【4】彼女の事情
辺りの草木がすっかり秋色に変った頃、真夕は二週間ほどで病院を退院し、3日間の自宅療養を過ごした後、学校にも通えるようになった。
久しぶりの自転車。左腕を庇って、右手だけでハンドルを操りながら小気味よくペダルを踏んで、高速の高架橋の下を抜けると右側に小さな丘が見える。薄く雲のかかった青い空をバックに聳えるその丘を見つめていると、近くに蚊が飛ぶような音が聞こえて、真夕は一瞬頭を振った。
何かのエンジン音のようだった。しかしもう一度丘を見上げた時、それはもう聞こえなかった。
学校の正門をくぐる行為が、とても懐かしくて、まるで何ヶ月ぶりかで学校へ来たような、奇妙な錯覚を感じた。
「マユ〜!」
加奈が後から走って来て真夕に抱きついた。
「もう、学校来れるんだ」
「うん。まだ、あちこち痛いけど」
そう言って真夕は苦笑しながら「だから、抱きつかないでね」
「あ、ごめんね。つい」
加奈は、小さく舌をだした。
加奈は高校に入って以来の一番の友人で、病院にも他の友達と何度かお見舞いに来た。
学校関係については、無くした記憶もほとんど支障は無かった。
クラスのみんなの事も忘れていないし、もちろん、周りのみんなは真夕の事を忘れたりはしていない。
どう言う訳か、勉強した事もほとんど覚えていた。
まぁ、覚えているといっても、もともと試験の為以外には、あまり身を入れていない勉強ではあるが。
「大変だったね、マユ」
教室へ入ると、晴香が声を掛けて来た。
彼女も、加奈同様、学校では比較的一緒に過ごす時間が多い。GIDだった真夕は身体的同性である女生徒達とも、少し距離を置いていた。確かに表面的にはみんなと仲良くしていたが、心の異性が何処かで線引きをしていたのだ。
「まぁね」
真夕は軽く返事を返す。
大変だったと言われても、確かに左腕はギブスが取れただけでまだ完全には使えないし、入院中も退屈で死にそうだった。
しかし、事故の記憶は無い為、その恐怖感などはまったく感じないのだ。
だから、事故の状況を話のネタにしようにも、真夕には話すことができないのだ。
「どうなったか、わかんないんでしょ」
晴香は真夕の前の席に腰掛けながら「ごめんね、お見舞い行けなくて」
「いいよ、すぐ退院だったし」
「事故の事、誰かに聞いたの?」
「うん。その場にいた友達には聞いたけど、実感ないのよね」
真夕が、呆気らかんと笑って見せたので、晴香も思わず笑ってしまった。
「あんた、無事だったから笑ってられるけど……」
加奈が隣の机に来て座った。
「凄かったの?」
やはり晴香は、その事に興味があるようだ。
「他の人の乗ったゴーカートがジャンプして、マユの頭にぶつかったんだって」
加奈は、大げさに身を乗り出して晴香に言った。
彼女は自分で見たわけではないが、和弥に一部始終を聞いていたのだ。
「ゴーカートじゃなくてカートだよ」
真夕が訂正した。
「でもあんた、乗ってた事すら覚えてないんでしょ」
加奈にそう言われると、真夕も「まぁね」
そんな感じで、今日はいろんな人にあれこれ質問攻めになって、その度に加奈が説明役を引き受けるのだった。
和弥は既に、真夕が入院した翌日から、あちこちから質問を受けていた。
真夕を気にかける男子生徒がこんなにいたのかと、彼自身びっくりしたほどだった。
一番初めにその事で声を掛けて来たのは、橘圭吾だった。
彼は、香織との待ち合わせをした真夕をその喫茶店まで自転車で送って行った事がある、香織いわくアッシーくんだ。
「刑部が怪我で入院って、本当か?」
和弥は、彼の勢いに押されながら「えっ、あ、ああ。ちょっとな」
和弥は、言いよどんだが、しつこく迫られて、事故の経緯を話した。
すると、次から次へと、名前も知らない奴や、終いには先輩や後輩にも呼び止められた。
「マユ先輩って、何気に人気あるのよ」
たまたまその様子を見ていた朋子が寄ってきて言った。
「ああ、もう、何度も同じ事を言わされたよ」
和弥はそう言って肩をすくめた。
「でも、良かったね。よくなって」
朋子の笑顔に、和弥は少し素っ気無く「ああ…」
よかった……か。真夕は完全な女になってしまった。
もちろんそれは、この学校の誰も知らない事だ。みんなにとっては、ずっと以前から、真夕は女の子なのだから。
それを素直に喜ぶべきなのか、和弥の気持ちは相変わらず複雑だった。
千夏に和弥、そして秀雄。実の母親も含めて、真夕のGIDを知っていた者は現状に困惑するばかりだった。