(8)不思議な感情:直人side
意識を手放し、俺の腕の中でクタリとしている彼女を見て、ちょっとやり過ぎたかなと思いつつも、やっとこの腕に閉じ込めることが出来た満足感で顏は緩みっぱなしだ。
ソファに座ったままひとしきり彼女の温もりを味わった後、桐子をソッと抱き上げて寝室に向かう。いまだに意識を取り戻さない恋人を、それこそ壊れ物を扱うようにベッドへと下ろした。
クタリと四肢を投げ出している桐子に寄り添うように寝そべり、顔にかかっている髪を指先で払ってやる。
普段は大人びた表情が多い彼女は、今、あどけない顔で目を閉じている。その様子が、本当に可愛い。
「あの日、俺に抱き上げられた桐子がビックリして固まった時も、可愛かったよなぁ」
初めて彼女の驚いた顔を目にした時、なぜか、自分の心が打ち抜かれた錯覚に陥ったのである。
俺は恋人になったばかりの愛しい彼女を強く抱きしめ、過去に思いを馳せた。
入社式を終えた新入社員がぞろぞろとロビーを歩いている中、
「危ない!」
と、切羽詰ったような少し高い声がした。
たまたまそこに居合わせた俺がハッとして目を向けると、そこには小柄な女性と、その女性よりも少し背が高い女性が痛みに顔を顰めている様子が見て取れた。
状況からして、小柄な女性を庇った結果、もう一人の女性が足を痛めたらしい。
慌てて駆け寄れば、何と、そこにいた小柄な女性はイトコの芽衣だった。
お互いこのKOBAYASHIで仕事をする仲間になることは知っていたが、まさか、ここで顏を合わせるとは。
いや、それよりも、怪我をしているこの女性を対処しなくては。
「君、歩ける?」
そう声を掛ければ、
「大丈夫です」
と返ってくる。
どう見たって大丈夫ではないのに、彼女は少しだけ決まり悪そうに笑って、
「医務室の場所を教えていただければ、一人で行けます」
と言ってきたのだ。
強がりを言う彼女の様子に、なぜか心の奥がざわついた。
―――何だろう。この子の事、めちゃくちゃ甘やかしてやりたいんだけど……。
必死に強がっている様子が妙に脆く儚く見えて、ふと、そんな言葉を心の中で呟く俺。いや、だから、今は怪我の手当てが最優先だって。
俺は急を要するという大義名分のもとに、彼女を横抱きにした。
「遠慮している場合じゃないだろう。ちょっとの間、我慢してくれる?」
「きゃっ」
突然抱き上げられ、腕の中の彼女が短く悲鳴を上げて目を丸くした。そのあどけない様子に、視線と心が無意識に吸い寄せられる。
自分の中に沸き起こった不思議な感覚。本当に何だろうか、これは。
今まで感じたことのない心の奥のさざめきはいったん置いておくとして、
「周りに見られて恥かしいだろうけど、医務室までだから。スカートを穿いている君をおんぶしたら、裾が上がってしまうしね」
驚いている彼女を落ち着かせようと、出来る限り穏やかな声を出して微笑みかける。
すると、ものすごく申し訳ない顔つきになり、
「い、いえ、その……、私、重いですよね。ご迷惑をお掛けして、申し訳ありません」
ちょこんと頭を下げてきた。
彼女くらいの体重であれば、楽勝とは言えないけれど、抱き上げることはさほど困難ではない。だが女性というのは、いつだって自分の体重や体型を気にするものだ。
「体質で太れないのかもしれないけれど、君はもう少しふくよかになってもいいくらいだ」
と返してやれば、
「そ、そうでしょうか」
少しホッとしたような顔になった。
「ああ、身長の割には軽いほうだと思うよ。さて、落とすつもりはないけど、しっかり掴まっていて」
「は、はい」
俺の言葉に素直に従い、彼女は胸にうずくまる様に身を寄せて肩に手を置いてくる。
芽衣はいつでもやかましくて甘ったれで、そして、俺に対してはあまり素直な奴ではなかった。
ところが、俺が抱き上げている彼女は芽衣とはまるで正反対。
―――なんか、すごく気になる子だよなぁ。
そんな感想を抱きながら、俺は医務室への道を慎重に進んでいった。
医務室に到着すると、腕の中の彼女がオズオズと声を掛けてくる。
「ありがとうございました。もう下ろしてくださって大丈夫です」
しかし、どうしても放しがたく、
「最後まで付き添うよ。先輩として、無責任なことはしたくないんだ」
彼女の言葉を笑顔で封じた。
女性を横抱きにして医務室に現れた俺を見て、常駐している医師が腕の中にいる彼女を素早く見遣る。ストッキング越しの足首に目を止め、
「腫れているようね。ここに座らせて」
四十台に差し掛かろうとしている女性医師は、自分の前にある丸椅子を指した。俺はその椅子へ静かに彼女を下ろし、ついてきた芽衣と一緒に見守る。
医師は彼女に断りを入れてからストッキングを挟みで切断し、手早く診断を始めた。
結果は左足首の捻挫。ただ、幸いなことに入院するほど酷いものではなく、一週間ほど安静にしていれば大丈夫とのこと。
それを聞いた芽衣が少しだけホッとした顔をしつつも、困り切った顔になる。
「小泉さん、ごめんなさい。一週間も休ませることになってしまって……」
「そんなに落ち込まないで。入院も通院もしないで済んだから、不幸中の幸いよ」
泣きだしそうに顔を歪めている芽衣に向けられたのは、包帯が何重にも巻かれている足首の痛々しさを感じさせない、とても落ち着いた声だった。
怪我をしている自分のことはさて置いて、落ち込む芽衣を優しく気遣う彼女の様子に、トクトクと心臓が速くなる。
入社式に参加していたということは、芽衣と同じくらいの年齢のはず。それなのに、芽衣の姉であるかのように穏やかで落ち着いていて、すごく好感が持てる女性だ。
俺の興味がますますこの女性に向かっていった。
芽衣と昼食を食べる約束をしていたようだが、この怪我では出歩かずにすぐさま家に帰った方がいいだろう。
「怪我が治ったら、お昼を奢るからね!絶対に奢るからね!」
立ち上がる彼女を支えて何度も芽衣が言うと、
「うん。それを楽しみに、早く怪我を治すから」
と、彼女がはにかむように笑う。
その笑顔を見て、また、俺の心臓が速くなった。
―――やたらと俺のツボを突きまくる子だな……。
ほのかに顔が赤くなりかけて、それを咳払いで誤魔化す。そんな俺を芽衣が不思議そうに見上げてくるが、すっぱり無視した。
医務室で借りた松葉つえを使ってヒョコヒョコと歩く彼女を、代わりに荷物を持っている俺が少し後ろから見守る。
危なっかしい足取りの様子に、手を貸したくて仕方がない。手を貸すどころか、松葉づえなど放り出して、さっきのように彼女を抱き上げてやりたい。
とはいえ、あまりに手を出すとセクハラになりかねないのでグッと我慢した。
そんな俺を見て、怪訝な顔をしている芽衣。それをまたしても無視してやる。
俺と芽衣の間に微妙な空気が流れつつもロビーを抜ければ、そこには芽衣が呼んだタクシーが既に来ていた。
乗り込んだ彼女が小さく手を振り、俺たちも手を振り返す。
タクシーが見えなくなったところで、
「直人君。何だか様子が変なんだけど、どうしたの?」
と、芽衣が話しかけてきた。
「様子が変って、何だよ。失礼な奴だな、俺はいつも通りだぞ」
と言いつつも、彼女に抱いた感情は我ながら不思議だった。
「そうだなぁ。ギャーギャーうるさい芽衣が、あんな大人しい子と友達ってことに驚いているってとこかな」
「……ふぅん。そうなんだ」
俺の言葉に、なぜかニマニマしている芽衣。
「お前こそ変な奴だな。腹が空きすぎて、頭がおかしくなったか?」
隣りに立つ小柄なイトコの頭をポンポンと叩いてやれば、
「もう、何てこと言うのよ!そのうち、私の協力が必要になっても知らないからね!」
ムッとした顔で睨まれる。
「お前に助けてもらう事態なんて、そうそう起こらねぇよ」
そう言って、俺は小生意気なイトコの頭をパシッと叩いてやった。
ところが、自分の言葉をすぐさま撤回することになるとは、この時にはまったく気が付いておらず。
そして、既に恋に落ちていたことにも気が付いていなかった。