【8】約束
不快な喧騒に満ちたその場所は、妙に落ち着かない空間だった。
何処を見ても警察の制服がウロウロと何かをしてる。一見役所のような仕事さばきだが、紺色の征服が余計な緊張感を生むのだ。
「たくよう、最近のガキは何考えてんだか」
香織と真夕が椅子に腰掛けてしばらくした頃、二人の前を一人の男が通りかかった。
「マサヤ……」
香織が男の顔を見て、急に立ち上がった。
「おっ、何だ香織か。久しぶりだな」
色黒の男はそう言って笑うと「何やってんだよ、こんな所で」
「別に、ちょっと用事」
香織は素っ気無く言うと「あんたこそ、薬でも見つかったの?」
「おいおい、バカ言うなよ。俺は被害者だぜ。被害者」
マサヤは自分の腫れた頬を指差して言った。
「被害者?」
「ああ、今日変なガキがいきなり俺に飛び掛って来てよ、お前なんか知らねぇっての」
マサヤは再び笑うと「店の店員に速攻捕まって、今この上にいるんじゃネェの」
そう言って、天上を指差した。
「ま、俺も最近は温厚になったから、傷害の被害届は出さない事にしておいたけどな」
彼は自分の事だけ喋ると、濁った瞳で笑って「じゃあな」
と、足早に署内から出て行った。
“上にいる男”が秀雄の事だと、香織も真夕もすぐに気付いたが、香織だけは秀雄の殴りかかった理由が判った。
マサヤこそ、香織を妊娠させた男なのだから。
冗談だと思っていた……秀雄は本気だっだ。
秀雄は香織が中絶した直後の病室で彼女と約束したとおり、彼をぶん殴ったのだ。
街中で見かけたマサヤに、秀雄は躊躇する事無く飛び掛ったに違いない…… 自分が進学校の生徒だと言う事も顧みずに……
香織はマサヤの事なんて、もうどうでもいいと思っていた。何処かでばったり出くわしたとしても、冷ややかに笑い飛ばしてやろうと思っていた。
あんなチキンヤローの事なんて、考えるだけ時間の無駄だと思ったし、しっかり前を向けばそこには秀雄がいたから。
でもあの男には、香織に対して何の罪の意識も無かった。悔悟の欠片も無い…
まるで何事も無かったように声を掛けてくるマサヤの心情が信じられなかった……
香織は煮え滾る気持ちを何とか押し沈めて、マサヤの後ろ姿を無言で見送った。
「あれ、誰?」
「元彼」
香織は真夕の問いかけに素っ気無く応えて、再び長椅子に腰を降ろした。
「じゃあ、秀雄が殴った相手って……」
「そうね。あたしを妊娠させてバックレたダサ男」
香織はそう言ってやるせなく笑った。
この時、真夕にも秀雄がどうして自分から手を出したのかが理解できた。
それにしても、妊娠させて逃げた相手に、あんなに気軽に話し掛けて来るものなのだろうか…… 真夕にも、マサヤの神経が理解出来なかった。
「あんなショボイ男放っておけばいいのに…… 秀雄もバカだよ」
香織は、笑い飛ばすようにそう言って俯いた。
それは、秀雄が香織の事をそれだけ大切に思っている証拠だよ…… 真夕はそう言いかけてやめた。
香織の瞳に涙が滲んで、それを一生懸命堪えているのが判ったから。
一階のフロアーは交通課の窓口になっているらしく、引っ切り無しに人の出入りがあって、時折違反キップの事で窓口の婦警と口論している声が聞こえて来た。
緊急通報か何かで、裏口へ駆け出す警官の姿も見えた。直ぐにパトカーのサイレンの音が外に鳴り響いて、あっという間に遠ざかって行く。
香織も真夕も、何だか重苦しい空気にほとんど言葉を交わさないまま、時間だけがゆっくりと、しかし何時の間にか過ぎていった。
二人を包む時間の波は、とてつもなく暗たんとして、周囲から聞こえる混沌としたざわめきだけが耳に響いていた。
香織と真夕が再び硬い長椅子に座って1時間以上が過ぎた頃、二階の階段へ通じるドアから千夏に連れられて秀雄が出てきた。
香織は秀雄の姿を見ると、弾けそうな心を堪える事が出来なかった。
彼に駆け寄って思い切り抱きついた。何事かと周囲の人間が振り返ったが、そんな事は彼女には関係無かった。
「あんた、S高行ってる割には、けっこうバカなんだね」
彼女はそう言って、秀雄の身体に力いっぱいしがみ付いた。
千夏はその光景を少しだけ羨ましく思った。真夕は、目の奥が途端に熱くなった。
「おいおい……なんか俺、出所した気分だな……」
秀雄は周囲の視線を感じながら、苦笑いを浮かべて呟いた。