(1)入社式当日の出来事
日本で最も有名な文具メーカーKOBAYASHI本社では、現在、入社式が間もなく終わりを迎えようとしていた。
錚々(そうそう)たる顔ぶれの上司達から厳しくも温かいお言葉をもらい、私をはじめとする新入社員たちにやる気が静かに漲ってゆく。
最後に専務からお言葉を賜り、式は無事に終了した。
私は目線だけでソッと周囲を窺う。
厳しい就職戦線を潜り抜けた私たちの間には、一種の連帯感があった。仲間であり、同時にライバルでもある。
心強くもあるが、いい意味での緊張感も与えてくれる。第一志望の会社に就職できた私は、口元を僅かに緩めた。
この会社は色々な面で自由だ。例を上げると、社内恋愛もそうだし、異動も申請が通れば可能である。その分、『自己責任』という言葉が重く圧し掛かるけれど。
まぁ、いっぱしの社会人となるのであれば、どんな場合も基本的には自己責任というものが付いてまわるものだ。特別面倒な事ではない。
姿勢よく座り続ける為にピンと張り詰め続けた背筋をソッと緩め、そんな事を考えている私こと小泉 桐子は、明日から人事部で勤務することになっている。
大会社の本社で働くことに対する緊張感は相当なもので、どちらかというと内向的な性格の私が人と関わる人事部でうまくやっていけるかどうか、かなり不安だ。
だけど、そう簡単に根を上げるつもりはない。この部署に配属辞令が出されたのは、私にやっていける可能性があるからということだろうし、早々と尻尾を巻いて逃げたくはなかった。
内向的なくせに変な所で負けず嫌いな性格だが、その負けず嫌いがあったからこそ、こうしてこの会社に入社できたのだから、ある意味ありがたい性分だ。
それに、頑張っても頑張っても、どうしても駄目だというときは、異動届を申請すればいい。人によってはそれを『逃げ』と受け取るかもしれないが、心身ともに潰れるまで己を犠牲にする必要などないと思う。 あくまで、個人的な意見だけどね。
逃げずに戦い続ける人のことは素直に立派だと思えるし、その精神力は尊敬に値する。しかし、それが自分に出来るのかは別の話だということ。
そう思い至れば、これからの勤務に対しても、気持ちはだいぶ楽になった。
入社式会場の出口に近い人から席を立って、順に外へと向かう。まもなく自分の番だという時に、隣に座る人物が声をかけてきた。
「ね、お昼はどこで食べる?」
屈託のない笑顔で話しかけてきたのは、泉野 芽衣。席に座ったとたん、先に来ていた彼女が胸に付けられている入社式会場入場証を見て、
『小泉さんっていうのね。私、泉野。二人とも“泉”が付くし、何か縁を感じるなぁ。これから宜しくね』
と、今と同じように明るい笑顔を向けてきた。
初対面の人にこうも素直に話しかけることの出来ない私としては、彼女の行動に一瞬面食らった。が、その笑顔はとても無邪気なもので、私の警戒心はスルリと解ける。
『こちらこそ宜しく。泉野さんって、もしかして末っ子?』
『うん。どうして分かったの?』
『一番下の妹に雰囲気が似てるなって』
『へぇ、小泉さんはお姉さん?』
『そうよ。弟と妹が二人ずつなの』
『やっぱりねぇ。いかにも“お姉さん”って感じがする』
体の前で腕を組んで、フムフムと頷く泉野さん。それは、この春、小学校に入学する歳の離れた妹が最近得意気に披露する仕草と同じだった。
つい、軽く吹き出す。
『何で笑ったの?』
不思議そうな顔をする彼女に、
『ごめんなさい、末の妹と同じ仕草をするものだから』
と答えた。
『その妹さんって、いくつ?』
『……今年、小学生になったんだけど』
私の言葉に、彼女がちょっとむくれた顔になった。
『そんなに子供っぽかった?』
『あ、あの、バカにしたわけじゃないの。すごく可愛らしかったから、それで……』
身長160センチの私よりも7センチほど低い彼女の顔立ちは、どちらかといえば童顔で可愛らしいのだ。
お世辞ではなく素直に答えたら、彼女はニコッと笑った。
『小泉さん、すっごく優しい顔して笑ったから、馬鹿にしたんじゃないって分かってる。拗ねて見せたのは冗談だからね』
そう言って、彼女はもう一度ニコッと笑う。
『優しい小泉さんが同期でよかった。式が終わったら、一緒にご飯食べようね』
『私も、あなたのように明るく話しかけてくれる同期がいてよかったわ』
二人で目を合わせて微笑み合った。
そんなやり取りを経て、すっかり仲良くなった私と彼女は、どの店でランチを食べるか相談しながら歩いてゆく。
そして、間もなくロビーを抜けるといった瞬間、右隣の彼女がいきなりバランスを崩した。
彼女は自分の低い身長を気にしてか、ややヒールの高い靴を履いている。履き慣れていないらしく、足をとられてしまったようだ。
「危ない!」
とっさに手を伸ばし、彼女の左腕を掴んでグイッと引き上げる。
しかし私の方が身長があるとはいえ、彼女を支えるほどの力はない。踏ん張った際、左足首に嫌な痛みが走った。
思わず顔を顰める。
「大丈夫!?捻挫したんじゃない!?」
体勢を立て直した彼女は、青い顔をして今度は私を支えてくる。そんな彼女にしがみ付きながら、弱々しく微笑みかけた。
「そうみたい。歩けそうにないから、ランチに往けないかも。ごめんね」
「もう、謝ることじゃないでしょ!医務室に行こうよ」
「でも……」
「私たちはまだ仕事をしていないけど、正式な社員だよ。医務室に行っても悪くない!」
小柄な彼女が、クリクリした目を大きくして声を上げる。その様子に、周囲にいた人たちがこちらに気遣わしげな視線を送ってきた。
その中から、小走りで駆け寄ってきた男性が一人。
「医務室に行きたいって、どこか怪我でもしているのか?」
紺地に薄いグレーのストライプが入っているスーツをビシッと着こなしている背の高い男性が、こちらに声をかけてきた。
「……あっ」
「……えっ」
彼女とその男性は顔を見合わせた途端に小さな声を上げたが、痛みを堪えている私の耳には届かない。
「あ、あの、私を庇って、彼女が足を捻挫してしまったみたいで」
痛みで話せない私に代わって、泉野さんが説明をしてくれる。それを聞いて、
「それならすぐに処置しないと。君、歩ける?」
男性に尋ねられ、私は
「大丈夫です」
と答えた。
その人の胸には入社式会場入場証はなく、スーツを見事に着こなしているので確実に先輩だろう。年の感じは、私よりも二、三歳上といったところ。高すぎず引く過ぎない声は、とても好感が持てる。
そんな素敵な先輩を前に、足を滑らせて捻挫してしまった自分が恥ずかしくなり、
「場所を教えていただければ、一人で行けます」
と、強がりを口にしてしまった。
ところが、
「遠慮している場合じゃないだろう。ちょっとの間、我慢してくれる?」
そう言って、その男性は私を掬い上げるようにして横抱きに。
「きゃっ」
突然体勢と視界が変わったことに驚いて声を上げてしまう。
「周りに見られて恥かしいだろうけど、医務室までだから。スカートを穿いている君をおんぶしたら、裾が上がってしまうしね」
いきなり抱き上げられてびっくりしている私に、優しい視線を向けてくる男性。
「い、いえ、その……、私、重いですよね。ご迷惑をお掛けして、申し訳ありません」
ちょこんと頭を下げると、
「体質で太れないのかもしれないけれど、君はもう少しふくよかになってもいいくらいだ」
という言葉が返ってきた。
「そ、そうでしょうか」
「ああ、身長の割には軽いほうだと思うよ。さて、落とすつもりはないけど、しっかり掴まっていて」
痛みを我慢している私を慮ってか、その男性は柔らかい笑みを浮かべてくる。
「は、はい」
私はその男性の胸にうずくまる様に身を寄せ、肩に手を置かせてもらった。
周囲から向けられる視線よりも、この男性から伝わってくる体温のほうが恥かしくて、私は伏せた顔が上げられなかった。