7
私は父と母を愛していて、父と母から愛されていると思う。だからといって私が家族を愛しているとは言えないし、けして家族から愛されているとは思っていない。
有希乃は虚弱さから竜瑙の二の子としての義務を背負えないから代わりに私が負うことになった。二の子として教育も受けることとなり、物心が着くと母と有希乃の暮らす保養地から離れて、都で暮らし始めた。
今では季節の変わり目であったり用事があれば届いている手紙も、十になるまで十日一度は届いていた。母の手書きの手紙、偶に添えられた贈り物は母がに選んだ物だったり、時には手作りの物だ。
――しかし、一緒に暮らしている有希乃はどうだろう?
父は都での務めと領地の巡回などと尊き一華として忙しい。屋敷にいることはあっても、務めの都合であるか、また跡継ぎである兄の教育の為だ。けれど時間短くとも出来るだけ顔を合わせる機会を作ろうとしてくれている。運が良ければ父から手ずから指導をして貰えた。
――けれど、お父様はお母様と有希乃の暮らす屋敷に月に一度訪れて、叶うなら何日か泊まっている。
都で暮らすようになった当初は兄と共に半年に一度は保養地へ向かい、数日を過ごしては都に戻る習慣が出来た。体調が良いからお茶会を開きたいとの言葉が母からであれば一も二もなく頷くけれど、日向にいるだけで萎えてしまう有希乃の誘いとあっては呆れ果てるしかない。
でも、渋面の兄が甘える有希乃に何であれ折れるのはいつものこと。そして部屋にいたいと言う私に情のない奴だと溜息を吐いてから無理にでも参加させる流れも、多少経緯が異なっても変わり映えしない。どうあっても変わりないことに気付いてからは諦めた。
――私が頼んでもお兄様は遊んでくれたこともないのに。
「有嘉梨、いつもごめんなさい……私も有嘉梨みたいに強くなりたい。強くなってお父様達のお手伝いをしたいなぁ」
自慢の妹だと嬉しそうに、けれどもどこか寂しさを漂う笑顔を向けてくる有希乃。慕わしい心も露わな、たくさんの目に囲まれて。虚弱な体であってもその気持ちに応えられるよう務めを果たしたいと口にする、私の姉。数えるくらいしか屋敷から出た事がなくても、當生様の婚約者候補になった竜瑙の二の子。
――私は嫌いだ。体が弱くていつも苦しんでいるなんて関係ない。有希乃が大嫌い。心底から大嫌いだ。
冷たい。
「っ……」
そして、痛い。顔を顰めて目を開いた。
「お嬢様……っ」
一瞬、周囲の気配が波打つのを感じた。その余韻の中で囁きが交わされているが、一つ一つを拾い上げてはいられなかった。動揺の一度目、曖昧な二度目より痛みが酷い。冷たいと感じたのは頭に敷いた氷嚢だった。
どうにか目を開いて見れば、主に二の侍女である咲江の下で従事する集の侍女が三人――扉、窓辺、そして傍らにいた。いつの間に屋敷に戻ったのかと思ったけれど、良く周りを見ればの繰尾の一室で変わりなかった。
瀞がいない。冴璃もいない。目が覚める度に侍る者達が代わるのはどうしてだろう。体の痛みと重さで文句を一つ口にするのも億劫だから放っておくけれど、忙しくて仕方がない。主である私が不快であると分からないほど鈍くもないだろうに、皆が皆安堵の表情を浮かべていた。傍らの集を訝しげに見遣った。私や瀞より十も越えて上の、この中では最も付き合いの長い侍女は深く一礼して口を開いた。
「四の侍女より知らせを受け参りました。数位を動かすとなればお嬢様の大事が広がり屋敷の者のみならず従家へ影響する為、勝手ながら集の侍女五人を参らせた次第。一の位、三の位両人、五の位の意でございます。集の身でありますがお嬢様が屋敷へお戻りになるまでの間、佳駕音が十の子、トネが数位六の侍女として振る舞う事お許し下さい」
既に醜聞が既に屋敷中に広がっていた。ならば、屋敷で修練していた兄も聞き及んでいるだろう。
仮初めとは言え六の侍女の位を与えられているなんて信じられない。数位最下の位でも、数位は数位。主である私への進言が許される。許しがあるまで発言できない集の侍女では埒が明かないが為の特例だろうけれど、軽々しく与えられる位ではない。
都の屋敷に控える一の位が。奉公人の頂点、父と母にとっての一の侍従。規律を重んじるその男が特例を許す程の事に、私は手を染めてしまったの……?
――――終いには貴族殺しか。
兄の嘲笑をありありと思い描いてしまい、ぞっとした。杲の華が、竜瑙当主の娘が下級とはいえ貴族を殺す事はどれほどの罪となるのか。当て嵌まるような事例もなくて想像出来なかった。幾ら六華であっても長い歴史の中で全くしくじりがなかった訳ではないけれど、杲の命でも戦でも政略でもなくただ取り乱した結果、貴族を衆目の中で殺したなど聞いた事がなかった。
つまり私が悪しき先例になってしまった。
「お嬢様、お加減は如何でしょうか?」
更に加えて、瀞との遣り取りを思わせる問いが続いた。先とは違って、体も頭も痛むが平気だと返しておく。そうでもしなければ休むようにしか言われず、話の続きが聞けなくなってしまいそうだった。集の辛そうな面持ちへ侍女の心構えを思い出せと言いたくても、自身の失態を思うと口が重くなったので最も気になる事を尋ねた。
「……お父様にも知らされるのかしら」
尊き一華、方鐸の弟君が偶然にも支の屋敷へ立ち寄る事はまず有り得ない。恐らく、竜瑙か謳示の名に応じる形で足を運ばれたのだ。ただの下級貴族である支に三華の直系が揃うなど大事、父の耳に届くのは確実だ。それは変えられないだろうけれど、何か手はないのだろうか。まずは弁明をしなければならない。だって、私の所為だけじゃない、あの女も、いや、あの女が悪いのだからその点を明らかにすれば父も納得して下さるに違いない。
「此度の件について屋敷に控える一の位を筆頭に三の位両人並びお嬢様の一の侍女、連署の上で尊き一華、竜瑙の下に急使を遣わせておりますが、お戻りは早くとも明後日となります」
「……」
領地の中でも比較的都に近い鉱山に向かわれている予定だから、もしかすると間もなく届くかもしれない。必ず耳に触れるだろうとは思っていたけれど、一の位を用いた急使の知らせとあれば事の重大さが分かるというもの。
ご安心下さい、と告げられた気もするが、書簡の内容も分からないのにどうして心安らかになれるのか?だって、連署した者達は私の一の侍女である里実を除くと、私を良く思っていない。
「……」
「お嬢様?」
視線をあちらこちらと動かす。体が動くものなら部屋中を歩き回っていた。一つに落ち着きたくなかった。落ち着いて、考えて。そして、思い浮かんだ光景など直視したくなかった。
皆が見ていたならばしっかりと言い含めておけば……駄目、あの場にどれだけ竜瑙の末連なりがいたのかさえ覚えていない。もし六華に敵愾心を抱く者ばかりだったら?竜瑙を貶めようとする不逞の輩がいたら?
「……ぅ」
竜瑙を、ではなく。
「……どうしよう」
私を厭う輩は掃いて捨てるほどいただろう。だって、私は悪道者。傲慢無礼の悪徳令嬢であると他でもない私が肯定していた。
それに――――末連なりを纏める定嗣の四の子を打った。一の子ではないが、本家直系の子だ。分家の子とは訳が違う。竜瑙に古くから仕える従家ではあるけれど、定嗣に仕える従家もあるのだ。打った事も冴璃に打たせた事も当然の事だと私は思う。けれど、定嗣やあの男が逆恨みして悪し様に話を広めたらどうなる。今回の宴に澳篭寄りの滋實もいたが、滋實は澳篭の従家ではない。定嗣の動き如何によっては実利を重んじてくるかもしれない。
尊き一華、竜瑙の子ではあるけれど。だって、三の子なのだ。まだ、一の子も……弱くても二の子がいる。
失望される。見捨てられる。嫌われる。兄は疾うに手遅れだが。今度は當生様に――――今まで私がしてきた事を知った父と母は?
――――お飾りであれば、二の御子様で十分だというのに。
――――お飾りなど……ましてや、比べるなど二の御子様に失礼だろう。あの方は……。
――――全く儘ならぬものだ。三の御子様があれほどお元気でいらっしゃるというのに。
――――……本当に。
「戻る、屋敷に戻る!」
もう寝ている場合ではなかった。一刻も早く屋敷へ戻り支度を調えて父の戻りを待つ。一の侍女の里実と二の侍女の咲江は分家、四の侍女の瀞は本家と違いはあるが澳篭の子。何とか澳篭に渡りを付けて滋實を抑えて、定嗣を取り成せばいい。母より年嵩で経験を重ねてきた里実ならば、もっと妙案を出してくるかもしれない。とにかく、話を聞かなければ。
「何を」
「離してっ、平気、平気だもの!」
起こそうとした体を押さえるトネから身を捩った。体の痛みを慮るのは後でも出来るけれど、進退決まる機会を逃したら後がない。
「お嬢様、後生ですから……」
体調の悪さに加えて相手は年上の侍女。抗っても体が軋むだけだ。
扉が叩かれた。
重く響いた音に血の気が下がるのを感じながら、辛うじて誰何すれば方鐸の名が名乗られた。
先導に私の集の侍女。侍従侍女を連れた方鐸。但し、一の弟君ではない。
外邦を模した一室に、私を除いて皆が曉衣。宴の前、竜瑙の別宅での準備を思い出させるが、心の有り方はまるで異なった。
「やれ。尊き一華、竜瑙始めに従家は随分と三の御子殿を大切になさっているようだ」
嘯いて微笑む様が癇に障る。二十半ばに見えるこの男は方鐸が四の弟、世十と名乗った。尊き一華、方鐸が四の弟君は妾の子。妾と言っても正式に方鐸が迎えた妾の子だから方鐸と名乗る事が許されているのだ。あちらにとって恥じる出自ではなく、こちらは礼をもって接するべき相手である。
だが、あからさまに侮って幼子扱いしてくる態度には相応の接し方をしても問題にはならないと思う。台上の外邦燈筒へ手を伸ばす余力はないが、無理を押せば枕くらい投げられる気がする。集の侍女からの制止の視線が煩わしい。そんな物を向ける前に主の不快さを一掃すべきではないか。
「我が君。他華の在り方に意を口にするのは度が過ぎます」
連れた年上の侍従に物言われる恥も然して気にした風もなく、寝台に横たわる私を薄い緑の目でしげしげと眺めてきた。彼は私の容態の診察に来たのだと告げて寝台の傍らに立っている。直ぐ後ろに控えた侍従の顔色は入室当初よりも一層悪くなっていた。私や集の侍女達の視線も一因だろうけれど、最も察して欲しい相手が気に掛けないのだから苛立ちは増すばかり。
方鐸は幅広い商いに根差すが大本辿れば医術に通じた者による薬売り。石に関して竜瑙に並び立つ者なしと同じく、医術薬術の分野で方鐸は名実伴い群を抜いている。その一華の子であればその力に疑いはない。しかし、そもそもこれが四の弟君か疑わしくなってきた。
一の弟君とは異なり、四の弟君は少し灰色が混じったような色合いの目だ。髪は灰色。曉衣の緑も深い色と言うより、黒に近い。髪や目の色については私自身が悩む所なので何も言う気はないけれど、尊き一華、方鐸の弟君としてこの振る舞いは有り得る物なのだろうか。年若いと言っても二十も半ばだろうに、尊き一華の子である私に対して無礼だ。私は妾腹ではなく正妻の子だというのに馴れ馴れしい態度は何なのか。
――――罪人には礼など不要と?
背筋がひやりとした。
「今のご気分は如何かな?」
それは体の調子ではなく機嫌の事だろうか。どちらであれ、返すべき答えは同じだ。
「平気です」
「あまりよろしくないか」
集の侍女の顔が白くなった。方鐸の連れ達の顔もそれに倣った。
「篤信殿が手を施したのだから御身に何かあるという訳ではないからね。誤解しないで頂きたい。今ある痛みは治療の為の術力を急に受けた反発による物だ。それも峠を越えるまでは痛みを紛らわせていたようだから、名残と言っていい」
私に話し掛けてはいる形だがその実、集の侍女達に言い聞かせている。
「後、半日は伏せていた方が良いな。無理に体を動かせば痛みが長引いてしまう」
「そうですか。それでは屋敷に戻って身を休める事にしましょう」
伏せたままではあるが言葉だけは常と変わらぬよう、努めて口にした。それなのに四の弟君は芝居がかった溜息を吐いた上、寝台に片手を付く。その不作法を咎める前に、私に顔を寄せた。
「あの方は方鐸の名でもって施術された。御子殿はその心無下に扱われるような振る舞い、まさかなさらないでしょう?」
囁きに返す言葉も詰まる。
「尊き一華、方鐸が四の弟君に失礼ながら申し上げます、お嬢様の身を案じお出で頂いた事承知しておりますが幾分間を置いて頂きたく存じます」
眼前にある優美な笑みが集の硬い声に一転、つまらなそうに身を起こした。父以外の異性――侍従はそもそも奉公人に過ぎないのだから異性という括りにない――それに近寄られて知らずと強張っていたらしく、遠退いた姿に身が一度震えた。
「聞きしに勝る可愛がりようだ」
「物の数にも入らぬ身の申し出をお許し頂き有り難く存じます」
始めより冷めた声と未だ硬い声。それでもまだ耳にしていられるのは、不躾な興味本位には先の顕職に通じるような侮蔑の含みがないからだろうか。不快に感じるのはどちらも同じだけれど。
集の侍女に任せていては通る物も通らない。意を決して四の弟君に声を掛ける。
「……とにかく、私は屋敷に戻ります。支の屋敷などでは落ち着きませんもの。身の傷みが続いたからと方鐸を誹るような事は無論致しません。忠告よりも我を優先させたが為と耐えましょう」
「華の屋敷と比べるのは余りに憐れ。けれど一夜過ごすのも耐えられない?あぁ、三の級の顕職殿が勝手に訪れる事はないのでご安心を」
「無礼な、私が逃げ戻ると仰るのか」
反射的に身を起こしかけて、顔を顰めた。集の侍女に直ぐ支えられたが、見苦しいに違いない。
「おや、御子殿の御心を乱すのはあの顕職殿ではないと。ならば、御子殿の四の侍従かな。私が先に処置し今は篤信殿が手を施している最中ではあるけれど当分は動けそうにはないから望めば顔を合わせずに済むと思うが……それに、幾ら心許ないからと急ぎお戻りになったとしても尊き一華、竜瑙にはお会いになれないだろうに」
何という物言い。流れ出る言葉に唖然とする。
「そうか、謳示が一の御子殿か。けれど既に此度について耳にされた上でお戻りになっ――」
「何よ!」
當生様にまで触れられては耐えられなかった。黙らせたくて掴み掛かろうとしても、侍女の腕の中で身を捩った程度にしかならなかった。礼儀も何もこんな男には不要だろう、ただ、今日だけで何度も繰り返した文句だけで噛み付いた。
「お嬢様っ」
「黙って聞いていれば……ふざけないで!」
四の弟が驚いたように、けれどどこか態とらしく目を瞠る。
「可愛がるにも加減を間違えていらっしゃらないか。尊き一華、竜瑙殿も子煩悩正しくとばかり」
「うるさいっ、出て行って!」
「我が君」
呟きを拾い、喉を引きつらせて叫ぶと方鐸の侍従の低い声がぶつかったが気にせずに続けた。
「屋敷に戻ってもいいでしょう、沙汰から逃げるなど無様な真似を尊き一華竜瑙が三の子がするとでもお思いか!」
ふと眉を寄せたようだが、もう何も語らせる気はない。
「罪人と侮るのは沙汰の後で好きになさいな!」
静かになった部屋の中で私の荒い息がよく聞こえた。四の弟が黙して見遣る先にいた侍従は、息を切らす私の様子を窺いながら口を開く。
「集の侍女殿にお尋ねする。尊き一華、方鐸が一の弟君がお出でになるまでの間に尊き一華、竜瑙が三の御子様へ顕職殿は何と告げられたか。此度の件について裁断が下されると告げられたのか?まさか御子様が仰ったような誹りを口にされた訳ではないだろう?」
「お応え致します。お嬢様は顕職殿とお会いにはなりましたが、言葉の中、此度の件に関して未だ触れていないとの事確かでございます」
「……そうでなければこの程度で済む筈もございませんので、我が君、まず間違いはないかと存じます」
一体何なの、と口を挟みたくとも体を無理に起こしたせいか、筋が節が痛い。頭も痛くて、気持ちが悪くなってきた。
「御子殿にお尋ねしよう、貴女の仰る罪とは一体何を指している?」
「……」
罪などない。そう言い切ってしまいたい。だって、あの女が悪い。全部、あの女が。私は悪くない。竜瑙を貶め、當生様に色目を使ったあの女が悪いんだ。
「……定嗣の四の子について顕職殿は無論、他華が物言う立場にない。竜瑙家内内で決まりをつける事だ」
顎を摩って四の弟が宙を見た。
「私に対する言い様は無礼と言えばそうだが、そうと意識していらっしゃる訳ではないようだ。であれば支の宴での騒ぎかな?」
――結っていない髪が靡いた。見開いた目と同じ、黒が広がっていた。
視線が注がれているのを知りながら掛け布団を握り締めて俯き、黙ったままでいた。不用意に言葉を口にしてこれ以上状況を危うくしたくない。
「勿論外聞良くはないが……その一因に私達方鐸も関わっていないと言い切れないので余り悪し様に仰って欲しくはないのだがね」
――方鐸?
思わず、四の弟を見上げた。
「それを御子殿が罪と仰るならば、末とはいえ方鐸が連なりの者が他華直系に害を為した事実は如何に扱えば収まりがつくか」
暢気な口調についていけない。しかし、それは私だけのようで華の従家諸共が気を尖らせた。
「……あの女、方鐸の末連なりでしたの?」
見下ろしてきた目は先とは異なり、真実驚いたように瞬いた。
「いや、御子殿に触れた少年の事だよ」
一体、何の話をしているのだろう。