エピローグ
春の風は、暖かな陽の光に温められて、穏やかに甘く麗かに吹いていた。
アスファルトのひび割れから強く伸びたタンポポの周りを、二匹のモンシロチョウがヒラヒラと風を受けながら、踊るように舞っている。
サヤカは、それを楽しそうに見つめて微笑んでいた。
「あら、お出かけ?」
「はい。近くの歯医者さんへ検診に」
真夕は近所の主婦に声を掛けられて、そう応えた。
「定期検診はしておいた方がいいものね」
主婦は笑顔で「いってらっしゃい」
24歳になった春、マユは結婚した。
隣町へ引越し、小さなメゾネット風のアパートで暮らしていた。地元にいるよりも、その方が亭主の職場が近かったからだ。
程無く子供が生まれ、一家は3人になった。
「ほら、大丈夫よ。検診だけだから」
「だって、ワルイ所があったら痛くされるんでしょ」
「悪い所を放っておいたら、もっと痛くなるでしょ」
マユは娘のサヤカと目線を合わせるように屈み込んで
「それに、ここの歯医者さんは、痛くしないから人気があるのよ」
「ほんと……?」
「うん。だから、心配ないわ」
マユは娘のサヤカを連れて、家から程近い歯科医院の前に来た。
サヤカは今年5歳。名前の「さやか」は、何故かマユの頭に最初に浮かんだ名前で、どうしてもそれを娘につけたかったのだ。
それは以前出会った、車椅子に乗った直向な少女の記憶が、彼女の中に残っている証なのだろう。
12歳で命を落したあの少女の笑顔の記憶は、真夕の心の中に確かに刻まれているに違いなかった。
二人は歯科医院の入り口ドアを開けた。
受付には可愛らしい女性が水色の白衣を着て微笑んでいる。
受付を済ませて、ロビーのソファへ腰掛けると、早速サヤカが本棚から絵本を取り出してきた。
マユはサヤカと少しの間一緒に絵本を眺めていたが、診察室から出てきた他の患者の気配に顔を上げた。
「あ、マユ」
「ああぁ、久しぶり、香織」
診察室から出てきたのは、香織だった。香織は何処かの証券会社でOLをしていると聞いてはいたが、会うのはマユの結婚式以来だった。
「マユもここに通ってたの?」
「ううん、今日はじめて。サヤカの検診でさ」
「ここ、評判いいからね」
香織を見上げるサヤカに彼女は
「こんにちは」
「こんにちはぁ」
笑って挨拶するサヤカと真夕を見比べて「やっぱり親子って似るのね」
「痛くなかった?」
サヤカが香織を見上げたまま訊いた。
「うん。全然。お姉ちゃんも痛いの嫌いだもん」
安堵の笑みを浮かべるサヤカに、香織とマユは思わず顔を見合わせて笑った。
すると、サヤカの名前が呼ばれたので、真夕は立ち上がって娘の手を取り診察室へ向かった。
「じゃあね香織、今度電話するよ」
「うん、シテシテ。和弥は元気?」
「毎日元気」
「和弥にも宜しくね」
香織はマユが診察室に入ってドアを締め切るまで、手を振り続けた。
「今日は検診ですね」
歯科医師が優しく微笑んで言った。
しかし、サヤカに付き添って横に立っているマユの顔を見ると、医師は視線を止めた。
「刑部マユさん?」
「は?あ、はい。今は三浦ですけど、旧姓は刑部です」
マユは、自分を見つめる医師に
「あの…… なにか?」
その医師の瞳は、中年男性にしてはやけに綺麗で澄んでいた。
「あ、いや、何でもありません。可愛らしいお子さんですね」
長岡歯科クリニックの医師は、そう言って再び微笑むと、サヤカに向かって
「はい、お口あけてね」
「あぁぁん」と声に出して口を開けるサヤカの姿に、真夕は目を細めて微笑んだ。
THE END
Dear Girl ― Girls Memory 完結
これで刑部真夕の話はお終いです。一作目はマユの心の動きが中心だった為一人称で書きましたが、二作目は困惑する周りの心情を大事に描きたかった為、三人称方式を取りました。違和感が無ければ幸いですが…。前作から長々と読み続けていただいた皆様には、大変感謝いたします。まだまだ未熟な作品ではありますが、ご感想はお気軽にお書き込みください。