回想
平時の如く電力不足のここ《皇都》は、黄昏よりも暗い人工の明かりで、辛うじて人々の暮らしを支えていた。
密集した居住区の隙間道を、迷う事のない足どりで進む青年が一人、活気のない周囲の人間のヒソヒソ話に耳をたてている。
青年の名前は広瀬大吾。
表面上は人当たりの良いこの昼行灯は、他人を観察する事を一種の習慣としていた。
その日仕入れた情報では、新興宗教の《四神教》がちかぢか行動を起こすらしい。
その情報をどこか遠くの事のように感じながら、あてもなく歩く。
なんとなく、大吾はいつだったか友人の話した事を思い出した。
気さくで面倒見のいいそいつは、余り人と関わろうとしない大吾に対しても分け隔てなく接し、どれだけ拒絶しようとも笑顔で両手を広げて迎えてくれる暖かさがあった。
あれは、大戦末期の事だったか。
皇国で長らく廃止されていた徴兵制度が復活し、一般市民であっても予備兵として戦場に駆り出された。
そこで大吾はそいつと偶然同じ隊に配属となったのだ。
がなる上官や、心配性な先輩と共に、他の隊の後退時間を稼ぐため、半ば捨て駒扱いの作戦に加えられた時の事だ。
『大を守る為に小を切り捨てる。 映画じゃ悪人の言う台詞だけど、現実ではそれが正しい』
それは死に逝く一兵士の戯言であり、普段の大吾ならば観察対象にさえもせぬ一言の筈だった。
しかし、その発言を漏らした人物が問題だ。
問題児の自覚がある大吾さへも日の元に引き揚げようと悪戦苦闘し、誰よりも周囲の人間を助けようと、人の役にたとうとしてきた人間の口から漏れた台詞であったから問題なのだ。
その台詞は決してヒーローが口にしていいものではない。
それが大吾が『窓の内』から出した結論だ。
しかし、ならばどうだろうか。
その台詞を口にした本人は、周囲の人間を救う為に、何も犠牲にしていなかったと言えるだろうか。
少なくとも、『観察者』としての大吾はその質問に首を横に振って答えるだろう。
ノーだ。
彼は何よりも『自分』を犠牲にしていた。
身体の意味でも、心の意味でも。
身を削り、骨を粉にし、心を捧げて、他人に尽くしていた。
人々にその身全てを捧げ、それでも尚、笑っていた。
正にヒーローであった。
正義の味方であり、人々を守る盾だ。
しかし、それは盾でこそあれ矛ではない。
傷つくことはできても傷つけることはできない。
故に、ただただその身を捧げて他人に尽くすのだ。
そんな男の口から出た、大を生かす為に小を殺すという言葉は、重さが違った。
映画に出てくるようなかっこいい決め台詞などではなく、ただの、事実だ。
そして、その小になる事を笑顔で受け入れる奴なのだ。
撤退戦の殿を務めるという絶望的な戦場で、その友は一発の銃弾に倒れた。 大吾の目の前で、大吾の盾となり、死んだ。
死して尚、その身で敵の銃弾を受け続け、蜂の巣のようになるまで大吾の前に立ち塞がった。
あまりにも呆気ないヒーローの最期。
大吾はそれを見ていた。
心の窓の内で、他人事のように、ただ見ていた。