【3】ひとみの奥
真夕は事故に遭ってから1週間、意識が無かった。
大きな外傷は、左腕の骨折のみで、首のムチ打ちはあったが頭部はヘルメットが守ってくれた。
それでも記憶障害を起こすほどの衝撃が彼女の頭部を襲ったのだ。ヘルメットは二度と使用できる状態では無かった。
彼女が病院のベッドで横たわっている間に、窓から見える銀杏や楓の木は、あっという間に紅や黄色に葉の色を変えていった。
窓から入る風もだいぶ秋めいて、やけに早い夕暮れを過ぎると、それは冷たく乾いていた。
「元気?」
病室の入り口から、ノックの音と共に声が聞こえた。
それが香織だと言う事は、真夕にも判った。一緒に、秀雄の姿もあった。
「香織、秀雄。なんか、久しぶり」
「なに、呑気な事言ってんだか」
香織が笑って、「はい、差し入れ」
そう言って、お菓子とジュースの入ったコンビニ袋を差し出した。
「元気そうで、安心したよ」
秀雄が言った。
「バイクで来たの?」
真夕の質問に、秀雄は少し驚いて「あ、ああ」
「あれ?あたし、秀雄がバイクに乗ってるって、知ってたっけ?」
秀雄と香織はちょっと顔を見合わせて
「うん、知ってていいんだよ」と声を揃えて応えた。
こんな具合に、所々の記憶が無意識に出る場合がある。
「そう、よかった」
真夕は笑って「香織、雰囲気変ったね」
今の真夕には、バッチリと目の周りに気合の入った香織の記憶しかない。
秀雄と付き合うようになって、あまり化粧をしなくなった香織の印象は、真夕には新鮮に映るのだ。
「イメチェンだよ」
香織は、何時もと変わり無い笑顔を見せて笑った。
細かい事を気にせず、人と付き合えるのは彼女の一種の長所だ。勿論、それが結果として短所になる場合もある。
しかし秀雄には、その様子がなんだか寂しいものに映るのだった。
あれだけ色々な事があった夏。そこで自分と真夕は和弥に負けないくらいの信頼関係を築き上げたと思った。
香織にしても、畑違いの知り合いに過ぎなかった二人は、何時の間にか親友に変っていた。
それが全て無かった事になるのだ。
元々社交的な真夕の事だから、親しさを取り戻すのは容易いだろう。しかし、その先にあった信頼関係は取り戻せるのだろうか。
秀雄は和弥からの電話で、真夕のGIDの症状が消えた事を聞かされていた。
ここに居るのは、正真証明女性の真夕……
香織と笑いあう少女の姿を、秀雄は不安と戸惑いの思考の中で何時の間にか見入っていた。
再び軽いノックの後に、病室の扉が開いた。
「あ、チカさん。久しぶりぃ」
香織が手を振り、秀雄が小さく頭を下げた。
この人が千夏さん…… 和弥が言っていた人だ。
「こ、こんにちは」
真夕は、できる限りの笑顔を見せた。
しかし、困惑した笑みには変わりは無かった。
顔には何となく見覚えがある。しかし、親しかった記憶が無いのだ。
「いいのよ。はじめまして。でも」
千夏が冗談っぽく笑って「はい、差し入れ」
と、ケーキを差し出した。
4人で姦しいくらいに話が弾んで、ワイワイとケーキを一緒に食べた。
秀雄の誘いで、千夏は時間を合わせて見舞いに来たのだ。人が集まれば、きっとこんな風に賑わうだろうと思った。
真夕の記憶の無い事など忘れてしまいそうなほど、4人は親しく話しこんだ。
しかし、千夏の心の中は複雑だった。
真夕は、彼女はもともと女の子なんだから、これでいいのかもしれない。そうよ、かえって良かったんだわ。そう自分に言い聞かせても、特別な感情が急に消えて無くなるわけではなかった。
ただ、千夏の心が揺れ動いた時に感じた、真夕の瞳の奥に在った何かは、もう感じる事は無かった。
千夏から見ても、真夕は普通の少女に過ぎなかったのだ。
私の好きになった、彼女。いえ、刑部真夕という「彼」は、もう何処にもいない。私の愛した彼は、まるで幻影のようにこの世から消えてしまったのだ。
千夏は、心の中を見透かされないように、何時もより大げさに笑って見せた。