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夜明け前の静寂を破る者は何処にもいない。 否、これが例え昼間であろうと、その様子が変わることは無かろう。
故に、大吾は誰に気兼ねすることもなく、両手をいっぱいに広げて空を見上げる。
別段、綺麗な星空があるわけでもない。
僅かに明るみ始めた東の空と、未だに濃い墨の様な西の空が交わった、透明な闇のキャンバスに浮かぶ星の物語に想いを馳せていただけだ。
格好つけずに言うなら、ただぼーっとしていただけである。
今にも倒壊しそうな、虫食いだらけのビルの屋上。 そこで大吾は身一つで無警戒に寝転がっている。
既に冬も終わりが近づいているが、まだ流石に冷え込むというのに、この男は何も持たず、着の身着のままに住処を出てきた。
無警戒というか、無計画。
なんの考えも無しに、思い立ったが吉日とばかりに行動に移す。 それは若さの特権か。
しかし、考えは無くとも理由はある。
大吾とて訳も無く無茶なことはしない。 ただ、そのハードルが低いだけだ。
空が見たい。
そのために、殺戮兵器がうろつく廃墟の只中、今にも崩れそうなビルに陣取っているのである。
第三者的に見れば唯の阿呆であるが、本人はそれでも至って真面目である。
敵に攻められ、地下へ逃げ込み早一年。 外に出る機会など殆ど無く、それでも、プライドだけはバカみたいに捨てずに、かつての首都の名を継ぎ『皇都』を名乗る。 当時の面影など何一つないくせに、その名になんの意味があるのか。
大吾はそれが嫌で逃げ出した。
或いは、空が見たいというのは唯の口実で、後付けの設定でしかないかもしれない。
あぁ、と。 残された僅かな星に、その瞳は己を重ねていた。
置き去りにされ、尚も輝く事を強いられる彼等はどのような思いなのだろうか。 やがては自分達も消える事は分かっているのに。
何故ああも輝けるのか。
やがて、最後の星が消える頃、大吾はようやく肌寒さを感じ、起き上がった。
視界の端で橙の太陽が、まだ弱い光で藍の空を照らす。
鳥が何羽か飛んでいる。
その影が、無人の都市で舞った。
自在に空を滑り、群れから二羽の鳥がはぐれて遊ぶ。
と、一発の銃声。
かつて嫌という程耳にしたそれと同時に、二羽の内の片方が錐揉みしながら落ちていく。
大吾の視線の先に、それはいた。 誰もいないはずの車線に、一つの人影。
遥か遠くではあるが、見間違うはずもない。 そいつは魚のようなフォルムのライフルを両手で構え、急に消えた相方を探し旋回する鳥を狙う。
再びの発砲音。
旋回していた鳥は、先と同じくクルクルと落ちていく。
冗談のような光景であった。
大吾はさっと屈んで、フェンスの隙間から相手を覗く。
こちらから見えるということは、相手からすれば既に射程圏内にあるということだ。
見つかれば、先にあるのは確実な死のみである。
人の形をしたそれはライフルを構えたまま一周回る。 こちらに顔が向いた時、その異様と恐怖で身が反射的に竦んだ。
身体つきは人のようであるが、頭部はのっぺらぼうのようで、唯一あるのは巨大な単眼であり、それが顔の大半を占めている。
体は褐色の装甲に包まれており、遠目で見るとおもちゃの兵隊のようでもある。
人の姿をしたその戦闘兵器の正確無比な射撃が外れることはなく、また使用する武器を選ばない汎用性から市街地に多く投入された。 仲間以外の動態反応を検知すると、先ほどの鳥のように即座に撃ち抜く。
通常数体の小隊行動を得意としているが、運がいいのか、周りに他の影は無い。
大人しくしておけば見つかることもないだろう。
大吾は伏せたまま注意深げに後退し――――目が合った。
先程まで周囲を警戒し、たった今その場を去ろうとしていた人機兵が突然こちらを振り向いたのだ。
何故と思う間もなく、大吾はその場を飛び退いた。 というより起き上がろうとした拍子に足がもつれて後ろ向きにこけた。
その時視界に映ったのは黒く小さな穴。
それが通り過ぎた瞬間、顔のすぐ前で破裂音が響く。
「カハッ」
肩から衝撃を受け肺の中の空気を一気に吐き出す。 霞む視界の中、褐色の頭に黒いカメラが一つ嵌った頭部がこちらを見下ろし、照準を合わせる。
朦朧とする意識の中で、銃口が額を捉えるのがやけにはっきりと見える。
意識する前に身体が動き、横に転がって躱す。 頭のあった位置で床に穴が穿たれた。
人機兵は瞬間動きを止めなぜ避けたのか、と不思議がるようにカメラアイが音を立て大吾にピントを合わせる。
なんとか起き上がったが、それでどうにかなるような相手ではない。
巨大な単眼がこちらを捉えているのが分かる。 彼我の距離はたったの一メートル。 どこにも逃げ場は無い。
あぁ、と逃げ場が無いのを理解し、そしてなぜ先の一発を自分は避けたのかと考える。 きっとこの体は生きたがっているのだろう、生物としては当然かと結論付けた。
大吾は人機兵に向かって飛びかかる。 人機兵の腹部に、肩から思いっきり突っ込んだ。
人機兵はその衝撃にバランスを崩して後ろ向きに倒れようとし――――それを錆びたフェンスが受け止めた。
既に傾いていたフェンスがその衝撃に耐えられるわけもなく、ガシャガシャと音を立てて外れる。
そして訪れる浮遊感。
大吾は自分がした事を今更のように思い出し、後悔するも今となっては後の祭り。
引き延ばされるような時間の中、最後に彼が見たのは、朝日に染まる白銀の騎士であった。