(4)どうすることも出来ない感情
すっかり秋が深まり、冬の気配が色濃くなってきた。
私と芽衣は仕事帰りで、駅前にあるデパートに向かっている。
「すっかり寒いねぇ。こういう時は鍋料理がいいなぁ」
「そうだね。あったまるし、野菜も沢山食べられるしね」
「もう、桐子はまたそんな事を言ってる。いつも野菜ばっかりなんだから、もっとお肉を食べた方がいいって。何なら、私のお腹のお肉を分けてあげたいよ」
芽衣は自分のお腹を擦りながら、冗談で私を睨んできた。
「何言ってんの。人に分けるほど、余計な肉が付いているようには見えないけど」
「いやいやいやぁ。これが、なかなかどうしてなのだよぉ」
と、芽衣がとある上層部役員を物まねしてきた。
可愛らしい彼女の口から似つかわしくない話し方が飛び出して、思わず笑ってしまう。
そんな私を見て、芽衣も笑った。
「桐子、ちゃんと笑ってよね」
「……え?私、いつも笑ってるじゃない」
あまり明るい性格ではないものの、私はけして鉄面皮ではない。笑いの沸点は意外と低くて、結構な確率で笑っているはずなのだ。
どうして彼女がそんな事を言い出したのか不思議に思っていると、
「なんかさ、桐子って私の前だと困ったように笑ってるから」
と言われて、ハッとなった。
だけど咄嗟に言い返す。
「それは、芽衣が手のかかる妹だからでしょ。私は自分の妹だけでも手いっぱいなの」
体の前で腕を組み、お姉さん口調で返した。
「まぁ、そうなんだけど。でも、さ……。それだけじゃないっていうか……」
何かを窺う様に私を見上げてくる彼女に、私は不自然にならないように気を付けて視線を逸らす。
「実は仕事で息詰まることがあって、それで最近は上手く笑えないのかもね。人事部って、けっこうデリケートな問題が多いから。慣れてきたようでも、私はまだまだってことかな。ああ、もうこんな時間。早くデパートに行こうよ」
左腕の時計で時間を確認する振りをして、芽衣の視線と追及を交わした。
私がうまく笑えない理由なんて、そんなものははっきりしている。いまだに胸の奥で燻っている駿河さんへの想いが原因なのだ。
さっさと捨てられないなら、いっそのこと打ち明けて玉砕してしまえばいいのかもしれない。そうすれば、今のモヤモヤとした状況からは抜け出せるのだ。
だけど、玉砕すると分かっていて想いを伝える勇気はない。
そして、捨てることも出来ない。
そんな厄介な気持ちが、私の笑顔を曇らせているのだ。
―――でも、もういい加減、疲れてきたかも。
振り向いてくれない人を想い続けるのは、想像以上に心が疲弊する。それに芽衣に本当の事を言えないつらさも、その疲弊に拍車をかけている。
どうすればいいのだろうかと頭を巡らせていた時、突然強い横風が吹いた。
私たちは今、デパートの中庭に設置されている階段を二階へ向かって上っている所だった。
開放的な空間で、晴れている時はさぞかし気分がいいだろう。
だが周りに風を遮る街路樹はなく、吹き込んできた風は中庭をものすごい勢いで抜けてゆくのだ。
「きゃぁ」
結んでいない髪が風にあおられて芽衣の目を覆い、突然視界を塞がれた彼女がよろける。そして、芽衣が階段を踏み外した。
ガクンと体が後に傾いで、そのまま倒れてゆく。
「危ない!」
私は手にしていたバッグを放り出して、彼女の腕を掴んだ。上に引き上げ、彼女が転げ落ちてゆくのを間一髪のところで防ぐ。
ところが、その反動で今度は私が足を滑らせ、大きくバランスを崩した。
「桐子⁉」
顔にかかった髪を払った芽衣が、私を見て甲高い声を上げる。
どちらかというと運動神経はいい方ではないのだが、この時ばかりは咄嗟に手すりを掴み、事なきを得た。
しかし必死になるあまり足元に注意がいかず、結果、私の左足首は盛大な捻挫をしたのだった。
入社式に芽衣を庇った時はそれほど大けがをしないで済んだのだが、今回は残念ながらそういうわけにはいかなかった。
数か所の筋を広範囲にわたって痛めてしまい、いくらリハビリをしたところでも完治することは難しいかもしれないと医者に言い渡されたのである。
やりきれない気持ちは確かにあるが、それでも、目の前で芽衣が階段から転げ落ちていき、階下に叩きつけられるような事態にならなくてよかった。
……と無理やりにでも思わないと、私は芽衣の顔を見るたびに彼女をなじってしまいそうになる。
自分の怪我と引き換えでも友達が無事でよかったと素直に考えられるのは、今のところは無理だ。こればかりはどうにもならない。
ただ、時間が過ぎて心が凪ぐのを待つしかないのだ。
師走に入ったとたんに、世の中がすっかりクリスマスモードに変わった頃。私は再度の職場復帰を果たした。
一度目の時とは違って鬱々とした気持ちを抱えていた私は、必死に自分の気持ちに蓋をする。入院と手術とリハビリを兼ねて約一か月の療養期間を経ても、まだ、芽衣に対する気持ちは落ち着いていなかったのだ。
入院中は『体調が良くない』、『リハビリで疲れた』といって芽衣の面会を避けることも出来たけれど、出社してしまえばそうそう誤魔化せない。
そんな私の気持ちに気が付かない芽衣は、仕事が終わると同時に人事部に駆け付けて私を捕まえた。
「話があるの。お願い、聞いて」
やたら切羽詰った芽衣の気迫に押され、私は彼女と連れ立って三階にある大休憩室に向かった。
二人並んでソファに腰掛ける。ここにきてやっと私の右手首を放してくれた芽衣が、
「まずは、退院おめでとう」
と言ってきた。
「……ありがとう」
彼女の言葉に、そう返すのが精いっぱい。おめでとうなんて言われても、完治できなかった私にはちっとも嬉しくないのだ。
それでも、私を心配し続けてくれた芽衣の気持ちは本物だから、無碍に突っぱねることも出来ない。
そんな微妙な空気を纏った私の言葉でも、芽衣は怪訝な顔を一切見せなかった。
「それから、あの時、私を庇ってくれて本当にありがとう」
素直に感謝の気持ちが伝わってくる様子に、私はソッと首を横に振る。
「そんなに気にしないで。気がついたら、勝手に体が動いただけ。特別な事はしてないでしょ」
「でも、桐子のおかげで、私は大怪我をしないで済んだ。それってすごく感謝するべきことだよ。ねぇ、私は桐子に何をすれば償える?出来ることなら、なんでもする」
彼女は彼女で、私の怪我の事で心を痛めていたらしい。自分は無事でよかったと安堵するような子じゃないのだ。
こういう素直な心の持ち主だから、駿河さんは出逢ってすぐに芽衣を好きになったのだろう。
「そんなもの、私は望んでないから。気にしないでいいんだってば」
苦笑いを浮かべて、彼女の申し出を断る。
嘘ばかりだ。この足がまともに動けないことを悔しく思っているくせに。本当は、この大事な友人を深く恨んでしまいそうな一歩手前まで追い詰められているくせに。
「お願い。いつも桐子に助けてもらってばかりだから、こんな時にこそ、あなたの役に立ちたいの。遠慮しないで、何でも言って」
断っても断っても、彼女は償いを申し出てくる。
ところが、そう言われるほどに、私の中の暗い気持ちが育ってしまうのだ。
―――だめだ。このままだったら、私はきっと芽衣に酷いことを言ってしまう。
私はとっさに立ち上がった。