(7)愛しい彼。大切な親友。そして、私。
9月23日:後半部分を加筆修正致しました。
夕闇に辺りが染まる中、私は彼に抱きしめられたまま。
駿河さんは何も言わず、ただ黙って私を抱きしめている。私を優しく包み込む腕の力の強さや温もりを感じていると、少しずつ涙がおさまっていった。
スン、と僅かに啜り上げ、
「駿河さん、どうして私が北陸支社に行くことを知っていたんですか?」
と、彼に尋ねる。
すると彼はクスリと笑った。
「君が上司に相談しているのを、たまたま耳にしたんだよ」
「たまたまですか?」
異動の話を人に聞かれたくなくて、だけど会議室を予約するとかえって周りに気にされそうだからと、人気のない廊下の突き当りで上司に相談したのだった。
確かにそこには人はいなかったはずなのだが、と首を傾げた拍子に、あることを思い出す。
廊下の突き当り手前には飲み物の自動販売機があり、その奥にはちょっとした休憩スペースがあるのだ。丸椅子が二つ、三つ置かれていて、くつろぐにはちょうどいいスペース。息抜きに色々な部署の社員が利用していると聞く。
その場所に思い当たれば、駿河さんが苦笑いを浮かべた。
「盗み聞きするつもりはなかったんだけどさ。でも、話の途中で俺が出ていったら、それこそ気まずいだろうし。とりあえず、必死に気配を殺してたよ」
「そ、そうだったんですか」
まさか彼に聞かれていたとは思わなくて、今更ながら非常に気まずい。
俯く私の頭の天辺に、彼が顎先をソッと乗せて話し出す。
「君が異動を切り出した時、思わず息を呑んでしまうくらい驚いた。でも、俺の気持ちはすぐに固まったよ。それで君が異動するなら俺もと思って、その足で課長と部長に相談しに行った」
「どうして、駿河さんがわざわざ北陸支社に異動を?」
そう尋ねると、クスクスと笑う声が降ってくる。
「それをここで言うかねぇ。そんなの、君を追いかけるために決まってるだろ。告白もしてないのに、このまま逃げられたらたまらないからね」
「で、でも、そんな……」
彼の言葉に驚きを隠せない。
私を好きになったということだけでもありえないのに、まだ付き合ってもいない私を追いかけるために、本社から遠く離れた支社に異動するなんて。
言葉を詰まらせた私を、駿河さんがキュッと抱きしめる。
「だって君の性格を考えたら、近くで見張ってないと心配だから。こっちから会いに行こうとしても、わざわざ時間や交通費を掛ける必要は無いとか言って、君は俺と会おうとしてくれないだろうし。そもそも恋人じゃないから、会いに行く理由もうまくつけられないしさ。ま、俺がさっさと告白して君を捕まえておけば、恋人として堂々と会いに行けるんだけど。これがまた、タイミングが難しくて。君は俺と会うと苦しそうにしていたから、まだ信頼を得てないんだろうって思ってた。そんな時に告白しても失敗する確率が高いんじゃないかなって。絶対に君を逃がすつもりはなかったけど、無理強いするつもりもなかったから」
一息に告げた彼が、フッと短く息を吐いた。
「支社に行ったら、同じ本社で働いていたよしみで更に君と仲を深めて。君が俺に心を許してくれた頃を見計らって、かっこよく告白しようと考えていた。それが、こんなことになるとは。結局は君の言葉がきっかけで、俺からは大して動いてないし。何か、俺ってかっこ悪いなぁ」
自嘲気味に笑う声に、私は小さく首を横に振った。
「……そんなことないです。駿河さんは、かっこよくて、素敵な人です」
恥ずかしいので蚊の泣くような声でポソポソと囁いたのだが、彼の耳にはしっかり届いたらしい。
途端に私に回されている腕の力が強くなる。
「君にそんな事を言われたら、俺の理性が弾け飛ぶんだけど。まったく、どうして君は、そうやって可愛いのかなぁ」
「や、あの、可愛くないですから」
慌てて否定するけれど、
「そうやってアワアワするところも、可愛いよね 」
と言われてしまう。
どう反論していいか分からなくて黙ってしまうと、
「あれ、大人しくなっちゃった。そういう所もホント可愛いな」
と、ますますこちらを羞恥に追いこむようなことを言ってくる。
―――このまま、この体勢でいるからダメなんだ。早く離れないと。
「駿河さん、そろそろ帰りませんか!もう暗いですし、風もだいぶ冷たくなってきましたよ!」
顔の赤さを自覚しつつも、彼を見上げてお願いした。
「ああ、そうだね。ずっとここにいる訳にも行かないしな」
形の良い彼の瞳が、フッと柔らかく細められる。
「じゃあ、行こうか」
そう言って、私は彼の腕の中から解放された。が、完全に解放されることなく、右手を取られて歩きだすことに。
私の足を気遣って、駿河さんはゆっくりと歩を進める。その半歩後ろを歩く私。
大きな手は温かくて、その温もりがくすぐったい。
自分に向けられるはずもないと思っていた彼の心が、今は自分に真っ直ぐ向けられていることもくすぐったい。
―――なんだか恥ずかしいままなんだけど……。
抱き締められている時とはまた違う恥ずかしさを感じ、赤みの引かない顔を見られたくなくて、私は深く俯いた状態で歩いていた。
「どうしたの?下ばっかり見て」
顏だけでチラリと振り返った駿河さんは、嬉しそうな声を掛けてくる。
その声を聞いただけでくすぐったさが増し、私はますます顔が上げられない。
「もしかして、手を繋ぐことに照れてる?」
足を止めてきっちり振り向いた彼は、俯く私を下から覗きこむように上体を屈めた。
「あ、あの、見ないでくださいっ。それに、ここで立ち止まったら、他の方の迷惑になりますからっ」
更に俯いて必死に顔を隠す。
そんな私を見てクスクスと楽しそうに笑う彼は、
「そうだね、このままだと人の流れの邪魔になるね。だったら、俺の部屋で照れる君の顔をゆっくり見させてもらおうかな。今日は金曜だし、週末は二人でのんびり過ごせる」
「え⁉」
驚いて顔を上げた先には、真っ直ぐに私を見つめる瞳がある。
「やっと君を手に入れたんだ。二人きりになってもいいよね?」
口調は問いかけではあるけれど、断定にしか聞こえない。
「え、ええと、でも……」
再び俯いてオロオロと口を開く私の手を引いて、駿河さんは歩きはじめてしまう。
「でも、何?俺たちは恋人同士なんだから、二人っきりになっても問題ないよ」
俯く私の顔に、一層熱が集まる。
―――恋人同士って言われた!俺たち、恋人同士って!
絶対に実ることがないと思っていた片想いが実り、それだけでも気持ちがいっぱいいっぱいで頭がグルグルとしているのに、その上、彼の部屋に行くなんて。頭が今にもパンクしそうだ。
手を引かれるままに歩いていると、また、駿河さんが立ち止った。
「タクシーを拾うから。電車だと、俺の家はちょっと遠回りになるんだ。それに、さっき無理に走ろうとしたから、足が痛いでしょ?」
彼から逃げようと走り出そうとしていつになく足に力を入れたために、左足首が鈍い痛みを訴えていた。
気付かれないようにしていたのだが、時折庇う様子で分かってしまったらしい。
「あ、あの、でしたら、私……」
―――今日の所は帰ります。
と、言う前に、
「帰さないよ」
ニッコリと笑顔で制止される。
「そ、そんな、困りますっ」
彼と一緒にいたい気持ちはあるけれど、今は頭が混乱しすぎて、自分でも訳が分からない。ここはいったん自宅に戻って、冷静になるべきだ。
それなのに、
「じゃあ、今から俺に抱き上げられて駅まで行くのと、おとなしくタクシーに乗るのと、どっちがいい?」
いきなり選択肢を出されて、混乱で泣きそうになる。タクシーはいいとして、抱き上げるって何事なの⁉
「え、ええと、行き先は……?」
どうしたらいいのか分からず、彼に訊きかえせば、
「どっちも同じ、俺の家」
爽やかな笑みとともに、サラッと告げられた。
―――それ、結局は変わらないんですけど⁉
答えられずに固まれば、
「あっ。ちょうどタクシーが来た」
彼は嬉々として手を上げ、タクシーを停めてしまう。そして素早く乗り込み、私の手をグイッと引いた。
「きゃっ」
踏ん張ることが出来ない私は、車内に倒れ込む。そんな私を難なく受け止め、自分の横に抱き寄せる駿河さん。
「やっぱり華奢だね。守ってあげたくなるなぁ」
だったら、無理やり腕を引っ張るようなことをしないでほしい。転んだらどうしてくれるのだ。
恨めしい気持ちを篭めてほんの少し睨んでやると、
「大丈夫、絶対に俺は受け止めるから」
自信たっぷりに微笑まれてしまう。
その笑顔に見惚れているうちに彼はドライバーさんに行き先を告げ、そして、タクシーは滑らかに走り出してしまった。
彼が一人暮らししているアパートに着いてタクシーを降りると、こちらを支える様に腰を抱かれる。
「だ、大丈夫です。ゆっくりなら一人で歩けますのでっ」
「だめ。ゆっくりなんて、待ってられないから」
そう言って、彼は私の腰に回した腕にグッと力を入れて、私を前へと促す。
今までにない彼の様子に、私は戸惑っていた。
こんなに強引な人だっただろうか。いつだって彼は優しく微笑んでいて、いつも私を気遣ってくれていて、こんな風に物事を強引に運ぶような人ではなかったはずだ。
そんな事を考えているうちに、一階の一番奥にある彼の部屋の前まできていた。
「さ、入って」
扉を開けて先に玄関へ入っていた彼に、またしても強引に腕を引かれる。そして、またしても倒れ込む私。
大きな体で私を受け止めた駿河さんは、ヒョイと私を抱き上げた。突然お姫様抱っこされ、私は怖くなってギュッとしがみついた。
「うん、そうそう。そうやって、しがみついて」
彼は私の足を少しだけブラブラと揺すり、脱げかけていたパンプスを下に落とす。自分は器用にも手を遣わずに靴を脱ぎ、ドンドン廊下を進んでいった。
「ま、ま、待ってください!」
「だから、もう待てないんだって。大人しくしてよ」
クスッと笑った駿河さんは、私の額にチュッとキスをする。
まさかの展開に私は言葉を失い、全身を硬直させた。
「ふふっ。ビックリしちゃって、可愛いなぁ」
笑顔で廊下を進み、そして、リビングにあるソファに駿河さんは腰を下ろした。膝の上に私を載せて。
「とりあえず、ここでちょっと君を堪能させてもらおうかな。華奢だから、スッポリ俺の腕に収まるね。顔が真っ赤で可愛い」
至近距離でニコニコと微笑まれ、私の顔は一層赤くなる。
もうダメだ。このままだったら、私はパニックの限界を超えて気を失う。
「お、下ろして……」
絞り出したようなか細い声でお願いするも、
「だめ~」
と、楽しげな声で却下されてしまった。
だけど、私にはどうしてもしなければならないことがあるのだ。クラクラしている自分を叱咤して、駿河さんに頼み込む。
「お願いです!芽衣に電話を掛けさせてください!」
あまりに必死な様子に、彼は笑顔を僅かに引っ込めた。
「今じゃないとだめなのか?」
「あ、あの、私、芽衣に酷いことを言ってしまったんです。だから、すぐに謝らないと!」
「酷いことって?」
「それは……」
私は一瞬ためらったが、事の顛末を話すことにした。結局駿河さんと芽衣は恋人ではなかったとはいえ、彼女に対するあの物言いは酷かったと思うから。
私の中で燻りつづけた負の感情をぶつけられ、呆然として私を見上げた芽衣の顔は、感情がなかったからこそ痛ましく見えた。
自分の勘違いで傷つけてしまった親友に、このまま黙っているわけにはいかない。すぐにでも、芽衣に謝りたい。
私は視線を伏せ、口を開いた。
「怪我をさせた償いをしたいと、芽衣が申し出たんです。だけどその時の私は、自分の足が元のように動かなくなってしまったことに対する憤りや、忘れたくても忘れられない苦しい想いで、彼女に酷い八つ当たりをしてしまったから。“この足の償いとして、駿河さんを頂戴”と……。今更でしょうが、謝りたいんです」
頭を下げ、「電話を掛けさせてください」と、改めて口にした。
すると、駿河さんがスーツの上着ポケットに入れていた自分のスマホを取り出す。指先で画面を操作した後、私に差し出した。
「はい、これで芽衣と話せるから」
その直後、
『もしもし!もしもし、直人君!ちょっと、聞いてんの⁉』
という芽衣の声が聞こえてきた。
私は慌ててスマホを受け取る。
「もしもし、芽衣。私、桐子」
『え?桐子?なんで、直人君のスマホでしょ?あ、そんな事より、今、どこにいるの?』
耳に響く声は、私を心配するいつもの芽衣の声。あんなに酷い態度を取った私にも、彼女は変わらず接してくれる。
ジワリと涙が浮かんでくるが、泣いている場合ではない。私はスマホを握りしめ、話しかけた。
「あの、芽衣。さっきは酷いことを言ってごめんね。八つ当たりしてごめんね。いくらあなたと駿河さんがイトコだったと知らなかったとしても、あの言い方は失礼すぎだよね。本当にごめんね」
謝って済むことではないかもしれないが、私は何度も『ごめんね』と繰り返す。
すると、
『謝らないでよ。私、別に怒ってもなし、傷つけられてもいないし』
明るい声が返ってくる。
「でもっ」
『そんなに謝られたら、どうしたらいいか分からないよ。それにさ、実はちょっと嬉しかったんだ』
苦笑交じりに芽衣が言う。
「え?」
私のあの態度が嬉しいとは、どういうことだろうか。予想外の言葉に首を傾げていると、クスッと小さな笑い声が伝わってきた。
『だってさ、桐子っていつも優しくて穏やかで。何かあっても、ちょっと困った様に笑うばっかりで。私の前で感情的になるってこと、これまでになかったでしょ。だから、八つ当たりでも、勘違いでも、私にぶつかってきたことが嬉しいなって』
クスクスと笑いながら告げられる芽衣の言葉に、今度こそ涙が溢れた。
「芽衣……」
涙声で名前を呼ぶと、彼女は笑いを収める。
『謝るなら、私の方だよ、桐子。てっきり私と直人君の間柄は説明した気になっていたんだけど、ちゃんと言ってなかったんだね。私のうっかりで、桐子をずっと苦しめてた。ごめん、桐子』
真面目な声に、私の涙が止まらなくなる。
これまで胸を締め付けていた想いが、ひょんなことから報われたのだ。だから、これまでの事は、もう、いいのだ。
「ううん、ううん……。いいの、もう、苦しくなくなったから……」
涙を拭いながら伝える。
『え?……ってことは、直人君とうまくいったの⁉あ、そっか。だから直人君のスマホから電話してきたのかぁ』
ブツブツと独り言を漏らす芽衣が、ハッとしたように返してきた。
『ちょ、ちょっと待って。外にいる感じがしないから、もしかして、桐子は直人君の部屋にいるの⁉』
「あ、うん」
少し照れつつ返事をすれば、
『アイツ、手が早すぎる!桐子!今すぐ帰った方がいいよ!ああ、私に用事がなければ、迎えに行くのに‼』
焦った様に騒いでいる芽衣。
「芽衣?」
呼びかけたところで、横から伸びてきた手にスマホを取り上げられた。
「あの、まだ、話の途中で……」
おずおずとスマホに手を伸ばすと、私には届かないように彼は腕を高く上げる。
「芽衣とばかり話してないで、俺ともっと話そう。俺を見てよ」
そう言って、無情にも通話を終了させてしまう。そしてこともあろうに、スマホをぽいっと遠くに放り投げた。
駿河さんは再び私の背に腕を回してくる。
「もう、ホントに待てないから。例えイトコの芽衣でも、俺との時間を邪魔するなんて、これ以上許せない」
とはいえ、私と芽衣が話していたのは、ほんの十分ほどなのだ。
「す、駿河さん⁉何だか、人が変わっていませんか⁉」
ワタワタと彼の腕の中で身じろぎする私を、彼がギュッと抱きしめる。
「本来の俺は、こんな感じだよ」
ニコッと笑った彼は、また私の額にキスをした。そして、またピシリと固まる私。
「本当に可愛いなぁ、桐子は。今夜は徹底的に話し合おうな、……寝室で」
キスをされた上にいきなり名前で呼ばれ、おまけに告げられたセリフの内容に、私の精神はとうとう限界を突破した。
さよならを告げるはずだった片想いが、まさかまさかの大逆転で無事に実った翌日。
休みだというのに、芽衣が割と早い時間に駿河さんの家へやってきた。そしてなぜか駿河さんに対してやたら威嚇している。
そんな彼女から私を強引に取り戻す駿河さん。
とても優しいけれど時々強引な一面が顔を出す彼と、そして優しくて明るい親友と共に過ごすバタバタとした時間。
これまでの日常と違ってかなり賑やかではあるけれど、この二人に出会えて私はすごく幸せだと思う。
「二人にじゃなくて、俺に出会えてだろ?」
「何言ってんのよ。私がいたから、直人君は桐子と知り合えたんだからね!」
私は二人に挟まれ、困ったように、それでも楽しそうに笑うのだった。
●これにて本編は終了いたします。
久々にコメディ色を纏わない作品でしたが、なんとか書けました。
「さよなら……」
と桐子にこの一言を言わせたいためだけに、ここまで妄想が広がるとは。
プロットの段階では5000字程度の短編だったはずなのに、おかしいなぁ。
自分の妄想力のたくましさに苦笑いです。
●さて、次話からは直人サイドのお話がスタートします。
桐子サイド同様に、お付き合いくださると嬉しいです。