、膝の上の猫が遮った。「ふふふーん」と尻尾の先を小さく揺らして、こちらを見上げて鼻を鳴らしている。

「わりぃわりぃ」

「お待たせしました」

 制服姿の雅哉(まさや)梓乃(しの)が部屋に入ってきた。

「時間ぴったりだよ、問題ない」

「終わったのー? 宿題」

 裕樹の膝の上の風霧が、寝転んだまま、首だけを入り口の方に向ける。

「終わった終わった。まったくなんで宿題なんてあるんだよ? 聞いてないぜ。そもそも術師になるんだから、勉強なんて必要ないだろ? これじゃぁ、中学ん時に高校レベルの知識詰め込まれたの意味ないじゃん」

「やってるなら、今回の宿題だって簡単にできるはずだと思うのですが」

 宿題の手伝いをさせられていた梓乃が、呆れたような口調でため息をつく。

「どうせ適当にやってたんでしょー。ねー。テキトーテキトー」

「あーもう、否定できないのが辛い」

 ガシガシと乱雑に頭を掻きながら、雅哉が苦笑いを浮かべる。

「でも、なんで俺たちだけ宿題出されてんだよ。同じクラスなのに。それに、普通だったら任務で授業受けられなかったお前らの方が宿題出される側じゃねーの? それともなに? もしかしてお前ら、英語の授業ない?」

 4人は同じクラスで、呪術関係の授業は4人だけで受けることが多い。しかし先週のように、蒼雲と裕樹が任務で学院を休んでいる間は、雅哉と梓乃は他のクラスと合同で授業を受けることも多い。

「それは、お前らがまだ所属が決まってないからだ」

「所属? 兵部(ひょうぶ)とか刑部(ぎょうぶ)とか?」

「そうなの?」

 蒼雲の言葉に、当事者のはずの裕樹も驚いたような声をあげた。

「なんだよ。それじゃぁ、お前らはもう兵部への所属が決まっているから、一般科目の座学は無しってこと?」

「そうだ」

「なんでよ?」

「お前がさっき言っただろう? 術師になるのに、高校の勉強なんて必要ないって」

「じゃぁ、俺らは?」

「知ってると思うが、1年の間に術師としての才能がないと判断されれば退学させられる。そうなると、普通高校に編入になる」

「高尾の?」

「そう、あそこだ。そこで成績が良ければ、専修学校に進めて、中務(なかつかさ)に入れる。そもそもここに来るような人間は、一般社会で普通の仕事をするなんて無理だからな。中務に入って、天御柱の仕事に従事するほうがいいだろう。だから、所属が決まる前は最低限の一般科目の座学が必須になってる」

「へぇ、そうなんだ、さすが蒼雲。よく知ってるな」

「学則に書いてあるぞ」

「まじ?」

「そんなことより、そろそろ時間だ、行くぞ」

 時計の針が、八時を指している。学院に登校する時間だ。

 慌てて裕樹も立ち上がり、すでに歩き出した蒼雲の背中を追いかけた。

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