【21】雫
大気は白く煙り、草木は冷たいコートを纏う。屋根の庇から伸びた氷の剣は、朝の太陽に照らされて透明な光の輪を発していた。
翌朝、凍てつく寒さの中、和弥達の一家を乗せた車は、静かに住み慣れた我が家を後にした。
「父さん、右から行って」
和弥が言った。
「でも、遠回りに…」
母親がその言葉を遮るように「あなた、そうしてあげて」
微かに残った路面の雪が凍って、それをタイヤが踏み締める乾いた音が、朝の冷たい空気に響いていた。
和弥は、真夕の家の前を通ったとき、彼女の部屋をそっと見上げた。
閉ざされたカーテンが微かに揺らいだように見えた。
その時、玄関のドアが開くのが見えた。
「あら、小夜子さんだわ」
和弥の母親がそう言うと、父親は車を止めた。
真夕の母親が、玄関からサンダル履きで駆け出して来たのだ。
「元気でね」
「たまには連絡頂戴ね」
母親どうしで笑顔を交わすと、小夜子は「元気でね、和弥くん」
和弥は車の窓をいっぱいに開けながら強く頷いて「お世話になりました」
小さい頃は、何だか母親が二人いるような気がしていた。
あまり家にはいない真夕の母親だったが、何だかとてもお洒落で、会うといつもイイ香りがして、よく自分の母親と交換したいなどと勝手に思った事があった。
車が走り出すとき、小夜子は
「またね!」
笑顔でそう和弥に言って、手を振った。
路地を抜けていく車の姿を、真夕は部屋の冷たいガラス窓に手を当てて、カーテンの細い隙間から静かに見送った。
彼の前に出れば、涙が止まらなくなってしまうと思った。そして、自分の涙に和弥は困惑してしまうだろう。
「明日はこっそり見送るね」
真夕は昨日、夕間暮れのほの暗いベッドの中で、和弥に寄添いながらそう言った。
「ああ、それがいいかも」
和弥は、何時ものように優しく微笑むと
「俺、決めたよ。ぜったいに、また逢いに来る。マユに逢うために戻ってくるよ」
真夕は和弥の胸のなかで、それを聞いていた。
「でも、もしも…… 俺よりいい奴が見つかったらさ……」
真夕は顔を上げて和弥の瞳を見つめながら、自分の人差し指を彼の口に当てた。
たぶん…… 絶対に、和弥よりあたしを判ってくれる人はいないよ。
真夕はそう言おうとしたが、結局言葉に出さなかった。
でもそれは、和弥に届いたような気がした。
薄明かりの中でも、二人の瞳の輝きは、お互いにはっきりと確認する事ができた。
車影が消え、走り去るその音も小さくなって、朝の澄んだ空気に呑み込まれてゆくと、再び凍てついた静寂だけがそこには残っていた。
「またね、和弥」
真夕は小さく微笑んで、そう呟いた。
東よりの低い太陽が真夕の頬を眩しいくらいに照らし出して、一粒だけ流れた雫が唇の端に触れると、
寂しさと切なさと……ちょっぴり希望の味がした。
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ロングメール
DATE:6/4[23:43]
TO[KAZUYA]
Title[Re:元気かあ]
Text
『私は元気だよ。
相変わらず自転車を走らせて、学校へ通っています。
そうそう、今日は帰りに急な雨に降られて、ずぶ濡れだったよ。
そしたらタイヤがパンクして…もう散々…
昨日、私はカートに乗りました。
私の所有する自分の紅いカートです。
変だよね。自分のカートなのに、気持ち的には初体験で…
物凄いスピードで、ビックリしたよ。
ハンドルが重くて、今日はちょっと筋肉痛です。
とりあえず、私はハマりそうにはないですが、一緒に連れて行った亜希子がどうやら夢中になったみたい。
もう少し上手になったら、私のカートを譲ってあげるつもり。
そのお金で、一緒に旅行にでも行きたいな。
最近、初夏の暖かい風に吹かれながら青い空を見上げていると、少しずつ色々な事を思い出します。
和弥と二人乗りで自転車を走らせた事とか、一緒に防波堤に座って海を見ながら潮風に吹かれてた事とか。
でも、何でかおっきなカラスがそこにいて、ゴミをあさってるんだよ。
何だか記憶はとても断片的で意味不明のモノもあるけど、私の記憶は確実に増えています。
なんか変だよね。
携帯電話で何時でも声が聞けるはずなのに、こうしてメールばっかり打って…
でも、時間を気にせずに済むからいいよね。
夏休みに会えるのを楽しみにしています。
MAYU』
送信……




