結界の中の攻防
「艶樹!」
走りながら、裕樹が叫ぶ。
視界の隅を、何かが背後に飛び、真っ赤な血しぶきのようなものが空間に散る。
「椿の精だよ。あれで時間稼ぎをする」
追いかけてきた黒いモノの前に、赤い着物の人の影がいくつか立ち上がる。黒いモノは、それを端から飲み込んでいる。
「だが、あまり長くは保たないよ」
「あぁ」
「蒼雲、これ、目的を持って走っているか?」
「当たり前だ。もしもの時のために準備はしてある」
蒼雲は、今夜の仕事を1人で片付けるつもりだった。不用意に人が入らないように結界を張り、もしもの時の誘導ルートを決め、罠まで張ってある。
裕樹は、走りながら背後の様子をチラリと伺った。黒いモノからは、500メートル以上は距離が開いている。だがそれも、一瞬で詰められるだろう。
艶樹で足止めできるのは、長くて3分。短ければ……。
「来るぞ」
背後を向いて座っている風霧が舌なめずりをする。すべてのヒゲが、ピンと正面を向いていた。
「惑わせろ!」
蒼雲が着物の懐から呪符を掴んで風霧の口に咥えさせる。
フゥゥゥゥゥゥ~~
低いうめき声とともに、化け猫の口から白い煙のようなものが吐き出される。
化け猫が使う幻術の一種だ。
「見えた! あそこに行くぞ、裕樹!」
路地の先に、こんもりとした林が見えてきた。
その小さな神社の境内に、2人は走り込んだ。
ザァ〜ッ
神社の境内に入るなり、蒼雲は、腰に佩いていた太刀を外して、その鞘の石突で、ご神木のクスノキの周りにグルリと円を描いた。
「お前はここに入ってろ」
「え?」
「早くしろ」
強引に裕樹をその狭い円の中に押し込める。
「おい、何を準備している?」
「説明は後だ。死にたくなければ言う通りにしろ」
「?」
拒絶を許さないほどの強い気がそこに込められていた。
「境内にあいつを捕えるための結界を張っている。鳥居の間に1か所だけ、結界が薄いところがある。ヤツがそこから入ってきたら、逃げられないように、そのクスノキに結界を張らせろ」
「あ、あぁ、分かった」
蒼雲が何を準備しているのかわからなかったが、裕樹はすぐに自分の仕事を始めた。境内のご神木であるクスノキに呪をかけて、その精霊を呼び出す。
「来るぞ」
黒い空気の塊が路地の向こうから押し寄せてきて、ブワッと音を立てて鳥居にぶつかった。
ギシギシギシ
鳥居にぶつかった空気の塊は、見えない壁に遮られるようにしてその場に留まっていた。暗い夜の闇の中で何故見えるのか分からなかったが、夜の闇よりも更に深い黒い物が、徐々に集まって凝り固まって、その質量を増していた。空間が歪む。
「来るぞ!!」
蒼雲がそう叫んだ瞬間、
バン!!!!!
ものすごい音がはじけて、空気の塊が鳥居を抜けて来た。
パンッ!
パンッ!
軽い音を立てて、境内に立っていた2本の街灯の電球がはじけ飛ぶ。
暗闇が場を支配する。
暗闇でも昼間と変わらないように目が見える猫使いとは違って、裕樹には、ほんの数メートル先にある手水屋の形すら定かではない。外からの光が屋根に当たっているので、辛うじて本殿の位置が分かるくらいだ。
裕樹はすでに、クスノキに命じて結界に空いた穴を塞いでいる。
境内の木々が悲鳴を上げるように激しく枝葉を揺らしている。裕樹の隣に立つクスノキの古木も、グワングワンと枝を揺らし、めまいを起こさせるような葉音を立てている。蒼雲がここに張っている結界は相当堅牢なもののようで、これだけの大音量で悪霊が呻いて空気が蠢いている状況でも鳥居のすぐ隣の木の枝はピクリとも揺れていない。結界の内と外は、別の時間が流れる世界だった。
「あれは!?」
裕樹は声を漏らした。
結界の中に閉じ込められたことを知った黒い影は、集まってははじけ、凝り固まって再び散るような動きを繰り返している。まるで、生き物のようだ。
その周囲に、轟々と風が巻いている。
虎ほどの大きさに変化した風霧と雲風が、蒼雲の左右に控えている。フサフサの毛が、体から湧き上ってくるユラユラとした白い光のようなものに吹き上げられて大きく逆立っている。雲風も風霧も、2本に分かれた大きな尻尾をゆっくりゆっくりと左右に振っている。
「縛縄!」
蒼雲が印を結ぶ。
白い水干を着た5つの透明な人影が、黒い影を取り囲むように出現する。仕込んでいたという捕縛のための結界だ。
蒼雲は、懐に右手を差し入れて細長い紙片を取り出し前に放った。
裕樹には、その紙片の軌跡が見えなかった。瞬きをしている間に、彼と5人との間に、金色の鎖が張られていた。3角形が2つ重なった形に張られた金の鎖。ギリギリと、鎖は黒い影を締め付けていく。
締め付けられて行くにつれて、黒い影はさらに密度を増して具体的な形をとっていく。暗い中なのに裕樹にも見えた。
鬼だ。
3メートルはある黒い瘴気の塊だ。裕樹のところからはその顔は見えなかったが、圧倒的な厚みのある大きな背中に太い腕や足。それらを地面に引き倒すように、キリキリと鎖が締め付けていく。
「お〜の〜れ〜〜」
ビクン!
と裕樹の体が震えた。
黒い影は、低く重苦しく、冷たくて暗い声を発した。脳髄を直接舐められるようなゾクッとする鬼の声だ。魂を掴み出されるような感覚が、裕樹の体を襲った。普通の人間なら、この時点で金縛りになり、意識すら、下手したら命すら失っているだろう。
心臓が締め付けられる。裕樹は立っていることができず、思わずその場に膝をついた。
「お〜の〜れ〜〜!」
先ほどよりも一層おぞましい声音で、絞り出すように鬼はうめいた。ビリビリと空気が振動する。手足を伸ばして逃れようとあがく。
鎖から逃れて行こうとするそれを、蒼雲は差しだした右手の中指と人差し指を素早く動かし宙を切ることで滅する。
そ れでも、塊だった黒いモノの一部は、千切れていく。千切れて結界から抜け出そうとする。
上半身を落としてそれらを狙っていた風霧と雲風が、飛び掛かって爪で切り裂く。鋭い牙で噛み付き、片っ端から咥えて食べている。
その時だ。
結界の中央から予想外の音が聞こえた。
どこまでも暗く深く悲しい黒に凝り固まったモノの足下から聞こえる。
すすり泣きの声だ。
「待て。すぐに解放してやる」
予期していたかのように、蒼雲は冴えた声で右手を払った。
裕樹は、声の聞こえる辺りの暗闇に目を凝らした。吸い込まれるほどに深い深い闇の向こうで、チラチラと動くモノがある。意識を集中させてその物に視線を凝らせる。
「さっきの女の子!?」
黒い塊の隙間からチラチラと見えていたのは、線路に走り込んでいったあの女の子の赤いワンピースの裾だ。
「ダメ、やめて……」
小さな声が聞こえた。その女の子の声だ。黒い影のおぞましい呻き声の中にあるのに、妙にはっきりと聞こえる。女の子の声もとても苦しそうだ。
「待て! 何をする! 邪魔をするな」
蒼雲が叫ぶ声がする。その声は、彼にしては珍しく切羽詰まっているように聞こえた。
引き締めていた金の鎖が、緩み始めている。
「ママを……虐めないで!」
少女がすっかりと形を取り戻し、黒い巨大なモノの足にしがみつくように立っている。
「馬鹿! こいつはママなんかじゃない! こいつがママを殺したんだぞ!」
ビリビリと、空気を振るわす音が大きくなっている。弱りかけていた黒い鬼の目が再び強く赤く光り、鬼は徐々に力を取り戻していく。
「よせ! やめるんだ!」
周りの空気が影の方へと渦を巻いて集まっている。蒼雲の声さえもその渦に吸い込まれていく。2つの力が、その均衡を巡って必死に争っていた。必死に鎖の端を握るおぼろげな人影が、渦に吸い込まれそうに揺らいでいた。
「ママを、虐めないでよ!」
顔を上げた女の子の瞳が、爛々と赤い光を放った。
ボワッッ!!!
まるでガス爆発でも起きたかのように、中に入り込んでいた空気が、一気に外へとはじけ飛んだ。水干姿の男達の姿は、シャボン玉がはじけるかのように一瞬でかき消えている。
「っ!!!」
蒼雲も、10メートルは後ろにはじき飛ばされていた。
「蒼雲!!」
裕樹は、咄嗟に彼の名前を叫んでいた。
黒い矢のようなものが無数に、倒れている蒼雲めがけて降り注ぐ。
「うわっ! ぐっ! くそっ!!!」
そのうちの何本かが、彼の足や腕に突き刺さるのが見える。
「っ……ダメだ、そこから出るな!」
蒼雲が上体を起こして裕樹に叫んだが、彼はすでに、その円から足を踏み出してしまっていた。
「こら、バケモノ! こっちだ!」
裕樹が大きな声で黒い影に向かって叫ぶ。
鬼のターゲットが変わった。
黒い風が大きく渦巻き、竜巻のように大きく宙へと立ち上っていく。
走る。全速力で。
蒼雲が倒れている場所からなるべく遠くへ。
本殿脇の灯篭の影へ。
しかし間に合わない。
その竜巻が唸り声をあげて、真っ直ぐに裕樹を目指していた。それをもろに背中から喰らって、裕樹は吹っ飛ばされた。左の脇腹が焼けるように痛い。咄嗟に腕を前に出して受け身を取るが、堅い土の上に落ちた衝撃で脳がグラッと揺れた。そしてそのまま土の上を転がる。変な体勢で地面を蹴ったのか、足首も痛い。口の中は血の味がした。
(これ、まずいんじゃないか)
目の前に圧倒的な何かが近づいている。
悪霊。
鬼。
(死ぬのか?)
ポケットに手を入れると、裕樹が念のために持ってきた呪符が数枚残っていた。
(これでなんとか、時間稼ぎくらいにはなるか!?)
引っ張り出して斜め前に投げると、鬼の瘴気が一瞬そちらに動く。
「頼む、樟老!」
その隙に、クスノキの精霊で鬼の周りに結界を張る。
「やったか!」
鬼の動きが止まった。
ぐわんぐわんと渦を巻く黒い瘴気は、完全にその結界の中に封じ込められた。……ように見えた。
次の瞬間。
空気の圧力に、また後ろに吹き飛ばされた。
樟脳の匂いが境内に霧散する。
(ダメか……)
反射的に目を閉じてしまった裕樹は、頬にあたるくすぐったい感覚を感じてすぐに目を開けた。
「蒼雲!」
裕樹の前に立ちはだかった蒼雲の着物の袖裾が、風圧にはためいて裕樹の顔を掠める。
彼は、突きだした両腕の手の平で、その黒い風を受け止めていた。そのまま、その黒くて太い鬼の手を握る。
ボタボタボタ
と。音を立てて血が、石畳の上に染みを作っていく。
「蒼雲!」
「太刀を抜け! 刀を抜いてヤツを叩き切れ!」
背後の裕樹に乱暴に叫んだ。
裕樹は、自分の少し後ろに転がっている刀の姿を見た。先ほどまで蒼雲が握っていた刀だ。
「早く! はやくしろ!」
怒鳴るような彼の叫びに、裕樹は足下の刀をつかみ取ると、一気に引き抜いてそのまま、大きく上段から袈裟懸けに振り下ろした。
ギィャァァァァァァ〜〜
黒い鬼は、断末魔の叫びをあげた。ガンガンと絶え間なく大音響で響いていたその雄叫びが消えた時、辺りは一気に、怖いほどの静寂に包まれた。
(差し込み先を間違えました)
長かったので前章を二つに分けた後半部分です。




