風の一族の少年
「逃げた?」
猫風蒼龍は部下からの報告にほんの少し眉を寄せた。
「すみません。寝室の呪符が破られていました」
部屋の入り口すぐの畳の上に正座をした部下は、明らかに武道家だとわかるほどにいい体つきをしていた。この体型だと、柔道家か空手家か。白い着物に紺色の袴。肉厚な胸板が、着物の合わせ目からほんの少し覗いている。
「見張りは?」
「それが、全員……」
体格では明らかに劣って見える正面の男の声音に、その立派な体躯を縮めて言い淀んだ。
「申し訳ありません。部屋の入口に2人、回廊の間に3人、食堂脇にも数名控えさせておいたのですが」
視線を落とす。最後の方の声は消え入りそうだ。
代わりに、男の背後の廊下に立っている初老の男性が説明を続ける。
「呪具庫のカラクリを逆に使って、地上へとお抜けになられたようです。空也達16名を二手に分けて、お探しに向かっております。」
「風霧と雲風は?」
「風霧様も雲風様も、ちょうどお食事のお時間でお部屋を留守にしておられまして…。今は、ご一緒にご捜索に出られています。坊っちゃまですが、だいぶお怪我もなさっておいででしたし、とてもお疲れのようにお見受けいたしましたし、ご夕食のお時間をお伝えに伺いましたところ、ぐっすりとおやすみのご様子でしたもので……」
頭を下げる。
「確認したのか?」
「え? と申されますと?」
今度は、初老の男性の体が緊張した。
「その段階で、眠っているのを確認したのかと聞いている」
「い、いえ……それは……お部屋の入り口から……」
「ったく」
蒼龍が、腕組みをしたまま険しい顔で舌打ちをした。
「まぁ良い。おぬしらのせいではない。俺の追い込みが甘かった。少し休ませてやろうと思ったのが間違いだった。宗徳、捜索隊は引き上げさせろ」
そう言いながら、ゆるりと立ち上がった。
「ですが」
「容易に、この樹海を抜けられはしない」
濃い紺青色の着物に濡羽色の袴姿。ただ立ち上がっただけなのに、目の前に座る部下がビクリと反応した。ものすごい威圧感だ。思わず、片膝立ちになって入り口前から脇に退く。
「あいつは、猫に狩らせる」
「え?」
部下の2人が同時に声を上げた。その声が動揺している。
「しかしながら、あのお体では」
武道家風情の部下が、思わず腰を浮かせている。
「食事も摂らず逃げ出すだけの気力も体力もある。心配には及ばぬ。ちょうどいい実戦訓練になる」
蒼龍は冷たい声音でそう言って、部屋の隅に視線を送った。
「龍風、虎風」
声をかける。
部屋の隅に赤い大きな座布団が二枚敷かれていて、その上にそれぞれ一匹ずつ、大きな猫が丸くなっていた。
「行くぞ」
蒼龍の声に反応し、起き上がって大きく伸びをする。
「仕事?」
左の猫が喋った。銀鼠色の豊かな被毛に、黒い渦のような縞模様が這っている大きな猫だ。
「狩りの時間だ」
「へぇ、狩りねぇ。もうそんな時期なの?」
今度は、右の猫が喋った。こちらも長い毛並で黄茶に黒い縞が入った虎のような模様だった。
「時期ではないが仕方がない。あいつが勝手に逃げ出したんだ。風霧と雲風にも、容赦するなと伝えろ」
「いいの? 昼間も結構ボロボロだったみたいだけど」
左の猫、龍風が、暢気に欠伸をしてから片目をつぶって蒼龍を見上げた。
「構わん。少し痛い目に合わねば分からんようだからな。もう二度と勝手に逃げ出す気が起きないように、己の力不足を思い知らせてやれ。ただし、殺すなよ」
「分かってるよ。ねぇ。でも風霧と雲風はどうかな? あいつら、やんちゃな子猫ちゃんだから。容赦するななんて言ったら、楽しくってなぶり殺しにしちゃうんじゃない?」
「自分の猫に殺されるなら仕方がない。それならそれで、あいつは所詮その程度の男だったってことだ。自分の猫の使役もできないようなやつの面倒を、いつまでも見てやれるほど俺は暇ではない」
「蒼龍様」
2人の部下が同時に、切なそうな声を出した。
「蒼龍らしくていいね」
「いいね、面白そうだ」
龍風と虎風が、ほぼ同時に蒼龍の肩に乗った。
湧きあがってきた何かに、フワフワの被毛が波打つように逆立つ。
そして、彼らの尻尾が、根元からゆっくりと2本に分かれていく。
ゆっくりと、ゆっくりと。
悪鬼悪霊を相手にする呪術師の活躍を描いてみたいと思って執筆している「猫使い」シリーズです。猫と植物の精霊が戦う術として協力します。
SF同人誌に連載している「猫使い」シリーズは、息子世代の物語を書いていますが、そこから時代を遡って父親世代の子供の頃の物語を書いてみました。
血の系譜、一族の宿命、親子関係など、逃れられない世界の中でつながる友情を、学園生活を軸に展開していく予定です。