【7】涙の理由(わけ)
「あたし、チカさんとはよく一緒に食事とかしたんですか?」
その日の夜、国道沿いのステーキレストランに真夕と千夏の二人は入った。ファミレスでは味気ないからと、千夏が選んだ店だった。店員が可愛らしいチロリアン風のドレスを着てオーダーを取りに来た。
千夏はひと通りオーダーを済ますと
「ええ、かなり頻繁に」と、言って笑った。
彼女は、和弥から電話を受けた時、和弥と小夜子は真夕のGIDの事は、本人が思い出すまであえて言わない事にしたと聞かされた。
母親にしてみれば、GIDで苦しむ我が子が正常な娘になったのだから無理も無い。
千夏にしてみても、未来が決して安泰ではない真夕との恋愛には、潮時だったのだと思うようになっていた。いや、無理やりそう思うようにしたのだ。
だから、これからは再び女同士。もともとそこから始まったのだから、大丈夫。
彼女は真夕の意識がなかなか戻らなかった時、もう元気な真夕には会えないかもしれないとさえ思った。もう、あの弾けるような笑い声も聞けないのではないかと思った。
その時の恐怖と張り裂けそうな胸の苦しみに比べれば、今はこうして再び真夕の笑顔を間近で見ていられる。
これからも、変らずに彼女の元気な姿を見ていられる。
千夏は自分の心にそう言い聞かせるのだった。
真夕は、千夏が笑顔のまま俯いた時、テーブルに雫が零れ落ちるのを見た。
「ごめんなさい、ちょっとコンタクトが……」
千夏は席を立って、化粧室へ駆け込んだ。
真夕は、訳がわからず、ただそれを目で追うことしか出来なかった。
稲刈りの終えた田んぼは何も無い。その広大で遮るものが何も無い地面を、這うような北風が何処までも吹き荒ぶ。
畦道や歩道の端に茂った枯れ葉色の雑草は、バサバサと音をたてながら大きく折れ曲がるほどに靡いていた。
その風向きに逆らって、真夕は自転車を走らせていた。
中学の頃は徒歩通学だったので、稲刈り後の田んぼを、よく対角線状にショートカットして行ったものだが、自転車ではそう言うわけにもいかない。
何時もは学校まで約20分。しかし、田んぼを吹き抜ける向い風が邪魔をして、今日はなかなか前に進まなかった。視界の隅に何かが飛んできたので、真夕は慌てて身を屈めたが、白いコンビニ袋が風で舞って来ただけだった。
「ムギー!ムカツク。何よこの風、あたしの登校を妨害する気」
風圧で頬が歪み、もはや、強風で捲くれるスカートを気にする余裕もない。
前方には、同じく風に逆らって必死で自転車を走らせる同じ学校の生徒の姿が数人見えた。
真夕はムキになって、ギヤをあげた。
「やってやろうじゃないの」
教室に入った真夕はくたくただった。髪の毛はもしゃくしゃで、ブラシがなかなか通らずに、梳かすのにも苦労した。
見かねた加奈がブラッシングを手伝ってくれた。
加奈が通学する方向は追い風で、しかも風の影響を受け難い建物が建ち並ぶ国道側から来る。だから、教室に入って来た真夕の異常に乱れた身形を見て、ケラケラと笑っていた。
「あいたたたた…加奈引っ張りすぎ」
「あ、ごめん。あんまり頑固に絡んでるから」
加奈は笑いながら「枝毛増えちゃうね」
1限目はお陰で上の空。
しかし、理由は他にもあった。
この前の千夏の涙は、あれはなんだろう。あたしと千夏の間にはいったい何があったのか……
真夕にはまったく検討がつかなかった。
放課後、和弥を捕まえた。休み時間に千夏の事を聞いてみたが、知らないの一点張り。
何年付き合ってると思ってるの?アイツ、絶対何か知ってる。
真夕はそう確信していた。
「ねぇ、和弥。あたし、記憶を無くす前って、今と違ってた?」
男っぽさが全く無くなった真夕に、和弥自身戸惑っていたのは事実だ。女性ホルモンに支配されたような、その奥底から湧き出るよな女らしさ。
何年付き合ってると思ってんだ…… 今更本当の女になりやがって。
和弥の言い分もあったが、それを口に出すわけにもいかない。
「いや、そんなに違いは無いと思うけど」
「うそだ。和弥、何か隠してる。チカさんの事だって変だよ」
「どうしたんだよ、急に。チカさんとどうかしたのか?」
「それがさぁ………」
真夕は千夏と夕食を一緒に食べに行った時のことを話して聞かせた。
和弥は何も言葉が出なかった。
彼女と真夕がどんな付き合い方をしていたのか、正直和弥は知らない。しかし、少なくとも一般的な男女で在るかのような関係ではあったはずだ。
真夕の心が女性になったからと言って、そう簡単に割り切れるものではないだろう。
何と言っても、外観が以前とはまったく変わり無く、そのままなのだから。
「マユ……」
和弥は迷った。迷った挙句
「チカさんの事は俺にも判らない。俺は殆どカート場にも出入りしてないし……」
和弥は真夕の目を見て「お前は、お前だよ」
「本当に?」
「ああ」
和弥は何とか笑顔を作って「俺、部活行かなくちゃ」
「引き止めてごめん」
和弥は笑って手を上げると「そんなのいいって」
真夕にはわかっていた。何かある。しかし、和弥の苦悩する笑顔が不憫で、それ以上追求する事を止めたのだ。
何か違う方向から探って行こう。真夕はそう思ったのだ。