(2)初めての出勤で目にした光景
その後、医務室で処置をしてもらった私は、痛みが引くまで仕事は休むようにと言い渡された。
いきなり出遅れてしまった自分が情けなくなり、少しだけ鬱々とした気分が募ってしまう。
そんな時、友達となった泉野さんが送ってくれるメールや時折彼女からかかってくる電話、そして私を医務室まで運んでくれた男性の面影が心を軽くしてくれていた。
「一目惚れって訳じゃないと思うんだけど……」
今夜も早々とベッドに潜り込みながら、ポツリと呟いてみる。
誰もが遠巻きに見ている中で手を差し伸べてくれた優しさと、抱き上げた腕の力強さと、あの穏やかな微笑が時折思い起こされ、胸の奥が少しだけくすぐったい。
「年上男性に対する憧れってところかな」
胸に渦巻くモヤモヤをそういう位置づけにして、私は目を閉じた。
それから数日が経ち、歩くことに支障がなくなったので無事に初出勤。
「お、おはようございます」
時期ハズレの転入生のようにドキドキしながら人事部に顔を出せば、私に気がついた周囲の人がこちらを見てきた。同期も先輩も上司も一斉に、だ。
たくさんの視線を浴びて、思わず足が止まった。
お互いに黙り込み、妙な空気が室内に流れる。
そんな空気を破ったのが、部長だった。
「小泉君、おはよう。もう、足の具合はいいのかい?」
人事部というと異常にお堅いというイメージだったのだが、席を立って足早にこちらにやってくる上司はとても気さくそうだった。
髪は綺麗なロマンスグレーで、年相応にほんのちょっぴりお腹の出ている人事部部長は、ニコニコと穏やかな笑みを浮かべて私の前に立った。
「ご心配とご迷惑をお掛けいたしました。もう大丈夫です」
頭を下げて挨拶をすれば、ポンと肩を叩かれる。
「君は他の新入社員よりも一週間スタートが遅れてしまったが、そんなものは気合いで巻き返せる。だが、くれぐれも無理はするな」
もう一度肩を叩いてくる部長に、
「ちょっと、部長。若くて素直な新入社員だからって、甘やかさないでくださいよ~」
と、先輩女性社員から声がかかる。
すると、それに同調して先輩の男性社員が口を開いた。
「そうだ、そうだ。僕が歓迎会で飲みすぎて次の日に欠勤した時は、そんなに優しくなかったじゃないですか」
「二日酔いしたお前と、人を庇って怪我をした小泉君が同じわけないだろうが」
部長の言葉に、周囲からドッと笑い声が上がる。
その笑い声のおかげで、私は緊張をことが出来た。このやり取りは、顔合わせのタイミングを失った私に対しての思いやりなのだろう。さっき声をかけてきた先輩達の目が優しく笑っている。
実際に仕事をしてみないと分からないけれど、とりあえずはこの部署でやっていけそうだ。
私の指導を担当してくれる先輩に付きっ切りで業務の説明を受ける。様々な書類と細々とした手順にほんの少し心がぐらつくが、
「説明だけ聞くと頭が混乱するけど、実際に仕事をこなしていけば嫌でも覚えるから心配しないでいいわよ」
という先輩の励ましが嬉しい。
「分からない事があれば、周りに確認すること。中途半端な判断で仕事を進めると自分が後で大変な目に遭うし、結局は他の人にも迷惑がかかるのよ」
メモを手に真剣な表情でコクリと頷く私に、栗色の髪を上品な位置で纏め上げている先輩がクスッと笑う。
「誰にでも失敗はあるし、判断に困る事態も起こるの。長く仕事している人でもそうなんだから、新人のあなたはそんなに怖がることはないわよ。そりゃあ、ミスしないでくれたら助かるけど」
「ご迷惑をかけないように頑張ります。私の指導担当が西岡先輩のように優しい方で、本当に良かったです」
私の言葉に、先輩が意地悪そうにニッと口角を上げた。
「甘いわね、優しいのは最初のうちよ。私の厳しさは、その辺の男性よりも上なんだからね。三日もしたらビシビシいくから、覚悟しておきなさい」
「……よ、宜しくお願いいたします」
少しだけ引き攣ったものの、私はなんとか笑顔で返すことが出来た。
面倒見のいい姉御肌の西岡先輩に優しく厳しく指導を受けながら、午前中は終了した。
先輩に頭を下げ、一旦自分の席に戻る。メモを読み返して清書をしていると、入り口から私を呼ぶ声が聞こえた。
振り返ると、泉野さんがヒラヒラと手を振っている。
「ちょっと待ってて」
私はデスクに広げていたメモを片付け、財布を手に立ち上がった。扉へと少し急いで歩み寄ると、途端に泉野さんが大きな声を出す。
「ゆっくり歩かないと駄目でしょ!」
「もう平気。痛みもすっかりなくなったし」
入社式で足を滑らせたことに懲りたのか、今日の彼女は低いヒールのパンプスだ。苦笑を浮かべている私を、身長差のある泉野さんが下から睨み上げてきた。
「捻挫は癖になるんだからね。そうやって油断しないの!」
ムウッと口を曲げて睨んでくる様子は、やはり一番下の妹と同じ。だけど私を心配してプリプリしている泉野さんの前で噴き出してしまうと、彼女が更に怒り出すことは目に見えている。
私は何とか笑いを噛み殺し、
「分かった。これからは気をつけるね」
と言えば、彼女はスッと怒りを引っ込めた。
「お昼は社員食堂でいいよね?天気もいいから外に食べに行くのもいいけど、あんまり歩かないほうがいいだろうし」
「ゆっくりだったら、歩いても大丈夫だって。駅から会社まで歩いてきたんだもの」
「それでも、なるべく歩かないほうがいいでしょ。それにこの会社の社食、かなりお勧めだよ」
既に何度か食堂で食事を済ませている彼女が、あれこれと熱心に説明してくれる。
その話を聞きながら廊下を歩いていると、後ろから
「あれ?」
という声がした。
振り返ってみれば、私を医務室まで運んでくれた男性が立っている。彼は今日もあの日のように柔らかい笑顔を浮かべていた。
スーツをかっこよく着こなしている様子に、自然と見惚れてしまう。そして先日の事をはたと思い出して、慌ててペコッと頭を下げた。
「あ、あの、医務室まで運んでくださって、ありがとうございました」
「気にしないでいいから。今日から出勤なんだね、無事に治ってよかったよ」
屈託のない笑顔を浮かべながら、その男性がこちらへとやってくる。そして、私の横に立つ泉野さんの頭をポンと叩いた。
「コイツのせいで怪我をさせちゃって、ごめんね。そして、庇ってくれてありがとう」
さり気ない仕草と何気ないセリフに、私は微かに息を呑んだ。
―――今、泉野さんのことを“コイツ”って言った。それだけ親密な仲って事?
秘かに憧れていた男性の取った言動に、胸の中にあったくすぐったさが急速に消えてゆく。
「何で直人君が謝るの?私、ちゃんと謝ったよ!」
「芽衣はいちいち煩いなぁ。別にいいだろ、俺からも言ったって」
固まってしまった私の目の前で、二人はごく当たり前のように言い合っている。
お互いが気の置けない口調で、しかも自然と名前を呼び合っていた。どうやら私がいなかった間に、二人は恋人になっていたようだ。
―――泉野さんと出合って間もないけど、そういうことは知らせて欲しかったな。
欠勤中に何度も届いた彼女からのメールには、彼との交際について一切書かれていなかった。
プライベートな事を知らせるほど仲が深まっていないと言われてしまえばそれまでだが、泉野さんの私に対する接し方を見ていると、すっかり親友になった気でいたのだ。
騙されたとは思わないけれど、淋しいとは思ってしまう。
楽しげな二人の様子に口が挟めずに黙り込んでしまった私に、泉野さんがハッと気付く。
「ほら、直人君がゴチャゴチャ煩いから、大人しい小泉さんが呆れちゃったでしょ」
「彼女が呆れてしまったのは、絶対に芽衣のせいだね」
またしても二人が息の合った言い合いを始めてしまい、私は胸の奥で感じる小さな痛みは無表情を装うことで誤魔化すしかなかった。
しばらくやり取りをしていた二人は、
「もう、いいよ。直人君なんか知らない!」
という泉野さんの声でむりやり収束したようだ。
「行こう、小泉さん」
泉野さんが私の左腕を取って歩き出そうとする。が、それより早く“直人君”と呼ばれた男性が私の右手首をパッと掴んだ。
「え?」
彼の行動に目を丸くする私。
立ち位置として、この男性に近かったのは泉野さんではなく私だ。だからといって、彼女ではない私の手首に触れてくるだろうか。
いや、彼女を引き止めたい一心で、彼は少しでも自分の近くにいる私を捕まえたのだろう。
掴まれた手首に心臓が出来たように、ドクドクと大きく脈を打つ。放してほしいような、放してほしくないような、どうとも言えない気持ちが湧いてきて、何も言えない私。
そんな私を見て、
「気安く小泉さんに触らないでよ!」
と、泉野さんが小さく吠える。それは恋人が彼女である自分以外の女性に触れている嫉妬に違いない。
そんな彼女を微笑ましいと感じた。
こんな私に嫉妬などしなくていいのに。私などライバルになりえるはずもないのに、気にしてくる彼女の事がちょっと可愛い。
見当違いな嫉妬など必要ないと教えてあげるべきかもしれないが、まずは、
「泉野さん。あまり大声を出すと、みんなが驚くから」
と、苦笑を浮かべて現状を知らせてあげた。
「あ……」
興味深そうにこちらの様子を見遣ってくる数々の視線に、泉野さんはバツが悪そうに視線を泳がせる。
そして私はいまだに手首を掴んでいる男性に視線を向けた。
「放していただけますか?」
出来る限り普段どおりの声で、心の奥で漂うモヤモヤした感情を表に出さないように気をつけながら告げる。
すると男性はサッと顔を赤らめ、
「ごめん、つい勢いで」
と言って頭を下げ、私の手首を解放した。
「何が、“つい勢い”なのよ。まったく、油断も隙もないんだから」
「バカなこと言うなよ!」
再びじゃれ始めた二人に、私は苦く笑う。
「こんなところで痴話げんかしないで。犬も食わないって言うでしょ」
泉野さんに苦笑しながら告げると、
「へ?」
「は?」
二人が同時にキョトンとした顔でこちらを見てきた。その様子に、私もキョトンとなる。
―――あれ?何か言い間違えた?“犬”で合っているよね?猫じゃなかったはずだけど。
首を傾げる私に、二人が同じように『違う、違う!痴話げんかするような間柄じゃないから!』と繰り返していた。
KOBAYASHIは社内恋愛を認めているのだから、あえて隠す必要などないのに。それでも必死で『違う』と言い続ける二人に、
―――そうか。周りに秘密にしておきたい人だっているよね。
と、心の中で呟く。
交際することについて会社で容認されているとはいえ、だれもかれもが付き合いをオープンにしたいものではないのだ。静かに愛を育みたい恋人同士がいてもおかしくないのだ。
自分の考えにストンと納得した私は、自分がどこに行こうとしていたのかを思い出す。
「もう何も言わないから。それより早く食堂に行かないと、休み時間がなくなる」
左腕に巻いてある時計を二人に見せ、私は食堂に向かって歩き出した。
社食で、何故か三人で食べることに。四人席が空いていたので、泉野さんと彼が並んで座り、その向かいに私が一人で座った。
それぞれが注文したメニューを食べ進めながら、他愛のない話を交わす。
そこで直人君と呼ばれていた人の苗字は駿河で、彼が営業部であることを知る。
ちなみに、泉野さんは研究開発部だ。文具マニアを自称する彼女は、面接の時に『KOBAYASHIに入社したら、こういう商品を作りたい』という図案を何枚も面接官に見せたと言う。
小さな体にバイタリティが溢れている泉野さんは、駿河さんと賑やかに会話をしながら昼食を食べていた。
二人の雰囲気はとても楽しそうだ。入社後すぐに付き合いだしたとしても、それほど日数は経っていない。
それなのに二人はテンポよく会話を交わし、親しげに笑顔を交わしている。よほど気が合うという事なのだろう。
二人が醸し出す仲のいい空気の中に入れない私は、黙々と箸を動かし続けた。