星辰天環01
月の出る夜のこと。
賀茂姫百合は焦っていた。
「はあ……! はあ……!」
荒らげに息をつき、童子切安綱を構える。
視線の先には今朝退治し損ねた鬼。
手入れをしていない長くボサボサの髪に白衣を纏った不気味な人型。
顔には般若のお面。
手には尖った爪。
皮と骨しかないのか異様に細身の体であって猫背ではあるがかろうじて立ってはいる。
そんな鬼だ。
そしてその鬼の傍らには凶都の鬼切が三人倒れている。
いずれも頭と体を分断されて死んでいる。
生き残っているのは姫百合だけだった。
(強い……! 坂上氏を殺したというのもうなずける……!)
焦りと共に納得する姫百合。
姫百合はボロボロだった。
姫百合が来ている服は巫女服によく似た戦装束だ。
魔法防御のかかった戦装束をして鬼の爪にとっては紙同然だった。
致命傷こそ受けてないもののそれも時間の問題といえた。
姫百合は袖の裏から霊符を取り出す。
霊符……梵字によって書かれた密教の術符である。
同時に言葉に呪をのせる。
「急々に律令の如く散れ!」
霊符から炎が生まれいづる。
その破邪の炎は鬼めがけて放出される。
「…………」
鬼は冷静に直上へ跳ぶことで炎を躱す。
さらに大気を蹴って斜め上から姫百合に襲い掛かる。
姫百合は下から逆袈裟切りに童子切安綱を振る。
その斬撃は鬼の右手の爪と鍔迫り合う。
同時に鬼の左手の爪が姫百合に襲い掛かる。
「ちぃ!」
舌打ちしながらバックステップする姫百合。
(そもそもにして影打とはいえ童子切安綱と鍔迫り合いになるのがおかしい……! 並の鬼なら抵抗もなく叩き切れるのに……!)
心中愚痴りながら姫百合は安綱を真横に振る。
それはまた鬼の右手の爪と鍔迫り合い、そして鬼の左手の爪が姫百合を襲う。
姫百合は退かなかった。
どころか大ぶりの左手の爪を無効にするように鬼の懐に飛び込んだ。
鍔迫り合いを止めて安綱を構えると鬼の心臓めがけて安綱を刺突する。
それは鬼の跳躍によって躱された。
鬼はムーンサルトの要領で姫百合の頭上、そして背後をとると両手の爪を姫百合目掛けて振る。
姫百合は姿勢を低くすることで襲い掛かる爪を避けた。
次の瞬間、姫百合はコマのように回転して鬼の着地と同時に鬼の足首めがけて安綱を振る。
「…………っ!」
手ごたえは、無い。
姫百合は鬼を探す、までもなかった。
安綱の刀身の先端に鬼は飛び乗っていた。
重さはない。
それが姫百合には恐ろしかった。
(松林蝙也斎か! こいつは!)
「ギギャアッ!」
鬼が安綱を蹴って姫百合へと襲い掛かる。
「しまっ……!」
完全に不意をつかれた。
死を覚悟する姫百合。
その姫百合の首が鬼の爪によって引き裂かれる直前に、
「ギ……!」
鬼は爪を止めた。
何かに惹かれるように姫百合から視線を外し、振り返る鬼。
「見つけた……!」
鬼は視線の方向へと駆け出した。
「…………」
呆然とする姫百合。
鬼の爪はあと一瞬でも躊躇わなければ姫百合の魔法防御を貫いて頸動脈を切り裂けたはずだった。
それを止めてまで鬼が執着するものが鬼の視線の方向にあるというのか。
不思議に思う姫百合。
それからはたと気づく。
「追わなければ!」
姫百合は鬼の駆けていった方向に向かって走り出した。
それはとても小学生とは思えないほどの……いや、人間とは思えないほどの足の速さであった。
それでも鬼には遠く及ばなかった。
*
夜のご飯はプッカネスタだった。
オリーブとニンニクの香りが鼻孔をくすぐる。
パスタをフォークでくるくると巻き取りながら私こと伴之もみじはお兄ちゃんに話しかける。
「そうそう、今日ね、転校生が来たんだよ」
「ふーん」
興味無さ気にそう呟いてプッカネスタを食べるお兄ちゃん。
「すっごく綺麗な子でね、賀茂姫百合ちゃんっていうんだよ」
「……ふーん」
「いじめられてる私を助けてくれてね。すっごく優しい子だった。友達になってくれるってまで言ってくれたんだよ」
「…………ふーん」
「しかもしかも聞いて驚け見て戦け。なんと鬼切なんだよ。私と同じ年齢なのに」
「………………ふーん」
「童子切安綱を持っててね。私が朝の登校中に鬼に襲われたところを助けてくれたんだ。すっごく格好良かったんだよ」
「……………………ふーん」
「賀茂って名前がつくくらいだからあの賀茂氏のことかな。でもそれなら剣術より呪術寄りのはずだよね、だよ」
「ま、いろいろあるんじゃねえの?」
「そうだね、だよ」
パスタをパクリ。
そんな感じで伴之家の夜のご飯は終わった。
お兄ちゃんはエプロンをつけて皿洗いに取り掛かる準備をして、それから私に五百円玉を握らせた。
「もみじ、アイス買ってこい」
「アイス……いいの、だよ!」
「ああ、俺はモナカを。釣りは好きにしろ」
「うん。ありがとうお兄ちゃん、だよ」
私はパーカーを着ると家を飛び出した。
春も盛りの今の季節、夜風はまだ肌寒いけどそれが心地よくもある。
月の出ている夜だった。
街灯の明かりを目印に私は手近なコンビニまで足を向ける。
と、
「……っ!」
ズブリと泥濘の中に身を浸したような感触を覚える。
天地の全てが灰色に色褪せる。
これは、
「結界……!」
そう悟る。
とすれば鬼が活動しているということだ。
既に誰かを襲っているのか。
それとも私が狙いか。
後者なら問題だ。
前者でも問題だけど。
ともあれ私には鬼をどうこうできる力はない。
あたりを警戒して、それから私は走り出す。
ともあれ結界から出なければ。
私は来た道をなぞるように引き返した。
私の家までいけばお兄ちゃんが張っている結界がある。
とりあえずそこまで……、
「見つけた……!」
ゾクリと背筋が凍り、私は嫌な予感と共に後ろを振り返る。
手入れをしていない長くボサボサの髪に白衣を纏った不気味な人型。
顔には般若のお面。
手には尖った爪。
皮と骨しかないのか異様に細身の体であって猫背ではあるがかろうじて立ってはいる。
そんな鬼がいた。
今朝、私を襲った鬼。
そして姫百合ちゃんが追っている鬼。
かの鬼が私に狙いをつけて襲い掛かってきた。
疾走とも跳躍ともとれる急激な前進によって逃げようとする私に易々と追いつく鬼。
私のすぐ目の前まで接近すると、鬼は伏した。
念仏を唱えようかと思いながら生を諦めかけた私にむかって、鬼は伏したまま手を掲げた。
「へ?」
呆然とする私。
それはそうだろう。
必殺と思われた鬼の挙動は、必殺から縁遠いものだったのだから。
鬼はこうべをたれて私にむかって両手を差し出した。
まるで高貴な者に高貴な物を差し出すように。
鬼の両手の平に乗っている物は噛み砕いていえば指輪だった。
金色と銀色と黒色と赤色と青色の金属の五つの指輪が金色の鎖によって一列に繋がっている。
そんな代物だった。
そんな指輪を鬼は私に差し出していた。
「どうぞぅ……」
困惑している私がおずおずと指輪を取って聞く。
「これを……私に、だよ?」
「はいぃ」
「はぁ、それはまたどういうわけで、だよ」
「御器……だから」
確か姫百合ちゃんの言を思い出せば、この鬼は坂上氏を殺して宝を盗んだ鬼だとか。
とするとこれがくだんの宝である可能性が高い。
鬼が私に害意を持ってないのはなんとなく察せられる。
とすると今朝も私を襲おうとしたわけじゃなくて、この宝を私に渡したかっただけなのだろうか。
真偽のほどはとにかく、私は受け取った指輪を右手にはめてみた。
親指には白金、食指には黄金、中指には赤金、薬指には青金、小指には黒金の指輪をそれぞれはめる。
「……っ!」
はめた瞬間、私はこれがどういうものか理解した。
同時に、
「駄目だ! もみじさん!」
「え?」
姫百合ちゃんの声が聞こえてそっちを向く。
姫百合ちゃんは鬼の後方からこちらに向かって走ってきていた。
手には童子切安綱。
そして、
「御免!」
鬼の爪が私の頸動脈を深々と切り裂いた。