【6】丘の上
真夕は自分に対して、僅かな違和感を抱いていた。
自分であるはずの自分が、まるで自分で無いような……… それは、言葉にはうまく言い表せないような微かな違和感だった。
何故自分は、女だてらにマウンテンバイクなどに乗っているのだろう。
そんな事ひとつにも、妙な疑問が沸き起こる。
以前からマウンテンバイクに乗っていた事は覚えている。しかし、どうしてそれが気に入って買ったのかはまったく判らなかった。
スピードも出るし、普段ジーパン姿で乗り回すには重宝する。しかし、スカートではどう考えても乗りにくい。
以前は、そんな事を考えなかったのだろうか……
そして、どうして、カートなどを始めたのだろう。
女性のドライバーも確かにいるのだろうが、何故自分がそれに興味を抱いたのか、今の真夕には判らなかった。
自分が無くしたのは、記憶の一部分。それが、ただ事では無いような、そんな気がするのだった。
「ねぇ、お母さん。あたし、なんで、マウンテンバイクなんか買ったのかな」
真夕が怪我をしてから、母親の小夜子は少し早めに帰宅するようになった。
娘の事が、少しは心配なのだろう。
「どうしたの、今頃。あんた、中学の時からああいう自転車が好きだったのよ」
母親はダイニングテーブルに食事を並べながら言った。
「そうなんだ」
真夕は、それを眺めながら、怪訝な表情で言った。
「あんた、前から少し変ってたからね」
母親は、何食わぬ顔で言う。
「それは認めるけど…… なぁんか、シックリこないのよね」
「何が?」
「うぅん……… よくわかんない」
真夕はそう言って肩をすくめて笑った。
母親には何となくわかっていた。
真夕が男の心を無くした為に、微妙なバランスが崩れて、自分の持ち物や無意識な行動に違和感を抱くのだと。
しかし、真夕にはGIDだった記憶そのものが欠損しているのだ。しかも、彼女自身の過去の記憶は、GIDだった真夕を回避するかのように彼女の中では辻褄をあわせて再構築されている。それは、眼球にある盲点を脳が自動的に補正して、それを意識させない事に似ている。
だから、本人には、何故言い様も無い違和感を自分に抱くのか、まったく判らないのだ。
11月に入ると、風はもう真冬のように冷たかった。
高く抜けるような空には、平らなウロコ雲が波状に浮かんでいた。さらに、その遥か彼方には定規で引いたような細い飛行機雲が一筋描かれている。
真夕は左腕もほぼ全快した事もあり、カート場へ行ってみる事にした。両腕でしっかりとハンドルを握ったマウンテンバイクで、緩くカーブした勾配を駆け上がる。
枯れ葉色の丘越しに、青い空を見上げる。上り口から、既に微かなエンジン音が聞こえていた。
その音に導かれるように、久しぶりに上がったであろう坂道と丘越しに見る青空は、やはり、何となくだが見覚えがあった。
鬱蒼と茂る草木はすっかり秋の彩りに変っているが、何度も通った道だろうと言う事が微かな記憶の欠片の、その残像ほどには感じる事ができた。
しかしその記憶は、誰かに教えてもらわなければ、日常誰にでも感じるデジャヴーほどに微かなものだ。
坂の頂上から聞こえるエンジン音は次第に大きくなってゆく。
これが、カートの音か。確かに、蚊の飛ぶ音にも似ているが、微かに懐かしい響きだった。
それが、自分はここでカートに乗っていたのだと確信するのには充分だったが、それは、記憶が蘇えったのとは違っていた。自分の中に沸き起こる「懐かしい」と言う感情から彼女が推測したに過ぎないのだ。
大きな駐車場を横切って、プレハブ小屋のドアを開ける。
「あら、いらっしゃい」
カウンターで微笑む千夏の姿があった。少しの驚きと嬉しさが混濁した笑みだった。
「こんにちはぁ」
真夕は、少し他人行儀に会釈をする。
「おお、マユちゃん、久しぶり」
声を掛けて来たツナギの男。
それは、真夕が初めてここへ来た時、最初に声を掛けてくれた佐々木だった。しかし、今の真夕には、ただの「ツナギの男」だった。
「少し、見学していいですか?」
真夕が千夏に訊くと
「どうぞ」と彼女は微笑んだ。
「なんなら、久しぶりに乗るかい?」
佐々木の言葉に、真夕は困惑した笑みを浮かべた。
すかさず、佐々木のわき腹を強く突く千夏の姿を見て、真夕は思わず吹き出した。
コース内は、3台のカートが走っていた。風を切って走る姿は確かに気持ち良さそうだが、特に乗ってみたいとは思わない。
焼けたオイルとコンパウンドの匂いが、辺りに漂っていた。
彼女は得体の知れない懐かしさだけが込み上げて来て、目の奥が熱くなるのを感じた。
「ねぇ、今晩暇だったら、一緒にご飯でも食べない?」
千夏が声を掛けて来た。
「ご飯ですか?」
真夕は慌てて下の瞼に溜まった雫を拭った。
「ええ、退院祝いにおごるわよ」
千夏の笑顔につられた真夕は「はい」と応えた。
「あ、いいね。飯」
佐々木が後ろで声を上げたが
「ダメ。今日は女同士なの」
千夏は笑ってそう言った。
その様子を見て、真夕も声を出して笑った。